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 三白眼気味のあいつが言った通り、捺夜は気絶しているだけだった。


 一安心だったが、ただ、暫らくは起きる気配も無さそうだし芹沢が俺のクラスの教室――二年C組――に居るというのも気になる。だが、ここに捺夜を置いていく訳にもいかない。


 ……背負うか。


 捺夜を抱き上げて背中に乗せ、日本刀は後ろに回した手で持つ。気絶している為に身体がだらりとしていて、安定感が無い。だが、目的の教室まではあと二十メートル程度だし、捺夜は軽いのでそんなに苦にはならない。


 しかし、あの三白眼。何故速水の事を知っていた?


 あいつが、黒木の言っていた奴等だろうか。俺達とは別に、速水の事を調べているという奴等。だったらベクターの事も知っていて調べているというのが当然だろう。まさか黒木みたいな奴が他にも居るとは。


 だけどあいつ、何処かで見た様な……。


 同級生か? 考えてみると、三白眼気味の目付きが悪く見える奴は居た気がするが、名前が出てこない。駄目だな、俺。人の事を極端にしか憶えていない。


 C組の一つ手前の教室に差し掛かると、真っ黒な廊下の奥に違和感を覚えた。


 ――誰かが居る。


 うすぼんやりとした、朧な灰色の闇から歩いてくる。校内にまだ人が残っていたのだろうか。部活動をしているのは新聞部だけの筈だが……。


 相手が誰だか判らず、警戒してしまう。


 捺夜を降ろして壁に寄り掛からせ、身体をいつでも動ける体勢にした。念の為、射程に入ったら飛び掛かれる様に。


 こちらが構えているというのに、向こうは変わらない調子で歩いてくる。あと少し。相手もこっちに気付いている。


 顔が見えた――瞬間、仕掛けた。


「――――」


 そして戸惑った。相手の顔を確認して、殴る為に上げた腕は所在無げに宙にある。


「……長谷?」

「やぁ、穏やかじゃないね」


 呑気な笑顔で長谷が突っ立っていた。鞄を持っていない事を除けば、以前と何ら変わり無い様子で平静としている。


「何でお前がここに――」


 って、速水の事を捜していたって乙野さんが言っていたっけか。


「――じゃなくて、今まで何してたんだ?」

「速水の事を捜してたんだ」


 やっぱり。


「暁さんは見つけた?」

「いや、まだ。今は芹沢を捜してて、場所は判ってる。C組の教室――そこだよ」


 俺が十メートル程後ろを指すと、長谷は「あ、そこなの?」と言う。


「先刻、そこ通った時変な臭いがしたんだけど……芹沢が中で何かやってたのかな?」

「変な臭い?」

「そう。何か……鉄錆とか金属の臭いかな」

「鉄の臭い……? いや、ちょっと待て。その鉄の臭いって――」


 赤い、誰かの死を告げる物が頭を過る。十二年前、俺の体に滴り落ちてきた物。俺を鉄の臭いに、誰かの死に沈めた――血。


 そうだ、速水は何故三白眼から逃げる様にしていた? 目的の相手が居たその方向から、血の付いた包丁を持って来たのは、


「暁さん……それって――芹沢の血って事?」


 もう、殺したからじゃないのか。


「……っ、判らない。判りたくも無いっ!」


 だが、確かめなければならない。目的を果たせなかったからと言って、逃げる訳にもいかないのだから。


「長谷。俺は確認に行く」

「……女の子が、見に行くものじゃないよ?」

「関係無い。行かなきゃいけない」


 長谷は溜息交じりに、強いなぁ、と呟いた。


「じゃあボクも付いて行くよ。一人より二人の方が、精神的にも余裕が出来ると思うから」

「ん……有り難う」


 廊下を歩いて行って教室に近付くと、腥い臭いがしてきた。進むにつれて臭いが強まる。ここまではっきりと臭いがするなら、相当な出血量だ――生存が欠片も望めない。

 教室の前に着くと、長谷は緊張した面持ちで心臓の鼓動を抑える様に左胸を押さえていた。この中がどうなっているのか、想像してしまっているのだろう。


「……大丈夫か?」

「いや、ボクは大丈夫。ちょっと動悸がしてるだけだから――開けていいよ」


 長谷に促されて教室の扉を開けた途端、一気に臭いが強まった。


 一瞬、頭の中が真っ白になる。


 余りにも強い死臭で十二年前の事を思い出し、体が強張る。だが、すぐに目の前の状況に意識を引き戻された。


 普段整然と並んでいる配列が崩された机と教卓。生徒が居ないだけで異空間と化すそこは、今もっと別の原因で異状を来している。

 黒板にべっとりと付いた赤い何かが、チョーク置場に溜まり伝って床に滴っている。教卓の机上は一面真っ赤に色取られている。そして黒板と教卓の間に仰向けに横たわっているもの、それを中心に赤が広がっている。

 血溜まりの中に、死体が転がっていた。芹沢正大が、もう二度と光を宿さない眼で、虚空を見つめる様に死んでいる。


「……一旦、廊下に出よう。俺達がここを荒らしちゃ、いけない。現場の保存を……しておかないと」


 長谷は俺の提案に、……そうだね、と廊下に出た。


 扉を閉めて血の臭いが抑えられると、長谷は壁に寄り掛かって大きく溜息を吐いた。無理もない、死体を見た後なのだから。


「暁さん……これは速水の仕業、だよね?」

「そうとしか、考えられないな」


 速水はC組の教室から出てきて、血の付いた包丁を持っていた。三白眼も同じ方向から走ってきたが、芹沢を殺す理由が無いだろう。これで速水以外の誰が殺したと言える。


「くそっ……!」


 怒りに遣り場が無い。遅過ぎた、絶対にさせないなんて意気込んでおきながら、結果がこれだ。情けないどころの話じゃない。


 助けられた命を助けられなかった。回避出来た死を避ける事が出来なかった。何の為に行動していたんだ、俺は。

 孤立を、孤独を、死を厭うているから、アルビノである事を受け容れていたのに――誓いの様に、万死すら助けたいと思っていたのに。目前の死も回避出来なかった。


「……警察を、呼ばないとな」


 自責に意味は無い。今は、やるべき事をしなくてはならない。


「警察なら、ボクが呼んでおくよ。暁さんはもう帰った方がいい」

「は?」

「新聞部は活動していたから、ここに居ても何の不思議も無いけど、暁さんは違う。変に疑われるに決まってる。皆にはボクが言っておくから大丈夫」

「いや、だけど……」

「いいから、暁さんだって、相当参ってるでしょ? それに、その友達もどうにかしないといけないんじゃない?」


 と、長谷は壁に寄り掛かって寝息を立てている捺夜を指した。


「ん……そう、だな」


 未だに目を醒ます気配の無い捺夜を、警察に説明する事は出来ない。しようにも、ややこしくなって、泥沼に嵌り込む可能性の方が高いだろう。


「悪い、長谷。お前の言う通りにさせてもらう」


 うん、それがいいよ、と長谷は言った。


「あ、そうだ。出来たら、速水の特徴とか教えてほしいんだけど。警察に、せめてそれぐらいは伝えたいし」

「特徴……そうだな、左眼に眼帯を着けていた」

「左眼に眼帯か……。それが判るだけで大分変ってくると思うよ、有り難う」

「いいよ、この程度でも事件の解決に近付くのなら――俺の方が、有り難い」


 俺は気絶したままの捺夜を背負い、長谷と別れて校舎を出た。外は月明かりのせいか、思いの外明るい。


 だが俺は、とても三日月を直視する事が出来ず――少し、泣きそうになった。

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