#07 百一回目のサヨナラ

 気が付くと、わたしは駆け出していた。

 自分の意志で走り出したわけじゃない。この後の展開を、記憶の通りに身体がなぞっているだけ。間違いなく自分の身に起きた出来事なのに、あたかも夢を見ているかのような現実感の無さと虚無感が、わたしの心を完全に支配していた。

「透くん……透くん! 透くん!!」

「いや、いや……透くんっ、透くんっ! しっかりしてっ、透くん!!」

 わたしが叫んでいる。透くんの名前を繰り返し繰り返し、狂ったように叫び続けている。この世の終わりかと思うほど心をかき乱されて、身を引き裂かれそうな思いを味わっていたはずなのに、今のわたしはただ、過去の自分の姿をそのまま受け入れることしかできない。動かなくなった透くんを抱きしめる腕も、痛みを覚えるほどに涸れた喉も、確かに自分の感覚だと理解できているのに、心はただ渇ききって、現実を受け入れることに終始している。

 そう。これは、本当に起きたこと。紛れもない現実で、過去に経験した出来事のプレイバック。

 ただ――わたしが触れないように、自分で記憶を封じ込めていただけのことだった。

(これが、現実)

 救急車がやってきて、透くんを担架に載せる。覚束ない足取りで、わたしも乗り込む。

 何の反応も見せない透くんに繰り返し名前を呼び掛けて、もう一度目を開けてと懇願する。

 搬送先の病院へ辿り着くや否や、目を覚まさないままの透くんがどこかへ運ばれていく。

 隅にある小さなベンチに腰掛けたまま、永遠とも思える時間を過ごす。

 気が付くと、透くんのお母さんがやってきて、わたしに声を掛けた。無言のまま、ただ頷くことしかできない。

 しばらくしてから、わたしのお母さんも姿を見せた。記憶には無いけれど、どうやらわたしが連絡したみたいだった。

 それから、どれくらいの時間が経っただろう。

 

「残念ですが、成田さんは――」

 

 お医者さんから出掛かった言葉。それをすべて聞き終える前に、わたしの記憶は途切れていた。

 わたしは、やっと理解した。

 あの日何が起きたのかを、どうして同じ一日をずっと繰り返していたのかを。

(九月二十日の繰り返しは、わたしが望んだこと)

(楽しい記憶に浸って、その先にある現実を受け入れようとしなかった)

(でも、そうしてあの日を繰り返しても、もう、透くんは帰ってこないんだ)

(あの日を変えることは、できないんだ)

 目の前が白く染まっていく。

 何かが終わっていくという感触が、わたしの身体をいっぱいに満たしていく。

 瞳に映るすべてが、穢れの無い白に染まる瞬間。

(……透くん)

 微笑む彼の姿が、見えた気がした。

 

「――ゆり、由利……由利!」

 自分を呼ぶ声が聞こえて、わたしはハッと目を開ける。

 懐かしい声、聞き覚えのある声、あたたかな声。

「おかあ、さん……」

「ああ、由利……! よかったわ、目を覚ましたのね……!」

 少しだけぼやけた視界に映った人の姿。それがわたしのお母さんだと気付くまでには、ほとんど時間は掛からなかった。だんだん明瞭になってきたお母さんの目は赤くなっていて、涙がいっぱいたまっているのが見えた。

 ゆっくりと周囲を見回す。殺風景な天井、少し固いベッドの感触、鼻をくすぐる微かな薬の匂い。曖昧な記憶と五感から伝わる情報を組み合わせて考えて、わたしは今病院にいるんだということを認識した。

「お母さん……ここ、病院……?」

「そうよ、由利。千歳大学病院だわ」

「わたし、透くんと出掛けて、事故に遭って、それで……」

「ええ、そうよ、その通り。成田くんが事故に巻き込まれて、ここへ搬送されたの。由利に怪我は無かったけれど、病院で急に倒れて……今までずっと眠ってたのよ」

 お母さんがわたしの頬に手を当てる。ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、あなたが目を覚ましてくれてよかった、ずっと眠っていたらどうしようと思っていたと繰り返すお母さんの姿を見つめる。ずっとわたしのことを心配してくれてたんだと思って、わたしは胸にこみ上げるものを感じた。

 そうして、ふと右手に目を向けると。

(今日は、九月二十五日……)

 カレンダー機能付きのデジタル時計が、「今日」の日付を表しているのが見えて。

(もう、九月二十日じゃないんだ)

 繰り返され続けたあの日が終わったことを、わたしは実感した。

 あの日――九月二十日に起きた出来事は、何もかもすべてが現実だったんだ、と。

「だれど……由利にはひとつ、辛いことを言わなきゃ……」

「……透くんのこと、だよね……」

「……えっ?」

 自分が言うよりも先にわたしが先に透くんの名前を出したことを、お母さんはひどく驚いていた。

 でも、わたしにとって――それは、受け入れなきゃいけないことで。ずっと以前から、心の奥底では理解していたことで。

「透くんは事故に巻き込まれて、わたしの前からいなくなった。そうだよね……?」

 わたしの言葉を受けたお母さんが、声をつまらせながら、たくさんためらいながら。

「……そうよ、由利。由利の、言う通りよ」

 やがて、ゆっくり首を縦に振る。わたしは張り裂けそうな胸を抱えて、お母さんの瞳の奥を、ただただまっすぐに見据える。

「わたし……辛いけど、苦しいけど、でも……生きていくよ」

「前へ進まなきゃいけないって、わたし、分かったから」

「やっと……やっと、分かったから……っ」

 受け入れることで始めて、ループを破って前へ進んでいけると、透くんが教えてくれたから。

「現実の世界で、透くんのいない世界で」

「必ず明日がやってきて、二度と同じ日を繰り返さない世界で」

「わたしは、生きていくから」

 この世界は、痛みと苦しみで満ちている。

 ずっと同じ日がやってくれば、幸せな日が繰り返されれば、もしかすると、苦しまずに済むのかもしれない。

 けれど――同じ日がやってこないからこそ、明日はやってくる。

 新しい日が、それまでとは違う日がやってくるんだ。

「……ありがとう、透くん」

 わたしは、透くんにお礼を言って。

 

「――さようなら、透くん」

 

 そして、最後の別れを告げた。

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