#06 最後のループ
「……透くん……」
目が覚めると同時に口にしたのは、最愛の人の名前だった。
知らず知らずのうちに頬を涙が伝う。瞼の熱が、この涙は感情の高ぶりが齎したものだということを実感させる。拭っても拭っても、涙は止めどなく零れ落ちてくる。
前の日は事故に遭っていなくて、ループを破るようなこともしていないにも関わらず、わたしは再び今日の朝を迎えた。いつもと同じ朝、透くんとデートをするあの朝。九月二十日の、六時半。
「……そっか」
「そういう、ことだったんだ……」
けれど、わたしには分かる。はっきりと分かる。
「辛いよ……」
「こんなのって……無いよ……っ!」
今日が――最後の「今日」になるってことが。
バス停で待っている透くんに、声を掛ける。
「透くん、お待たせっ」
「おはよう、神戸さん。僕も今来たばっかりだよ」
「よかったぁ。待たせちゃってたらどうしようって、来る途中ずっと心配だったから……」
「この時間に待ち合わせしようって言ったのは僕だから、待ったとしても、それは僕の望んだことだよ」
透くんはいつでも、こうやってわたしを優しく出迎えてくれる。
定刻通りに、バスがやって来る。
「来た来た、あのバスだね。神戸さん、乗ろうか」
「うんっ」
透くんに手を引いてもらって、バスに乗り込む。彼の手のぬくもりがじいんと伝わってきて、まるで素敵な夢を見ているかのような、うっとりとした気持ちになる。
バスは順調に走って、遊園地に、ミッドナイトファンタジーパークに到着した。
「透くん透くんっ、早く早くっ!」
「こんなにはしゃいでる神戸さんを見るの、初めてだよ。遊園地、好きなんだね」
「うんっ。小さい頃からね、よく遊びに行かせてもらってたんだ」
昇降口から降りた先に広がる、文字通り夢の世界に、わたしは童心に戻って瞳を輝かせる。無邪気に声を上げるわたしを見つめる、透くんの優しい視線。
今日はまだ、始まったばかり。
「コーヒーカップって、こんな感じなんだ。初めて乗ったよ」
「そうなんだ。くるくる回って、不思議な気持ちになるよね。わたし、これ大好き」
「うん。さすが、神戸さんが一番に乗りたいって言うだけのことはあるよ」
一番最初に乗るのは、大好きなコーヒーカップに決めていた。小さなカップに二人でいっしょに乗る様子がいかにも恋人同士みたいで、一番初めはこれしかないってずっと思ってた。
「透くん、透くん。わたし、今すごく幸せだよ」
「神戸さんが僕といっしょにいて幸せだって思ってくれるなら、僕はもっと幸せだよ。こんな風に、ふたりで笑いあえたらいいなって思ってたからね」
そう、幸せ。とても幸せ。
すごく幸せ――だった。
「いつもは馬に乗るけど、今日は透くんといっしょだから、馬車だよ」
「神戸さんが馬に跨ったら、さしずめ戦うお姫様ってところかな」
「それだと、どっちかと言うと、乗ってる馬の方が強そうに見えちゃうよ」
コーヒーカップの後は、メリーゴーランド。二人で馬車に乗って、くるくる回る景色を楽しむ。同じところを回っているはずなのに、決して飽きることのない景色。
「こんな風に、ずっと回っていられたらいいよね」
そう思っていた。
そう思っていたことも、あった。
「あー……気が抜けちゃった。最初にガタゴト音を立てながらレールを上がっていくところ、やっぱり緊張するよね」
「上がって上がって、わーっと落ちてく。醍醐味といえば醍醐味だけど、どこまで落ちてくんだろうって、不安になるかな」
「こうやって地面に立って歩けるのが、すごくありがたく感じるよ……」
勇気を出して乗ったジェットコースターは、怖かったけど、楽しかった。すごく楽しかった。
たっぷりスリルを味わった後は、また、ほんのりした甘さがほしくなって。
「透くん。また……手、つないでくれる?」
「もちろん。断る理由なんて無いよ」
「せっかくだから、ちょっと辺りを散歩しない? ここ、歩いてるだけでも楽しいからさ」
二人で手をつないで、少し園内を散歩することにする。
「神戸さんの手はあったかいね、血が通ってる証拠だよ」
これが、本当の意味で最後になると――わたしには、分かっていたから。
「ゴーストハウス……お化け屋敷、だね。せっかくだから、入ってみる?」
「ううん……わたし、怖いのは苦手だけど……でも、透くんとふたりなら大丈夫。行こっか」
散歩をしているうちに、ゴーストハウスを見つける。ちょっぴり怖かったけど、透くんといっしょなら大丈夫。わたしは気持ちを引き締めて、おどろおどろしい内装の館へ足を踏み入れていく。
隣に透くんがいてくれる時間は、もう多くは残っていない。だからこそ、いっしょにいた時の記憶を、共に過ごした時間を、心に焼き付けておきたかった。
「と、透くん……もう外だよね? 向こうから、お化け、わーって出てきたりしないよね……?」
「あははっ。そんな半べそにならなくたって、大丈夫だよ、神戸さん」
「だって、怖かったんだもん……窓に張り付いてこっちに来そうだったし、足つかまれそうだったし……それに、中が迷路になってるだなんて、聞いてないよぅ」
やっとの思いでゴーストハウスから出てきたわたしを、透くんがおどけながら慰めてくれる。
「お化け屋敷に迷路を組み合わせてたのはよかったね。出られないかも、って怖さがあるし」
「もう、そんな冷静に分析とかしないでっ。出られなかったらどうしようって、すごく不安だったんだもん」
「出られないなんてことはないよ。出ることを諦めなければ、必ず出口は見つかるからね」
そう、透くんの言う通りだ。出ることを諦めなければ、必ず出口は見つけられる。
それが――望んだ形かどうかは、分からないけれど。
「もう夕方かぁ……なんだか早いね」
「なんだかあっという間だったね。楽しい時間ほど早く過ぎるなんて、よく言ったものだよ」
時間が経つのは早い。同じ時間を繰り返してきたから、なおさらそう思う。
「ねえ、透くん。最後に……」
「――観覧車。そうだよね?」
観覧車に乗りたいな。わたしがそう言い終わる前に、透くんが先に、観覧車という言葉を口にした。
「……うん。そうだよ、透くん。ホントにその通り」
「最後にね、ふたりでいっしょに、観覧車……乗りたいな」
わたしはもう驚かない。驚かずに、そのまま次の台詞を口にする。
これが本当の最後になると、分かっているから。
「本当は向かい合って座るのを想定してるみたいだけど、ここ、ちょっと幅があるからね」
「うん。となり同士で座れば、透くんと同じ風景を見られるしね」
観覧車が、空へ少しずつ近づいてゆく。だんだん小さくなってゆくミッドナイトファンタジーパークの全景を眼下に収めて、わたしは思わず息を飲む。遊園地全体が夕陽に照らされて、まるで、赤く燃え上がっているかのよう。そして――こんな素敵な光景を、大好きな透くんといっしょに、ふたりで見ることができた。
まるで、すばらしい夢を見ていたかのような、幸せな気持ちだった。
「綺麗な景色だね。本当に、すごく綺麗だ」
「最後にこれを見られて、僕は心からよかったと思うよ」
遊園地デートの締めくくりに、観覧車に乗って夕暮れ時の空を見る。お相手は、大好きな透くん。こんな風にできたらいいなって、ずっと憧れていた、恋人同士のおつきあい。その舞台に、他の誰でもない自分が立っていたんだ。心からそう実感して、幸せな気持ちがあふれてきて、不意に、目頭が熱くなった。
わたしは――。
「透くん……」
ゆっくりと口を開く。
「わたし、すごく幸せだった」
「こんな風に、素敵な場所で、素敵な風景を見ながら、素敵な人といっしょにいられた」
「すっごく、嬉しかったよ」
幸せだった。いっしょにいられた。嬉しかった。
すべては、遠い昔の、過去の出来事。
もう、どれだけ願っても、決して取り戻せない、
涙をぽろぽろこぼすわたしに、透くんはすっと人差し指を差し伸べて、涙をぬぐってくれる。やさしく手をにぎったまま、そっと目元へ指を当てて、あふれる涙をすくい取る。
「泣かないで、神戸さん。神戸さんが泣いてると、僕は君の手を離せない」
「涙はとっておいてよ。これからの、たくさんの素敵なことのために」
うん、ありがとう、透くん。
本当に――ありがとう。
わたしはお礼を言って、手のひらでたまった涙を拭いた。涙で少しにじんだ視界に、一面橙色に染まった、ミッドナイトファンタジーパークの全景が広がる。
透くんにつないでもらった手を握り返して――わたしは、わたしが間違いなく、透くんといっしょにいたんだってことを、もう一度強く噛みしめた。
強く、強く、とても、強く。
夢は現実の続き。現実は夢の終わり。
楽しい時間は瞬く間に過ぎて、わたしと透くんは帰路についていた。来たときと同じように路線バスに乗って、最寄りのバス停まで帰ることになる。ショップで買ったたくさんのおみやげを手に提げて、ミッドナイトファンタジーパークで過ごした素敵な時間の余韻を味わいながら、透くんとわたしは歩いていく。
遊園地を出てすぐに、長い横断歩道に出くわす。バスは反対側の車線に停まるから、ここを渡って向こう側へ行かなきゃいけない。赤信号が青になるまで、その場でしばし待つ。
(透くん……)
顔を上げて透くんを見やる。わたしが視線を投げかけたのに気づいて、透くんはふんわり、やわらかく笑って見せる。その顔を見ていると、いつまでもずっと、離れたくないって気持ちになる。
わたしの胸が、このままずっと、透くんとふたりでいたいという思いで、いっぱいになっていく。
――けれど。
(分かってる)
(いっしょには、いられないんだって)
共にありたいという気持ちを、涙をこらえて、心の中で押し殺す。
次に目にすることになる光景を、わたしは決して忘れない。
(もう二度と、忘れることはしない)
ふと前を見ると、歩行者用の信号が青に変わっていた。いつものサイクルなら、わたしはここで透くんと手をつないで、横断歩道を渡るところだ。けれど、わたしは手を伸ばさない。透くんは自然と、ひとりで横断歩道を渡り始める。
少しずつ、少しずつ遠ざかっていく透くんの姿を、わたしは最後の最後まで、目に焼き付ける。
透くんと手をつながずに、横断歩道をいっしょに渡らない。これは普段のループと違う行動。こんなことをしたら、また視界が灰色に染まって、今日の朝にリセットされるはず。けれど、リセットは起きない。明瞭な、とても明瞭な視界のまま、透くんがひとりで前へ歩いていく。
今思えば、透くんの言葉にすべての答えがあった。本当の、このサイクルを繰り返す前の、正真正銘の最初のデートの時は、あんなことを言っていた記憶なんか無かった。
(最後にこれを見られて、僕は心からよかったと思うよ)
奥底に隠したわたしの記憶。決して思い出したくない、真実の記憶。
けれど――それと向き合わない限り、今日が終わることは決して無いんだと、わたしはようやく気がついた。
(……来る)
ピピーッ、という、耳をつんざくような、あのけたたましいクラクションの音が聞こえて。
反射的に視線を左へ向けると、透くんの向こう側から、あの大きな車が迫ってきているのが見えて。
あのクラクションの音が聞こえて、あの大きな車が迫ってきているのが見えて。
――そして。
どん、という、低く、鈍い音とともに。
わたしの最愛の人の体が、あたかも風に吹かれた落ち葉のごとく、軽々と宙を舞った。
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