55
――終わった。
その瞬間がはっきりと解った。
今、誡の裡は崩れ始めている。
そしてそれを否定する為に、その抜本の方法として目の前の人間を殺そうとしている。もしも、ここで否定の原因を取り除けたのなら、あいつはまた元に戻る。だから、ここでは退く訳にも死ぬ訳にもいかない。
誡は全力で、原因を揉み消そうとするだろう――ベクターを使ってまでも。
俺にはその手の能力は通じない筈だ。だが黒木は? 普通の人間の黒木は囚われてしまうんじゃないか?
「…………っ!」
殆ど反射的に黒木と誡の間に俺は這入り込んでいた。狂乱染みた色をその眼に滲ませて誡は襲ってくる。それを前にした黒木は、
「終わったぞ。あとは好きにしろ」
平然と言いながら、吸っていた煙草を投げ捨てた。
「な、何でお前平気なんだ」
「対策を講じない馬鹿が居るか」
「対策って……もしかしてその煙草か?」
「あとで話す。そんな事より――来たぞ」
誡のベクターを前にしても全く侵されている様子の無い黒木に驚く間も無く、誡が包丁で切り付けてくる。余りにも無様な直線的な攻撃で当たる訳が無い。それが誡の心理状態だと思うと、遣る瀬無い気持ちが湧き上がってきた。
「死ね死ね死ね死んでくれ――もう何でもいいから死んでくれ!! お願いだからぼくの前から消えてくれ……!!」
混乱と昏乱で周りどころか自分さえも見失い掛けている。当たり前だろう『解体』されたのだから――今までの自分を殺されたも同然なのだから。
苦しい。あの姿を見るのはいつも苦しい。助ける為に殺す――どんな形であれ、そこには死がある事には変わりないのだから。
だが俺は失敗した。
何度も繰り返して判ってはいても解らない――別の手段がある筈だと想う。
俺の
「落ち着かせてやれ」
「……あぁ」
漠然と得ていた名――〝
異常なまでの〝強さ〟を持っている、それだけだ。単純に生命力が活力が強く、肉体が強く――ヒトとして〝強い〟のだと。無尽蔵に思える程の〝強さ〟が、凡そ無限の極限にまである。
そんな暴力の塊の俺の〝強さ〟は、幸か不幸か調節が効く。普段はそれが生きようとする本能からなのかは解らないが、無意識的にアルビノを無害化する程度まで遣われていて、それ以下には出来ない。
勿論、怪我もするし致命傷なら死ぬだろう。だが、簡単に怪我は致命傷に繋がらないし、俺に干渉する害は可能な限り抑えられる。
だから、俺に誡のベクターは、通じない。
問答無用で誡は再び襲い掛かってくる。怒りと困惑と焦燥の入り混じった顔で、安定を得る為に。だが、それは許されない、〝四肢狩人〟を『解体』する為に。
誡が俺の首を狙って振り下ろした包丁を素手で掴む。掌に僅かな、鋭い痛みが走る。
「なっ――」
包丁を受け止められた誡は隙だらけになる。ベクターの効果が無い事に驚愕の声を上げ、動きが止まっている。勢いが乗り切る前の包丁では、ほんの少し手が切れるだけだ。大した傷も無い。
俺はそのまま誡の脇腹を蹴り飛ばした。
げっ、と肺から空気が押し出され、呻きを上げて誡は壁に叩きつけられる。そのままうつ伏せに倒れ込んで、動かなくなった。
隣で黒木が呆れた様に言う。
「……遣り過ぎだ」
「あああ、しまった――!?」
力の調節をミスした! たかが蹴りで、男の体が壁際まで飛ぶのは些か不味いだろう。今ので死んでないだろうか、不安になってきた……大丈夫だろうか。
「かっ――げっ、あ、かはっ」
慌てて誡に近付いてみると幸い、呼吸は出来ていないが、息はあるのは判った。肋骨辺りが折れた事以外には、特に怪我が無いらしい。
誡の無事を確認して安心する俺の後ろに、いつの間にか黒木が立っていた。
黒木は言う。
「長谷誡――お前の矛盾は狂った命の定義だ」
何も無い虚無に命を見出す――空っぽの矛盾。何ものでもない死から、間違って意味を読み取ってしまった。死は、無だというのに。
俺は黒木から視線を外すと、壊れた窓から、月がただ浮かんでいた。
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