始まりの依頼 2

その日、サンソンは苛ついていた。

街の最大勢力、通称「灰色の女」ことクルエラへの挑発行為に何の反応もない事。他の勢力はおろか警察も動いていない事。まるで何事も無かったかのように無視された事。この相手にもされていないようなこの反応に、サンソンは酷く自尊心を傷つけられた事が苛立ちの原因だった。

本当のところはクルエラの命令で警察も誰も手を出すなと触れ込みがあったのだが、そんなことは露ほども知らぬ男は一人苛立っていた。

そして新たな苛立ちにイライラと足を動かす。


それはこの渋滞のせいだ。

今日は大口の取引があるというのに、かれこれ1時間も立ち往生を食らっている。取引に遅刻するということはサンソンにとって許しがたい行為だった。彼の性格がそうさせるのか、顧客との信頼関係を気にしてのことか、時計を頻りに見ては動かぬ車の列を怨めしそうに睨む。


「動かねぇぞ、オイ!工事でもしてるのか畜生め…!ここはこんなに混む道じゃなかっただろ!」


「は、はい…ボス。その筈なんです」


「チッ……後ろも左右も前も車車車車。引き返すことも出来やしねえ!お前、道の混み具合も予想できないのか!これで取引に支障が出たらタダでは済まさんからな。あの灰色女も尻尾すら出さねえし、俺を馬鹿にしやがって…クソッ」



機嫌の悪いボスに怯える運転手を見下ろしていたJ.D.は、車の長い列へと視線をやる。このプランのために作られた渋滞である。クルエラの影響力、本気度が伺い知れる。あの女を敵に回すべきじゃなかったな。と心の中でお悔やみを述べ、眼下の車へ狙いを定める。


J.D.が立っているのは五階建てビルの屋上。

丁度この下にサンソンの車が来るように誘導されている。運転手の顔も確認した。


落ちる。


彼の腰に命綱の類いはない。軽く跳躍をするように屋上から飛び降りた。狙い通り、真っ直ぐにサンソン車のボンネットへ落下する。

刹那、車が紙のように宙へ舞い上がり、空中で一回転しグシャリと仰向けに着地した。衝撃で車の窓という窓が割れ、ダイヤを撒き散らしたように装飾した。


それを眺めていた他のドライバーたちは、ある者は何事もなく前進し、ある者はバックし消え去った。ひっくり返り煙をあげるサンソンの車以外居なくなった道路には、コートに付いた埃を払うJ.D.が車を覗き込む姿があった。


丁度サンソンが這い出てくるところだ。

中肉中背。ナチュラルパーマの赤髪と少し蓄えた顎髭の似合う、一見すると俳優でもやっているような男。クルエラから依頼されたサンソンという男の特徴と一致する。一方で「助けて神様…」と啜り泣く声が車の中から滲み出ている。おそらく運転手のものだろう。


「おう、ちゃんと生きてた」


「何が…どうなって……お、お前は誰だ…!」


上物のスーツが所々破れ、浮浪者のような格好になったサンソンは何とか立ち上がり目の前の男を睨む。

くすんで無造作に伸びたブロンドを後ろで適当に結び、無精髭を生やした男、J.D.はサンソンよりかなり背が大きく、ヌッ…としたダルそうな印象を受ける。


「悪いが来てもらおうか。無駄に抵抗しないでくれよ」


クルエラがお前の体の隅々まで愛でてくれるらしいからな。という言葉を飲み込み、J.D.はサンソンに近付く。が、怪訝そうな表情を浮かべ立ち止まる。


護衛もやられ、逃走手段もなく、なす術もない筈なのにサンソンからは戦意の喪失がみられない。ただの悪足掻きとも自棄を起こしたものとは違う、笑みがサンソンにはあった。


「出てこいアンジェリカ!」


サンソンの金切り声にも似た命令が発せられると、仰向けに転がっていた車の歪んだドアが開き、小さな足音が道路に響く。

雑じり毛のない見事なプラチナブロンド、フランス人形のように整った顔、ブルートパーズの如き瞳、純白のワンピースを着た小さな少女がJ.D.の前に降り立った。


J.D.の表情が曇る。

この少女に関する事前情報はなかった。サンソンの周辺を嗅ぎ回った際も影すら見掛けなかった。

サンソンの崩れぬ自信が何故少女にあるのか、見当がつかなかった。


「何の真似だ。人質か?」


「人質だと?まだ自分の置かれた立場が分かっていないな。お前はおしまいだ、終わりさ。誰の差し金かはこの際どうでもいい。俺の命を狙ったことを後悔しながら死んでいけ!」


この時J.D.は気付くべきだった。

少女の服が汚れ一つ無かったこと。少女が怪我一つしていなかったこと。人質でないのならば、何なのか。


気付いた時、J.D.の体は吹き飛びビルの壁を突き破っていた。

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