28
いつだったか、俺が捺夜に頼まれて組手の相手をしていた時だった。
実践剣術の道場に通っている捺夜の腕前は高いらしく、師範代くらいなら務められるらしい(本人曰く「
板張の冷たい床に、俺は髪を纏めて動き易いジャージで、捺夜は袴姿で立っている。稽古が終わった後なので、道場に居るのは俺と捺夜に、立会人代わりの黒木だけだ。広い空間に三人だけで物音は殆どせず、しんとした独特の冷たさがある。
俺は剣道なんてやった事が無いから素手で。捺夜は「ヌエが相手だったら大丈夫だよね」と真剣を持ち出している。俺を何だと思ってるんだ……もう慣れたけどさ。
武道なんてやった事の無い俺はそれらしい適当な構えをして、捺夜は正眼に刀を構える。互いに相手の目を見据えながら、動き出す瞬間を待っていた。肚の底が冷えて全身に重い様な浮き足立つ様な、独特の空気が生まれる。
ざわりとした、身体の自覚。
……何だかんだで、俺はこういうの大好きなんだな。思わず、微笑ってしまう。
「――始め」
黒木の短い合図の声。
わっと一息に動き出す様な事はせず、様子を見る。じりじりと距離を詰めながら、間合いが埋まるのを待つしかない。今までの俺の戦績は五十回程やって、勝ち星は六つだけ。剣道三倍段だからって訳でもなく、俺は捺夜にどうしても勝てない。
刀の分リーチは捺夜に分があるが、懐に入り込めれば俺の独壇場だ。捺夜の構えは正眼から微塵も動かず、全身の力も抜けている。かと言って隙があるのかと思えば、全く無い。どころか、足運びからして警戒心と集中力しか無い。
……いや、あそこに這入り込むのって、無理。
兎に角刀を往なして打ち込めれば取れるが、何処を攻めても返す刀で逆にやられる気しかしない。だがこのまま待ちに徹していても何れ負ける。別に捺夜は誘ってきている訳ではないんだから。というか前それで負けた。
何とか流れを取ろうと思い、集中する為に深くを息を吸って吐く。
きゅっ、と足を鳴らして捺夜が仕掛けてきた。
「――――」
しまった。
俺が息を吐き終わったタイミングに合わせて、捺夜は踏み込みを大きく切っ先を揺らす。間を計って上段構えの振り下ろし――やられた。
半身を逸らしてどうにか左に避けると、髪の先が数本切られて散った。鈍く光る刀の通った後に、冷気を感じて寒気を覚える。
間一髪どころか今のは直死コースだったぞ……っ?
冷汗を掻きながらも、反撃を怠らずに俺は刀の峰を右手で押し込み殺す。がっ、と音を立てて刀が床に刺さった。同時に捺夜に向かって歩を進め、遊んでいた左手でがら空きの顎へと掌底を繰り出す。
――極まった。
距離とタイミングは完璧なカウンターだ。刀も押さえているし、それはそのまま動きも抑えてある事と同じ。
だが、そこで、捺夜は笑っていた。
「あたしの勝ちー」
「へ?」
ぱっ、と捺夜は俺が押さえていた刀から手を離し、捨てた。自由になった刀は、目一杯押さえていた俺のバランスと一緒に床に落ち込む。驚く暇も無く自由になった手で、捺夜は俺の掌底を右脇で挟んで止めて腕を絡ませた。
「
一瞬で左肘の関節が完全に絡み取られていた。すぐに力ずくで
「……このっ!」
床に顔面を打ち付ける前に、空いている右手で全身を支える。すぐに手で跳ねて起き上がろうとしたが、その前に上から何かが乗ってきて額を打ってしまった。衝撃で「ふべっ!?」と変な声が出た。
「左腕、完全に極まってるから動かない方がいいよヌエ」
「…………」
俺の背中で、捺夜が左腕を捻り上げて座っていた。
「これであたしの五十八勝六敗だね?」
俺は無様に床に額を擦り付けたまま、ぐうの音も出なかった。
完敗だ。畜生。
「あー……何で勝てないんだ」
組手が終わった後、俺は少し不貞腐れていた。
「今回も絶対に返しの手が極まったと思ったら、あっさりと返されたし」
んー、と捺夜が救急箱を片手に首を傾げる。
「別にあたしが強い訳じゃないよ? 多分、本当に形式も何も無い戦いだったら、ヌエの方が勝つと思うし」
「じゃあ何で」
言ってもいいのかなぁ……、と捺夜は俺の前に座って救急箱を開く。中から冷えピタを一枚取り出し、打った俺の額に貼ってくれた。
「あのね、ヌエの動きって読みやすいの」
「…………ショック」
あはは、と苦笑する捺夜。いや、普通にショック。
「何だ、俺ってそんなに馬鹿丸出しみたいな一直線なのかっ?」
「今更か」
はぁ、と立会役を終えて隣で本を読んでいた黒木が、わざとらしく嘆息した。
「喧嘩売ってるのかお前」
「いいや、まるで自覚が無かったお前に呆れている。ショックだ」
「やっぱり喧嘩売ってるだろっ」
喧嘩などお前に自覚が無い限りは結果は見えている、と本を閉じて黒木は言う。
「単純な話、お前は攻め過ぎる。先刻の組手も、彼方の初手を躱した後は退がって無理に求めず、別の攻めをするべきだった。孫子曰く『
「……何言ってるんだお前」
「お前には恐怖が無い」
黒木は片目を細め――俺を見据えてきた。
不意に、圧される。
「お前は
「死の」
――恐怖。
俺から最も遠く――最も忌み嫌うもの。
過去に経て、もう得る事の無い感情だ。
「それが……、どうしたんだよ」
「彼方とお前の違いは、そこだけだ。恐怖の有無でヒトの行動は変わる。何を進退するか決め、自身の保全を図る能力、判断基準として個体の生存を懸ける。だが、お前の生存能力はエラン・ヴィタールによって飛躍的に高く、剰え恐怖が無い。猪突猛進にどんな死地でも切り抜けれるが故に、逆を言えば死に対する身構えが無く――」
突然、黒木に押し倒された。
「隙だらけだ」
一瞬で、俺の首に腕を押し付け喉を殺し、身体の自由を奪われる。
反応、出来なかった――いや、しなかった。黒木の言う通り、俺は〝
黒木は俺の眼を、その真っ黒な動かない瞳で間近に覗き込んで来ながら言う。
「あらゆる事に勝利を求めるならば死を学べ」
「……どうやって」
俺の上から退いて、黒木はそのまま元の位置に座り込んだ。……女の子を押し倒した後でその対応かよ。相手が捺夜だったら絶対に起き上がらせる癖に。
押さえられた喉が、けほっ、と少し咽せた。
黒木が言う。
「キューブラー=ロス・モデルというものがある」
「何ですか、それ?」
「精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスが提唱した、死を『否認』・『怒り』・『取引』・『抑鬱』・『受容』の五段階に分けたものの事だ」
「はー、世の中に色んなものがあるんですねぇ」
「で、それが何だよ?」
「モデル化された死を知れば、お前でも少しは理解出来るだろう」
「……俺が馬鹿みたいな言い方だな」
一応、学内でトップ二〇には入る好成績だぞ俺。
「経験的不足は高校教育で賄える訳が無い、徒でさえ不要なものが多い教育だ。――順を追って話そう」
黒木が本格的に話す態勢に入った。ところ構わず倩々べらべらと喋りだす時は止まらないので、仕方無く俺と捺夜は床に座り込んだ。ただ、捺夜は黒木の話を楽しんでるところがあるんだよな……俺はよく理解出来ない話が多いからあんまり好きじゃないんだが。
「人が、死を直視しながら死ぬ時というのは、どんな時があると思う?」
唐突に、黒木は言う。いきなりの事で答えあぐねるが、黒木は話を続けない。返答を待っている様だ。面倒臭い奴だな……。
「俺は、事故に巻き込まれた時だと思うが」
――幼い頃の、月の記憶。
俺はあの時、死に直面して月に見下ろされながら死を体感した。それは間違いない筈だ。
「うーん、あたしは不治の病に侵された時だと思いますねー。癌みたいな治せない病気のせいで、死を見つめながら待つだけ……凄く、怖いと思います」
でも、それがどうしたんです? と捺夜が訊く。
「死を受容するまでに過程がある様に、『受容』が訪れるには条件がある。それを追う事で、死の姿を視る事が出来るだろう」
黒木はそう答えると、先ず第一段階の『否認』だ、と続けた。
「『否認』は、ヒトが死を直視せざるを得ない状況に置かれた時に、死を認めようとしない事を指す」
「認めようとしない? いや、認めないも何も、死ぬ時は死ぬしか無いだろ」
だから『否認』だと言っている、と黒木は呆れ気味に言う。今こいつ俺の事馬鹿にしたよ絶対。
「『自分が死ぬ訳無い』と、余りにも大き過ぎる現実に対して自己防衛を行い、死という事実に対して健康的に生きる為の方法が『否認』だ。死ぬしか無い、ではなくて、そもそも理解していても認められない概念が死というものだ」
「死という事に対して、自分を守るには否認するしかないって事ですか」
ふぅむ、と捺夜が眉を寄せて豪く考え込んだ顔で頷く。……駄目だ、俺には付いていけない。
「それが、人間の根底に誰もが持つ死という恐怖の証だ」
だが――黒木は俺を見てきた。
「逆説的に、死を恐怖する事が自然な人間の証で、死を恐怖しない人間など居ない。もしも死に怯えないならば、それは壊れているか、既に『死んで』いる人間だ」
――お前はどっちだ、夜鳥。
そう、問われた。
俺は……どっちなんだ?
壊れているのか――確かに俺は何も恐れない怖くない。どんな時だろうと、前に進める自信がある。だがそれは勇気なんかが根拠じゃない。違うんだ。解っているんだ。別に凄い事でも何でもなくて、そうなっているから仕様が無いんだ。
死んでいるのか――確かに俺は幼い頃に死んだ。それを識った。俺はもう、この世界での恐怖を克服している。いや、乗り越えた訳じゃない。どちらかと言えば踏み外れた。ただ道理を踏破する様に、そうなっているから仕様が無いんだ。
巡る脳裏に映る。
奥の方で沈んでいる金属の様な澱が舞い上がった。
月の陰影が俺を嗤っている。
「…………っ」
答えられない。解る訳が無い。
苦虫を噛み潰した様な俺に、黒木は何も言わずに答えを求めなかった。
「どちらにしろ、死からの逸脱には共通点がある」
「共通、点?」
そうだ、と黒木は言う。
「何処かに置いてきただけだ。本質的に喪失である死が消える事などは無いのだから、それは別のモノが肩代わりしている――いや、させているだけだ」
言って、黒木は片目を細めた。
「お前は自分の死を見つけられるか、夜鳥?」
「俺の、死……」
病的に蒼い月が、俺を見下ろす。
一番はっきりと憶えている、一番古い記憶が、鮮やかに呪われて浮き出てきた。だから俺は、月の沈んだ昏い暗い空に安堵するのか――?
「それで、『否認』の次は何なんですか?」
捺夜が訊く。その声で、はたと正気に戻された。
黒木は俺の様子を窺う様に、少し首を傾いでこっちを見ていたが、やがて喋り出した。
「『怒り』の段階だ。否認の維持が出来なくなり、『何故自分が死ななくてはならないのか』と周囲にその怒りをぶつける。他人が死ぬ事には納得出来るが、自分が死ぬ事には納得出来ないが故に、この段階は訪れる」
「はぁ……? どういう事だよ? 他人が死ぬ事には納得出来る、って意味が解らないぞ」
俺が半ば突っ掛かる様に言うと、隣で捺夜が、きっと、と言った。
「根拠が無いからだよ、自分の死に。他の誰か見知らぬ人が死んだりするだけで、本気で悲しむ人なんて普通は居ないでしょ? けど、それが自分とか身近な人だったりすると、全然納得出来ないでしょ? だから、嫌な事だけど……興味が無いんだよ」
「興味が、無い……?」
概ね彼方の言う通りだ、と黒木が空気を取って答えた。
「人は死が現実に在りながら、大抵自分が死ぬ訳は無いと考えている。しかし裏腹に、他人が死ぬ事は理解している。日常から乖離している死に対して、人は自身を重ねる事は無いものだ」
「だから『怒り』なんですね。他人の死の見方を知っているから、自分の死がどう見られているかが判る……。『自分はまだ生きていてここに居る』のに、周りはその想いを殆ど理解してくれない。自分が死ぬ事が納得されてて、仕方無い事だと思われていたら、それは確かに遣り場の無い気持ちになりますねー……」
黒木も捺夜も理解して話を進めているが、俺には意味が解らない。言っている事は判る。理屈として通っている事だとは思うが、俺は決してどんな死だろうと赦せない。
だから――だから?
俺は死を失くしているから、逆に誰かの死を求めているのか?
解らない。俺はこんなにも自分自身の事を知らない人間だったのか。はっきりと突き付けられれば捲れて見える矛盾だというのに、一切を見た事が無かった。
これが、死の形の片鱗なんだろうか。
「……次は、何だよ?」
思わず、自分から話を進める様に促した。黒木は俺を一瞥すると、静かに口を開く。
「死との『取引』だ。幾ら『否認』をしても死が無くなる訳でもなく、そこに根拠が不在である事に『怒り』をぶつけたとしても定まった死が覆る訳でも無い。だからこそ、そこで先延ばしを行おうとする」
「それが『取引』ですか?」
「いや、でももう死ぬのをどうにも出来ない事は判ってるのに、何で先延ばしなんかしようとするんだよ。しかも誰に対して?」
人により取引の形は様々だ、と黒木は言う。
「例えば神に頼る。自らの今までの行いを悔いて善行を行う代わりに救われようと。例えば条件を付ける。最後にどうしてもやりたい事があり、それが済めば死ねると。そうやって延命や願いを提示する事で、そこを
「あぁ――」
結局、死を見つめる事が出来ないのか。
無理矢理にでも、自分の終わりに相応しい状況を作り出さないと、死ぬ事を認められないからそんな無茶苦茶な話が出てくる。誰と『取引』をしているのかって、相手は誰でもない自分しか居ないのに、それに気付かないで必死に生きようと。
滑稽だ。
よりによって、死に掛けて初めて生きようとしているのだから、間抜け以外の何物でも無い。だが、死なない俺は、もう死んだ俺は、今生きていると言えるのだろうか――?
「……それで、目論見が成功してデッドラインが来たらどうするんだ?」
「再び『取引』を持ち掛ける」
当然だろう、とでも言う様に黒木は即答した。
「やっぱり、何処かで死なないと思っちゃうんですね」
捺夜が哀しそうな、同情的な瞳をする。今この場に、死を目前にした人が居るかの様に。
それが次の段階だ――黒木は続ける。
「どの様な『取引』を行おうが、所詮死の定めは消えない。それを理解して漸く死と向き合うと、人は大きい絶望を与えられる。何の希望も無く、何を為す事も出来ず、現状は悪化し喪失の始まりを知り、『抑鬱』する」
「喪失の始まりって、これから自分が死ぬ事か?」
「違う。死に臨む為に現れる状況に対する事だ。自分が死ぬ事は勿論、家族、友人、財産、仕事――凡そ己を形成しているもの全てが手元から離れていく事を、感情ですら解る様になる事だ」
……んー、よく解らない。
俺が怪訝そうにしていると、捺夜が一言で纏めた。
「超ネガティブって事だよ」
「あぁ、成る程」
「…………」
何故か黒木は納得出来ないといった様な顔をしていたが、「まぁ、いいだろう」と気を取り直した。
「最後の『受容』だ。今までの段階で色々な意思や感情を表してきたが、その内、最期の訪れを静観出来る様になる。だがこの時の『受容』は感情が殆ど欠落した状態であって、幸福な状態とは全く違ったものだ」
死に抗おうとした挙句、抗い切れずに眺めるだけ……。
こうやって、頑なに死を拒むのは、考えてみると意思や感情を持った人間だけじゃないだろうか。ヒトが行き着く死に対するその姿勢は、感情を捨てなければ辿り着けない場所――
それはヒトとしての、
「諦め――なのか?」
「従服、だ」
強い否定の意を込めてだろう、静かに、はっきりと黒木は言った。
「生命が抗う事の出来ない領域として、その概念が発生した時からの自然な状態に戻る。それは根源的な俺達の矛盾であり、解答出来ず求めれば、行き着くのは耐え難い真実が待っているが故の狂気だけだ。何人もの先人が挑み、だが引き返すか帰って来れなくなるかのどちらかの結果しか残していない。『命など最初から無かった』。そう言われてお前は納得出来るか?」
黒木の言葉の意味を俺は汲み取れない。こいつが何を伝えようと、何の為に詭弁染みたレトリックで俺に話すのか、そんな事は一切判らない。
ただ、一つだけ答えられる事。
「俺は生きてるだろう」
「そうだそれが答えだ」
黒木は即して続ける。
「結局のところ、全ての間違いは生命の終わりに対して〝死〟という概念を持ち込んだ事にある。『生命』と『死』を聯合してしまう事で、別名でしかないものを、まるで違うモノの様に扱ってしまっている。『死が老人だけに訪れると思うのは間違いだ。死は最初からそこに居る』とへルマン・ファイフェルが言う様に、先に無である死があったというのに、そこに終わりとして死を設ける事で、恰も二つが同位にある様に考えた。だが、実際は上位にあるのは死であり、だからこそ、理性持つヒトには死に対して屈服するのに段階が発生する。それがエリザベス・キューブラー=ロスの言う『受容』であり、条件として『死の理解』と『孤独でない事』が必要になった」
これが、死の正体だ――黒木はそう締めた。
突然に。
唐突に。
解を突き付けてくる。
「理解と孤独、……ですか?」
捺夜が訊く。
「孤独でない事、っていうのは今までの話で何と無く解りますけど、死の理解っていうのはどういう事なんです?」
死の理解。自分が終わる事、消失する事に対する現実的な結論。死を体験する事とは違う、死がどんな結果を齎すかを知る事。死という――虚無の理解。
「子供だな」
いきなり黒木が言った。
「えっ、えぇっ?! 今あたしそんなに子供っぽい事言いましたかぁ……?」
「おい、意味が解らないぞ黒木。捺夜を苛めるなよっ」
「……言葉が足りなかったか。死の理解の起点なるのが子供という意味だ」
夜鳥、と黒木は俺に言ってきた。
「子供をあやす時、お前はどうする?」
「は?」
何だ藪から棒に。子供をあやす? いや、まぁ経験は無いけれども、知識だけならあるにはあるが……今それをやるのか? この場で? あやす子供も居ないのに恥ずかしいだろう、どう考えても……。
「えぇっと……」
だが、どうせ黒木の事だから、俺が答えない限り話は進めないだろうし……あぁ、もうどうにでもなれっ!
俺は意を決して両手で顔を隠し、子供をあやす時によくやる動きを黒木に見せた。
「い――いない、いない、バァ!」
…………。
自分の声が、やけに道場に響いた気がした。
「…………」
「…………」
黒木も捺夜も、何も言わなかった。
「…………」
俺も何も言えなかった。
は、恥ずかしい……っ。
「――馬鹿なのか、お前は?」
「お前が訊いてきたんだろうが!? だからやったんだろうが?!」
「ヌエ。凄い、顔真っ赤だよ。耳まで真っ赤」
「見るなー!! 俺を見るなー! 見ーるーなァーッ!!」
「誰も実演しろとは言ってない。何故やった」
「……泣いてるの、ヌエ?」
「ううう、煩いっ、泣いてない!! いいからもう俺は無視して話を進めろ黒木ッ!」
黒木は醒めた目で大きく嘆息し、話を続けた。あぁ、もうホントに恥ずかしい……。
「確かに、夜鳥の曝した醜態は意図した事には合っている」
「……醜態」
「エリザベス・キューブラー=ロスの研究の一つに、子供の〝死観念〟というものがある。初め、子供は死を停止とまでは理解出来るが、それ以降を理解出来ない。この時期は朧気な自我が現れる三歳頃で、まだ時間の流れを把握していない時期が故に、子供はそういった反応を示す」
「時間の流れの把握って……ヌエがやった『いない、いない、バァ』の事ですよね?」
「そうだ。『死について』でシモン・ユドキンが語っている。子供は先ず自我の現れにより自他の区別を識るが、それにより『他者が消える』という事も同時に識る。そしてまだ『時間』を識らない子供は、長短の別れを理解出来ずに、視界から誰かが消えるだけで過剰な反応を示す。例えば、赤ん坊が母親が部屋から出て行くと泣き出す様にだ」
「ちっちゃい頃の記憶が殆ど無いのも、それが理由の一つなんですね」
「その通りだ。夜鳥の醜態は子供の反応が一番判り易いパターンで、目の前の人間がその貌を隠すだけで居なくなったと思い、貌が現れると過度に喜びを示す。そして五歳頃になると、次は日常に転がる虫や動物の死体などを見て、恐ろしいモノとして『死』をインプットする。だが、この段階でもまだ『死の理解』は完全ではなく、死体や怪我により自身の身体の存在を確信して、漸く自我が完成する」
「確かに、子供の頃の記憶が残ってる年齢だな」
黒木の言う『自我』は、多分『物心が付く』とかで表現される事を言ってるんだろう。
「この頃の『死』は、自我の完成が不完全である事もあり、未だに概念的な十全さを持ち合わせていない。その為に、死の恐怖が擬人化されて出現する」
「擬人化ですか?」
人により形は様々だがな、と黒木は付け加える。
「簡単に言うなら〝お化け〟を指す。アメリカでは〝
うぅん、と捺夜が唸った。
「確かに、何か出そうなトコって怖いですからねー……」
「捺夜はお化け屋敷は駄目だもんな」
「だって怖いでしょ!? 何処から何が来るか判んないんだよ?!」
俺はお化け役の人に悲鳴を上げて
最後の段階を話すぞ、と黒木が話を戻した。
「九歳から十歳――今までの流れから解るだろうが、自我が完全になる頃だ。これにより、自身の存在の確定と生物学的停止の理解を経て、他者に訪れる死が自己の消失にもなり得る事を知る。この自分が消えたら戻ってこれない事から、他者も永久に戻ってこない事が当然となり、『死を理解』する」
これだけ聞けば、死の性質が解るだろう――黒木は片目を細めた。
「恐怖しろ、夜鳥」
「――――」
「お前は死なない、だが周りの人間は死ぬ。誰かの死に怯えろ、お前の死は捨てて。それこそがこの世界で正しい
「正しい、死……」
俺の不死性は覆らない。だから、他の誰かの死で、まともな命で――死に恐怖する。
「……馬鹿らしい」
俺は、四年前に『あの人』を殺した時からずっと、誰かが死ぬのが怖かったんだ。だからあたしの死なんかどうでもいいし、元から俺は死なないから怖くもない。それなのに、何かに勝つ為に、どうにかして勝つ為には、死を怖がらないといけないなんて――
「やっぱり馬鹿らしいよ、黒木」
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