踊る者たち 6

 ユディスを見下ろす目は哀しげだった。

 己の不甲斐なさを責めている。彼がそんな表情を見せるのは初めてだった。

 クローネが悲鳴に近い叫びをあげてとびすさった。ユディスたちから充分な距離を取ったあとも、彼女は叫び続けていた。

「なんで! どうして生きている!」

 当然の疑問だ。ユディスとてまだ信じられない。カルの腹を見た。胴鎧の下半分が外されて、上着にあいた穴から塞がったばかりの傷が見えた。矢傷というにはあまりに大きい、槍でえぐられたような傷だった。

「竜の血の伝説は知ってる?」

 それを浴びた者、あるいは飲んだ者を不死にする力を持つという。それくらいは知っている、と言おうとして、ユディスははっとなった。

「ヤトナ様ですか?」

「ファラの血を媒介にした劣化版だけどな」

「動いても平気なのですか?」

 傷はふさがったとしても、失った血や体力はすぐに戻るまい。

「構わぬ。そのために治療したのだ」

 背後で澄んだ声がした。ファラ――否、ヤトナか。傍らに、かしずくようなレイガンの姿があった。

「そやつも戦うことを望んでおる」

「お前のせいで、ファラが元に戻る日が遠のいたからな」

 カルがきつい口調で言った。

「え――ど、どういうことですか?」

「鈍いな。ヤトナが力を使ったからに決まってるだろう」

「くだらぬ情けよ。わしと、この娘のことだけ考えていればよいものを」

「人ひとり蘇生させるほどの力だ。小さくはない」

「そんな……」

 あの時、たしかにカルはユディスをかばった。そのために、レイガンたちの矢を受けた。

「ヤトナ、それ以上は」

 カルの口調が変わった。

「ごめん、ユディス。今のは、竜の血を通してヤトナが言ったんだ」

「だが、すべて本当のことだ。そうだろう?」

 ユディスはカルとヤトナの顔を交互に見た。嗜虐的な笑みを浮かべるヤトナに対し、カルは渋面だった。

「ご、ごめんなさい」

「謝らなくてもいい」

「でも、その上あなたの剣まで勝手に持って……」

「おれがきみでもそうしただろう。自分を責めるな」

 この物言い、まさしくカルだ、と思った。胸に温かいものが広がり、同時に苦しくなった。彼が生きていて嬉しいのだと、ようやく判った。たかがユラルの男が、自分の中でこれほど大きな存在になっている。だが、嫌ではなかった。

「おのれ……おのれ……!」

 鬼のような形相で、クローネがこちらを睨んでいた。

「彼女に、共鳴したんだな」

 ユディスはうなずいた。

「あなたの言っていたこと……私、何もわかっていなかった」

 カルがどんな思いで〈吐息ブレス〉と戦ってきたかということも。

「理解した相手というのは斬れないだろ。ふつうは、斬れない」

 だが――カルはノーザパイドを手にして進み出た。

「斬れるようになる必要もない」

 おれのようにはなるな、とカルの背中は言っているようだった。

 クローネが、動いた。

 両手を広げ、咆哮する。ただし、声は聞こえず、空気が震えただけだった。カルが、受けの構えを取るように剣を持ち上げた。

「下がって!」

 ユディスはカルの言葉に従った。

 カルとクローネの間で景色が歪んだ。巨大な蛇が這っているように草がたわむ。物理的な破壊力を持った音の波が押しよせてくるのがわかった。ノーザパイドがひときわ大きな音を発した。カルが叫ぶと、音の波が二つに裂け、左右の地面を吹き飛ばした。

 クローネが手を突き出した。さっきよりさらに疾く、さらに鋭い一撃。カルはそれも逸らした。操霊術――だけではない。聖文法も、カルは使っている。

 空気中に温度の違う層をいくつも作る。音は温度の低いほうへと屈折する性質があるからだ。あるいは、音に音をぶつけて打ち消す。あるいは、音そのものが伝わらない真空の壁を作る――こと音に関して、カルは並みのワーナミンネとは比べ物にならないほどの使い手であった。音そのものを武器とするクローネにとっては――

(相性が悪すぎる)

 そう考えて、ユディスは愕然とした。いつの間にか、クローネの視点になってものを考えている。共鳴の後遺症だろうか。

「くそっ……くそぉっ!」

 クローネの表情に焦りが見え始めた。

「なんで……っ! なんで通じないの? わたしの攻撃……がっ!」

 ほとんど泣き声に近かった。

「当然だ。まともに戦えば勝てない。だから策を弄したんだろう」

 カルは剣を左手に持ち替えた。腕を振り、袖に仕込んでいた短剣を投げつける。音の間隙を縫って短剣は飛び、クローネの肩に刺さった。

「なんでよォッ? 勝たせてよ、コイツにぃ……兄さん、兄さぁぁぁぁぁぁん!」

 音の津波とでも形容すべき、これまでで最大級の攻撃が来た。

「む!」

 カルがよろめいた。相殺しきれなかったのだ。額が裂け、右半面がどろりと血に染まった。足許にも血溜まりができていた。腹の傷がひらいたらしい。

「あ……が……」

 だが、攻撃をしかけたクローネも苦しげだった。白目を剥き、全身を痙攣させている。

「呑まれかけてる……」

 カルが呟いた次の瞬間、クローネが絶叫した。ぶんぶんと首を振り、頭を掻き毟りながら、少女は前のめりに地面に突っ伏した。丸めた背中。衣服の下で何か暴れている――と思う間もなく、服が裂けて何かがとびだした。

 黒光りする羽根。半透明で筋がいくつも走り、ヤスリ状のギザギザがついている、まるで昆虫のようなそれ。

 肉体の変容はそれだけにとどまらなかった。

四肢や胴のあちこちが膨れ上がり、暴れまわっている。〈吐息〉と一体となった時期から考えて、本来ならクローネの肉体は化物の姿に変わっていてもおかしくない。現に、クローネよりも後に〈吐息〉に取り憑かれたオルラノの肉体は限界に近かった。それを、精神力で《響》の侵食を抑え込み、なんとかもっていたのだろう。

 だが、我を忘れて能力を揮ったことで、力の均衡が崩壊した。これまでの反動であろうか。クローネの肉体の変容は、恐ろしい早さで進行している。首から下はすでに原型をとどめていなかったが、つややかな黒髪と涙で汚れた顔は、いまだそのまま残っていた。

 あまりのおぞましさに、ユディスは吐き気をおぼえた。おそらくは、クローネはおろか、彼女の精神を支配しつつある《響》ですら、あの肉体をもてあましているのではないか。

 地を蹴って、カルは正面からクローネに向かっていった。触手のようになった肉の塊が振り下ろされ、気弾が飛んだが、どちらもカルはかわした。羽根がこすりあわされる。聴く者を発狂させる音波。カルの足が一瞬止まった。だが、真空の刃で音を切り裂き、無効化した。

 充分な距離まで近づいて、カルは短剣を投げた。立て続けに五本。最初の一本を含め、円形になるようにクローネの身体に打ち込む。最後に放たれた針金が、生き物のように六本の短剣の柄に巻きつき、一つに繋いだ。

「(zzaarrrrp!)」

 青白い電光が短剣の一本に落ち、針金の上を跳ね回った。クローネは苦痛に身をよじり、獣じみた叫びをあげた。

「勝負あったか」

 ぽつりとヤトナが言った。

 その言葉通り、地響きを立ててクローネの身体が倒れた。小山のような、赤黒い脂肪の塊と見えた。周囲には、ひどい悪臭が漂っていた。

 カルは剣を鞘に収めると踵を返した。疲労していると感じさせはするものの、しっかりとした足取りでこちらに向かってくる。その顔からは、あらゆる感情が消え失せていた。

「……死んだ……の、ですか……?」

「いや」

 ユディスの問いに、カルは首を横に振った。

「どうして……」

「おれの目的は〈吐息〉を殺すことじゃない。より強い相手と戦えるなら、あえて敵を見逃すのも選択肢たり得る」

「待って。待って、カル……それじゃあ、クローネは……」

 すすり泣くような声が聞こえた。異形となったクローネが、天に向かって手をのばしていた。

「イヤ……イヤだ……消えたくない……消えたくないよ、兄さん……」

 ごぼごぼと血の泡がクローネの口許から溢れた。しかし、〈吐息〉の強靭な生命力は、彼女に死という安らぎを与えてはくれないようだった。

「あのまま、心を化物に」

 喰われて――

「そうすれば、《響》はさらに強くなる」

 背筋が寒くなった。淡々としたカルの声が、まったく知らない人間のもののように聞こえた。

「とどめを刺すべきです。《響》に以外にも〈吐息〉はいるのでしょう?」

「妙なことを言うな。彼女は仲間の仇なんだろう?」

 人の心を失って、化物として生きてゆく――それは、ある意味死より恐ろしい運命だ。

「彼女の……人としての尊厳を踏みにじることが、私の本意ではありません。それに、まだ人の心があるうちに死なせてやるのが慈悲というものです」

「慈悲か……そうだね。たしかに、きみの言う通りだ。でも、ダメだ」

「なぜ……」

「ファラを元に戻すこと――それが、すべてに優先するから」

 強い目の光に、ユディスは動けなくなった。答えはとうの昔に出ている――カルは以前、はっきりとそう言った。ファラのためならば、他人の幸せを壊すことさえ厭わない、と。

「きみこそ、なんでクローネに情けをかける?」

 静かな問いかけだったが、ユディスにとっては重い問いだった。クローネに共鳴したからといって、彼女がなした所業が清算されたわけではない。幸福とは言いがたい生い立ちも、カルへの憎しみも、ディナンが滅ぼされて良いという理由になりはしない。今さら考えるまでもないことだ。しかし――

「尊厳を踏みにじるのは本意ではないときみは言うが、きみの仲間たちは……あのオルラノという人は、それをされたんじゃないのか?」

「……知って、しまったからです。彼女を」

「彼らの無念はどうなる?」

「死者の無念がどうこうというのは、ユラル流の考え方です。人は死ねば、大地に還るだけですから。憎しみは、私ひとりの物。私が呑み込めば、それで終わりなのです」

 クローネの罪は罪だ。だが、クローネという人間を知ってしまった今、一方的に彼女を断罪することは、ユディスにはできなかった。

「彼女は……私と同じ。ひとつ歯車がちがっていたら、私も彼女のようになっていたかもしれない」

「たしかに、ディナンが滅んでしまっている以上、唯一の生き残りであるきみさえ納得すれば、復讐は必然性を失う。でもいいのか? クローネを、許しても」

「許すわけではありません!」

 気がつくと、ユディスは叫んでいた。

「許せるわけがないじゃないですか! ディナンのみんなを、あんなふうに殺しておいて! オルラノ兄さまをあんなふうにしておいて! あなたも……カル……もう、駄目かと思ったら、目の前が真っ暗になったわ……また、私の前で誰かが死んでいくんだって……でも、だからといって、同じ苦しみを相手に与えて、それで終わりになるわけじゃないでしょう? 失われた命に見合う罰なんて、ありはしないんだから!」

「………」

 泉の底を思わせるカルの瞳が、じっとユディスを見つめた。

「だから、クローネには、己の犯した罪を罪と認め、悔いて、己が手にかけた人たちに、心から、済まなかったと詫びて欲しかった……そのためにも、彼女の心を〈ブレス〉に壊させてはいけないのです」

「そうか。わかった――レイガン、剣を」

 カルに言われて、レイガンが補助用の武器として持ち歩いている自分の剣をカルに投げ渡した。カルは、受け取ったそれをユディスに差し出した。

「残念ながら、彼女には時間がない。きみが望むように、罪を悔いるだけの思考能力も残されてはいないだろう。ユディス、きみに選べる行動は、あの哀れな少女に最後の慈悲を与えてやることだけだ。……できるか?」

 ユディスはうなずき、剣を受け取った。カルにはクローネを殺したくない理由がある。非情で冷酷な理由だ。だがそれは、彼なりに苦しんで出した結論に基づいている。

 ファラのため――それを至上のものとしなければ、カルの心はもたなかった。ノーザパイドを一度でも使えば、そのことはわかった。

 だから、クローネにとどめを刺す役目は、自分が果たさなければならない。

 ユディスは苦しげに喘ぐクローネに歩み寄り、剣を振り上げた。醜い姿――だが、目はそらすまいと思った。

「わかりますか、クローネ。これが、復讐に身をやつした結果です」

 あるいは、自分も未来であったかもしれない姿――

 クローネがわずかに眼球を動かしたが、その瞳はユディスを見てはいなかった。ユディスの声が届いているかどうかも怪しい。

「ですが、これであなたの苦しみもおしまいです。

 若干の羨望さえ伴った、その言葉――

「さようなら」

 両目を見開いたまま、ユディスは大きく息を吸った。

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