梅の鎖

尾塚まい

梅の鎖

 あの庭の梅の木を、切り倒す夢を見た。



 携帯電話が高らかな音で鳴った。

 突然の音に、隣にいた老婆が、嫌みたらしくこちらを一瞥する。居心地悪そうに俯いて、麗花はバックから折り畳み式の携帯電話を取り出した。夏に移りゆく日差しを受けて、機体の青がきらりと光った。

 携帯電話の画面には「メール一通」と無機質な文字が浮かんでいる。目が痛くなるほど規則正しく並ぶボタンを素早く押すと、画面が切り替わり、メールの内容が映し出された。


 今どこにいるの?


 送信先を見れば、案の定、母の携帯電話からだ。

 家族で入ると安くなるというコピーにつられて、母と同じ携帯会社に入った。今はそれを少し、後悔している。

 先ほど自分を睨んだ老婆が身じろぎしたのを感じて顔を上げると、混雑する道路の奥に広告で派手に化粧されたバスが現れた。バックから、深緑の定期入れを取り出す。母から貰った物だ。そういえば、深緑は嫉妬の色だと、どこかで聞いたことがある。

 信号が切り替わり、車の列が動き出した。バスはゆったりとした動作で駅前のロータリーに入り、空気の悪い音を立てて、やがて目の前で停車した。麗花は携帯電話をバックに戻した。

 土曜のこの時間では、乗車する客も少ない。十人程度の老若男女が、順にバスの中に入り込んでいく。麗花も老婆に続いて、乗り込んだ。暑いとも涼しいとも言えないこの季節には、冷暖房も起動していない。

「三十八分の発車です」

 低い声が、スピーカーを通して車内に響く。

 麗花は最後列の席に座り、腕時計に目を落とした。そのとき、再び携帯電話が鳴った。どき、と心臓が跳ねる。周囲の客は日常茶飯事なのか、誰も反応を示さない。先程の老婆も、優先席でウトウトと瞼を下ろしている。

 慌てて機体を開くと、画面上に「メール一通」と表示されている。ボタンを押すと、何行かの文字が画面上に表れた。


 何時頃帰るの? 誰かといるの? 電話して。


 母だ。麗花は重い溜息をついた。仕方なく、返信を選び、適当な言葉を打っていく。


 今から帰る。バスに乗ったから、あと二十分くらい。今日は美菜と遊んでた。帰ってから話す。


 内容を確認してから、ボタンを押し、送信させる。紙飛行機が飛んでいくアニメーションの後に「送信しました」と文字が出たのを確認して、携帯電話を閉じた。それから、思い出したように再び開いて、マナーモードに替えた。これ以上、母のメールに気づきたくなかった。

「発車します」

 背もたれに身体を預けると、少しして運転手がマイク越しに呟いた。エンジンのかかる音が長細い車体を揺らす。車は迂回をしながら、元来た道へと動き始めた。

 ふと、花柄のスカートがよれているのを見つけて、座り直した。ヒールを履いてきた所為か、足の裏が痛い。座れてよかった。バックから鏡を出して自分の顔を映し出すと、マスカラが目のまわりを薄く汚していた。口紅もとれている。バックの中に手を入れ、化粧ポーチを掴みかけたが、もう帰るだけだし、と麗花は諦めた。

 窓から見える都会的な景色に目を向ける。百円ショップやドラッグストア、無数のコンビニ、ファストフード店。どれも三、四年前には姿さえ現さなかった。街というのは、何と素早く変化してしまうのだろう。

 三、四年前。

 父が死んだ頃だ。三年前の十一月。風の強かった日。父はベッドに伏せたまま、ゆっくりと息を引き取った。昔から入退院を繰り返していたから、いつかは訪れると思っていた。麗花は動じなかった。部屋に帰ったときに、一筋涙が零れただけだった。

 母はずっと無口だった。簡単に一言二言話すだけで、部屋に閉じこもるようになった。一ヶ月過ぎた頃、ようやく麗花と少しずつ、感情を吐き出すようになった。

 それからだ。母の干渉が厳しくなったのは。

 バスが一つ目の停留所で止まった。一人、買い物袋を二つ持った中年の女性が、慌てて出口から降りていった。扉はすぐに閉まり、再び車が揺れ始めた。

 家に帰ってくると、母はそれとなく、しかし否応なく、一日何をしていたのか、話をするよう求めた。どこにいて、どこに行って、何を食べて、何を飲んで、何を買って、何円使って、誰と会って、誰と話して。麗花が話さないと怒り始め、終いには泣き始める。そうすると、麗花は話さずにはいられなくなるのだ。

 わかっている。なぜ、そんな風に母がなってしまったのか。父が死んでしまったからだ。二人きりになってしまったからだ。頭ではわかっていても、自立しようと成長する心と体が、その強引さに微かな反抗を示した。父が死んでしまったことを悲しんでいないわけではない。自分にとっても、家族はもう母ひとりしかいないのだ。しかし、その事実と、自分がこれほどまでに拘束されなければならないことは、別問題だと思った。

 一度、あまりの母の執拗さに強い反抗心を抱き、何も連絡せず家を飛び出したことがあった。中学二年の夏休みだ。友人の美菜の家に泊まり込み、丸二日、母との接触を断った。美菜の母親から、母から何度も電話があって、かなり心配しているから帰った方がいいと言われ、ようやく帰宅した。

 母はやつれていた。眠っていないのか、目の下には隈が浮き出て、化粧も顔のあちらこちらに汚く残っていた。台所はインスタント食品のゴミで溢れ、部屋もテーブルもカスだらけだった。

 母は麗花にすがりつき、泣きじゃくった。どうして何も連絡してくれなかったの。どうして出ていったの。どうしてママを一人にしたの。パパだけでなく、あなたも失うのかと思った。もうたくさんよ。あなただけはそばにいてちょうだい。もうふたりだけなんだから。ママがいるんだから。

 涙が出た。気がついたら、必死に謝っていた。ママ、ごめんなさい。もうしないから。

 バスがゆっくりとスピードを緩め、二つ目の停留所で停車した。三人、乗客が降りて、一人の女の子が乗車してきた。

 バスは再び動き始める。窓から見える景色は、どんどんと都会の雰囲気を捨てていき、木々や平凡な家々が顔を出す。心地よいバスの体温と、まるで揺りかごの中にいるような穏やかな揺れに、眠気を感じてきた。

 家の庭には、大きな梅の木がある。小さな木だ。ひっそりと息を潜めて佇んでいるのに、存在感はある。前を通りかかるときには、つい目が行ってしまう。見るたびに嫌になる梅。母は楽しげにそれをよくいじっていた。その様子を眺めるたび、母は自分のこともこの梅のように思っているのかと思ってしまう。そして、苛立ちを覚える。

 母は梅を愛しげに見つめながら、言うのだ。この木はね、あなたが生まれたときにパパが埋めたの。あなたと一緒に成長してきたのよ。あなたの分身みたいなものね。

 狭い庭で誇らしげに育っていく梅。母に世話をされながら、支配されながら。

 折ってやりたい。この狭い庭から、追い出してやりたい。いつも思った。幹に触れると、まるで呼吸をしているかのように脈立つ感触がある。この梅の木があるから、自分はいつまでもこんな所に縛りつけられるのだ。麗花はいつのまにか、自分がノコギリを握っているのに気づいた。しかし、驚かなかった。好都合だ。ノコギリの刃を梅の幹に立て、手前に引き、奧に引き、手前に引き、奧に引き。ギザギザの刃は、容易く幹に食い込んでいく。悲鳴も聞こえない。当たり前だ。こうやって、折られることをこの梅は望んでいる。こんな狭い場所で、母に何もかもを管理されて、そんな状態から解放されたいと思っているのだ。だから、必死にノコギリを引く。幹はその刃を安易に受け入れる。ノコギリの刃を動かすたびに、梅の木はゆらゆらと揺れる。ようやく自由になることに喜びが抑えられず、踊っているように見える。やがて完全に切断されると、上部がゆっくりと倒れた。花びらが散った。視界いっぱいに、花びらが舞った。ああ、良かった。心のどこかにぽっかりと穴が空いた。そこから入ってくる清々しい風が、気持ちよかった。今までたまっていた淀んだ空気を、すべて追い出してくれた。すっきりした。

 ママ、ごめんなさい。だってね、この梅が必死に言うのよ。お願いだから切って、って。切らないとママに何かする、って。だからね、仕方なかったのよ。そんなに泣かないで。

 花びらが、未だ視界を埋め尽くしている。

「……二丁目。次は、……二丁目」

 近くで何かがもがく気配がして、麗花ははっと目を開けた。いつのまにか隣に座っていた女の子が、立ち上がって出入り口の前に移動した。バスはゆっくりと停車し、出口を開けた。女の子は慎重な動作で降車する。麗花も慌てて席を立ち、その後を追った。

 外へ出ると、薄い風が全身を撫でた。後ろでバスが発車する音を聞きながら、その澄んだ空気に呼吸を繰り返す。大きく伸びをして、疲れている身体で歩き始めた。

 バスで寝てしまったなんて、何年ぶりだろう。目をこすってから、マスカラを塗っていたことに気づいた。今の自分の顔は、どんなに無様だろうか。

 顔を上げると、女の子の背中が見えた。足早に歩くその純粋な後ろ姿をじっと見つめてから、バイク屋の角を右に曲がる。ここをまっすぐ行けば、自宅が現れる。住宅が並ぶずっと奧に、梅の木が見えた。

 微かな香りが、鼻をかすめた。何の香りかは、わからないけれど。

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梅の鎖 尾塚まい @oduka273

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