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五月二十六日


 ある建物の薄暗い室内。中は夜空の上弦の月明かりのみで、仄暗い闇に包まれている。


 そこは十二年前に崩落したマンション。


 半壊に留まったとは言え、それでも住居としての本来の機能を果たす事は二度と不可能となっている場所だ。当然ながら犠牲者も多く出し、今は誰も近寄らない郊外の廃墟となっている。

 夜陰に蒼白い月光を受けて浮き出る廃墟の様は、見る向きによって尖塔の様にも瓦礫の山の様にも受け取れる。その中で、誰もが思う共通の印象があった。


 ――アレは墓標である。


 この巨大な墓標が出来上がった原因は、当時のオーナーにあった。竣工後に検査を受けた際に耐震性に問題有りと判断され、補強工事を施工する必要性があったのだが、費用を出し渋ったオーナーにより、そのまま売りに出されて分譲されたのだ。

 当然、その事実をオーナーは住民に対して公表せず隠蔽していた。しかし勿論、事はすぐに露呈し法的に工事が要請され、住民に対しても事実の公表をさせられたが、オーナーは補強工事を形だけ整え誤魔化した。何処までも金に卑しい人物だったのだ。高を括っていたのかも知れない、そう簡単に崩れる訳が無いと。


 だがマンションはあっさりと地震で崩落した。


 大惨事であり、完全な崩落ではないというのが惨事に拍車を掛けた。マンション内の所々に空洞が出来る様な半壊で、或いは外壁が張りぼての様に剥がれていだ。下手に建物に刺激を与えられず、完全に崩れた際の危険を考えて、マンション付近の住民達も避難させなければ救助を開始出来なかったのだ。


 その時間で、大半の住民の生死が別たれた。


 外見には原型を留めていながら、中は内臓破裂したかの様に滅茶苦茶だ。マンションという形を見て取れる程度には整然としていたが実際は息も絶え絶え。マンションが大型ではなく被害を徒に広げずに済んだという事だけが、不幸中の幸いだった。


 その後、オーナーは逮捕された。


 廃屋と化したマンションは、今も続く裁判の審理の物件として、現状維持され取り壊されずにいる。壁のコンクリートは剥き出しになり、窓ガラスは割れ、使い道の無い見せ掛けだけの補強工事の為に搬入された資材が転がっている。元々人が住む為に造られたとは思えない有様だ。


 だが確かにそれは過去を刻み付けた碑である。


 暁夜鳥の生き方を決めた。

 槻木涼の在り様を定めた。

 そして――〝四肢狩人〟の狂気を孕んだ。


 そこに唯一、暗がりを照らす蝋燭の灯りが点っていた。


「――なァ、本当にここでいいのかよ?」


 速水健司が不安そうに呟く。彼は猫背気味に積み上げた資材の上に腰を掛けていた。


「あぁ、余裕余裕。全っ然平気だ、ここで」


 それを、もう一つの声が断言する。部屋の中心でよく透る声で言った男――〝四肢狩人〟の片割れは、その声と同様に真っ直ぐに立っている。


「お前が言うならそうなんだろうけどよ……」


 健司がその口振りとは裏腹に不安そうに言うと、またも〝四肢狩人〟は断言した。


「テメェは安心して、ここに居ればいいんだよ」


 その言葉を聞き、健司は脱力した様に足を前に放り出した。


「……ま、お前以外に頼れる奴も居ねェからなー」


 彼は山瀬高校から逃げた際に、〝四肢狩人〟と出会った。混乱したまま、芹沢の事など忘れて無我夢中で当ても無く逃げていた時に、声を掛けられたのだ。


 ――お前、速水健司か?


 その声は、何故か心の底から安堵出来るとても優しいものだった。しかし健司は、それが〝四肢狩人〟の能力ベクターによるものだとは知る由も無い。


「そうだなー。まぁ本当は、面倒な事になんなければ、こんな事する必要も無かったんだけどなー……」


 健司を見ていた〝四肢狩人〟は、ぼんやりとした様子で嘆息する。それを聞いた健司は立ち上がり、資材が立て掛けられ殆ど隠れている窓に向かい外を見て、調子よさそうに言った。


「そう言うなって、感謝してるぜ。逃げてる時にお前に遇えて、こんな所を用意してもらってよ。これだけ広くて入り組んでる場所なら、簡単に逃げれるだろうしな」

「あぁ、いや。今のはテメェの事じゃねーよ。オレの話だ」


 〝四肢狩人〟は苦笑しながら、健司の居る窓際に近付いた。


「は? 何だよ、意味解んねェな……」


 健司は顔を顰めたが、彼はそれを無視して外を見ながら静かに言う。


「あぁ、来たみてぇだな」

「……誰が?」


 一方的に話す〝四肢狩人〟に違和感を感じながらも、健司は自分が無視されている事を意識しない。それもまた、ベクターによるものである。


 健司は今、〝四肢狩人〟により子供が転ぶのに対して大人が転ばなくなる様な、無意識の警戒のレベルまでさせられている。その術中に嵌れば、誰であろうと自らを護る術を知らない赤子の様に無防備になるのだ。


 〝四肢狩人〟は健司の方を向き、無表情に言った。


「――お前を殺す奴」

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