踊る者たち 5

 逃げているというつもりは、クローネにはなかったのかもしれない。さほど時をおかず、ユディスは少女に追いつくことができた。

「しつこいわね。そんなにわたしを殺したい?」

 振り返ったクローネは、長い黒髪をかきあげた。

 愚問である。ユディスは無言のまま剣を構え、相手をにらみつけた。

「本当、誰かさんとそっくり」

 ふく、ふく、とクローネが笑った。憎い相手ではあるが、外見だけはたしかに愛らしい。

「ねえ。わたしが今、どんな気分かわかる? もう、これ以上ないっていうくらい、すがすがしくて、満足感に溢れてる。だって、長年の悲願が……兄さんが死んでから、ずっとそれだけを願っていたことが、叶ったんだもの。それから……すごく眠い。手足に心地よいけだるさがあって、だんだんと重みを増してくるの。なんか、もう、何もかもがどうでもよくなっちゃって、このまま……」

 ねえ――クローネは青く澄んだ空を見上げた。

「もう、わたし、休んでもいいんだよね? もともと帰る場所なんてなかったんだもの。ここで横になって、空を眺めながら、眠りに落ちて……そのまま、目覚めなくったっていい。きっと夢なら、また兄さんに会えるもの。だから――」

「だから、何?」

「あなたに殺されてもいいよ」

 本気か、とユディスは訝った。たしかに、兄の仇を討つという目的を果たしたことにより、一種の放心状態に陥っているようではあるし、その心理も理解できる。だが、〈吐息ブレス〉という化物に、人間の常識をあてはめても良いものか? この生きる気力を失ったような物言いも、なんらかの罠とも考えられるではないか。

(そうだ。それに――)

 クローネが〈吐息〉なら、そもそもどうして、カルを兄の仇とつけ狙っていたのだ? 〈吐息〉となった時点で、本来のクローネの精神は駆逐され、《響》のそれと置き換わっていなければおかしい。それとも、カルの言っていたことは間違いで、もともとの精神が残るということも有り得るのだろうか?

 それは、あまりあまり当たっていて欲しくない想像だった。もしそうなら、ユディスが殺したオルラノは、彼女の知るオルラノだったということも考えられるからだ。

「どうしたの? やらないの?」

「そんなわけ……」

 いずれにせよ、ノーザパイドを使ってみればわかる。

 カルから借り受けた剣を、ユディスは鞘から抜いた。


 歌声が響いていた。

 戦場には不似合いな、澄んだ若い女の声――それは、草花や鳥たちを愛でるようでもあり、戦に倒れた兵士たちを悼むようでもあった。

「何だ、こレは……?」

 レイガンが身を起こした。気を失っていた彼の仲間たちも、次々に目を覚ました。彼らの中心に、ひとりの若者が倒れていた。

「カル!」

 レイガンは慌てて駆け寄った。そして、カルの腹に突き立っている己の矢に気づいた。

「まさカ……俺たちが……?」

「その通り」

 すぐ横で声がしたので、レイガンはとっさに飛び退き、ハンマーに手をかけた。

「慌てるな。敵ではない」

 声の主は、カルと同じ年頃の娘だった。腰までとどく銀灰色の髪。ユラルの傭兵たちの間から感歎の声があがったことから察するに、美しい娘なのだろうとレイガンは思った。

「歌ってイたのは、お前か?」

「この身体がな、求めるのだ。息をするように歌っていたヤツだからな」

 娘はレイガンを横目で見やりながら、よくわからないことを言った。

「何故、こンな場所に?」

「わしは最初からすぐ近くにいたぞ。お前たちが気づかなかっただけでな。……で、こやつがこんなことになったので、出てきたわけだ」

 娘がつま先でカルの頭を小突いた。

「たわけが。度し難い阿呆めが。わし以外の女のために、命を投げ出しおって」

 どうやら彼女は怒っているようだった。それにしても、こんな状態のカルに対し て、ずいぶんな態度を取るものではないか、とレイガンは唸った。

「さて。このままでは困るな」

「何がダ?」

「わしが困る」

「何が困るトいうのだ?」

「お前にも手伝ってもらうぞ。こやつをこんなにした責任を、取ってもらわねばならぬからの」

 そう言って娘は、またカルの頭を小突いた。


 ユディスは、初めてノーザパイドにふれた時の感覚を思い出していた。

 基本は、素霊の声を聴くのと同じだ。ただ、まったく同じでは剣を使うには不充分だ。五感をひらき、とりわけ剣を握る指先に意識を集中させる。そして、剣の持つ音に、ゆっくりと自身の音を同調させてゆく。

 七つの穴が息づくのがわかる。その震え、穴を通過する空気の流れが、反響し、指先に戻ってくる。音が直接、血管に流れ込んでくるようだった。最初は自分の周囲の音だけ。それがやがて、徐々に範囲を広げ、流れ込んでくる音の量が加速度的に増えていった。

 吹きつける風。草の香。きらめく光。めまぐるしく飛び交う音の渦。そうしたものに混じって、見たことのない光景が断片的に脳裏に閃いた。これだ。共鳴する、他者の意識。今、目の前にいる、少女の記憶だ。もっと。もっと深く……。

 自分とクローネ。同一平面上に描かれたふたつの輪郭が重なり合うような瞬間があった。そのとたん、奔流のように、とてつもない量の情報がいちどきに頭になだれ込んできた。

 ユディスは思わず叫んだように思ったが、その声は脳内で暴れまわる音に完全にかき消された。

(なに……これ……なっ……)

 思考すらも押し流された。続いて、割れるような頭の痛みに襲われ、ユディスは身体を折った。まるで、自由にならない言葉と音と取りとめもない考えが、渦を巻き、絡まり、膨れ上がって、頭蓋を内側から押し破ろうとしているようだった。

「ガッ」

 嘔吐した。

 目を開いているのに、見えるのはさっきまであった光景ではない。次々と移り変わる、クローネが今まで見てきた事物だ。網膜が焼けるように熱い。それなのに、見ることを止めることができない。

 クローネが生きてきた時間は、二十年にも満たない。それでも、彼女が経てきた体験は、言葉にするにはあまりにも多く、いちどきに心が受け止められる限界を遥かに超えていた。しかし一度限界を超え、押し寄せる情報に身を委ねてしまえば、意外なほどに心地よかった。溺れ死ぬ寸前、人は母の胎内に還るかのような快感をおぼえるというが、それと似たようなものなのかもしれない。

 しかしやがて、頭の中で暴れまわるだけだった音の洪水が、穏やかになってゆくのがユディスにもわかった。はじめは切り替わるのが早すぎて認識すらできなかった光景も、目が慣れたのか、だんだんどんなものか判るようになり、しかも一瞬垣間見ただけで、あれはどこそこで起きたどういう出来事、あれはだれだれが言った科白、というように、一つひとつがすとんと胸に落ちてくるようになった。さらには、その時々にクローネが感じたこと、考えたことまでが、まるで我がことのように理解できるようになっていった。

 そしてユディスは、クローネの傍らに、常にある一人の人物の姿があることに気づいた。

(もう、家には帰れないな)

 彼女の兄。口減らしのために人買いに売られたクローネを奪い返し、以来、二人だけで生きてきた。優しく、強く、思慮深く、どんな困難にも負けず、弱音を吐かず――常にクローネの、世界でたった一人の味方であり続けた。

 大きな手。優しい声。すこしだけ皮肉そうな笑顔――それらをどれほど愛していたか。

 焚火を挟んで二人で取った慎ましやかな食事。峠で見た夕焼け。街の喧騒。物憂げな歌声。揺られた背中――思い返し、浮かぶのは、なんということのない出来事ばかりで。

 彼がいつから彼でなくなっていたのかは、わからない。彼の周囲に怪しげな連中が現れるようになり、聖文法の才に優れていたクローネも、いつしか彼らの仕事を手伝わされるようになっていた。子供心にも、その仕事の意味は薄々わかっていた。それでも、兄がそれを望んでいるのならと、喜んで従った。いつか訪れる終わりのときを、いつもどこかで意識しながら。

 それは突然訪れた。旅芸人の一座をひとつ、潰した。数ヵ月後、奇妙な剣を持った少年に兄は殺された。その一座の生き残りだった。

 クローネの世界は壊れた。

 兄の仇を討つために、クローネは兄と同じ〈吐息〉となる道を選んだ。ただし、普通のやり方ではなく、クローネの精神を保ったまま〈吐息〉と融合するという、特殊な方法だった。兄を失った悲しみも、カルに対する憎しみも、クローネだけのものだった。クローネとしての意識が消えてしまったら、何の意味もない。

 脳内に異物を受け容れるのは、想像を絶する苦しみだった。ひと月あまりも起き上がることが出来ず、動けるようになっても、ろくな力を使えなかった。だが、絶望している暇はなかった。時がうつれば、いずれ〈吐息〉に精神を呑み込まれる。

 ようやく納得のいく力を手に入れた頃、最初の命令が来た。バーレン軍の一隊を操り、アルフィヤの集落を襲った。興奮した。ちっぽけだった自分に、これほどのことができる。兄の顔が浮かんだ。もうすぐだよ、と呼びかけた。

 だが、それから数年、チャンスはなかなか巡ってこなかった。日に日に侵されてゆく心。〈吐息〉に呑み込まれることへの恐怖よりも、何も感じなくなってゆくことが恐ろしかった。

 カルの足取りをつかんでからは、自分を抑えるのに必死だった。刻限が迫っているのは判っていた。臓腑が千切られるような焦燥に耐えながら、一つひとつ、罠を張っていった。

 それらすべての苦労が、ようやく報われたのだ。もはやこの世に思い残すことはない。兄のいない世界に、未練などない。

「殺してちょうだい」

 喜びが溢れた。

「さあ、はやく」

 両手を広げ、ユディスに向かって差し出す。

 ――違う。

 ユディスは、自分だ。

「私はクローネじゃない」

 笛のように音を発し続けるノーザパイドを上段に構えた。

「私が彼女を殺すんだ」

 無防備な脳天。ひと息に、決める。踏み込んだ。鮮血の光景を想像した。

だが、目の前の少女の顔はきれいなままだった。

「え?」

 腕を振り下ろした感覚はあった。それなのに、剣はまだ頭上にある。

 もう一度。肺に空気を送り込み、止める。今度ははっきりと、腕が動かないことがわかった。

 クローネが怪訝そうな顔をする。

「どうしたの?」

 理解した。斬れない。自分には、この少女が。

 同胞を、家族を奪われた。オルラノを辱められた。カルを目の前で殺された。憎い。殺しても飽き足らぬほど憎いはずなのに、どうして――

 否。本当はすべてわかっていた。彼女の感じた幸せ、痛み、哀しみ――すべてが、ユディスの胸で響いている。今も、まるで、ユディス自身の感じたことのように。

 カルは、ノーザパイドを使って敵を倒すことを、愛する者を自らの手で殺すことに等しいと言った。理解したつもりでいた。その上で、なお憎しみが勝るだろうと思っていた。

 まるで覚悟が足りなかった。すでにクローネはユディスの血肉となっていた。このまま彼女を殺せば、ユディスは己の半身を失うことになる。

「まさか。ばかな……」

 必死に否定しようとした。けれども、言葉だけではどうにもならないものがある。

「できないの?」

 クローネの声には、明らかな失望の響きがあった。ユディスを見る彼女の瞳に、徐々に怒りの色がのぼっていった。

「できないのね。だったら」

 とん、とクローネはつま先を鳴らした。すると、ノーザパイドが手の中でくるりと回り、切っ先をユディスの咽に向けて止まった。他者の音に干渉し、意のままに操る《響》の力である。

 殺される。だが、それもいいと思えた。自分が殺す側にまわるより、よほどいい。

 あとは、身体をすこし前に倒せば、それで終わる。思えば、復讐に心を占められて生きる日々は苦痛ばかりが大きかった。皆には悪いが、これで楽になれる。

 ユディスは、半ば自ら切っ先に身を投げ出した。

(ごめんなさい……でも、私はここまで)

 何かが彼女の身体を受け止めた。とじていた目をひらくと、男の腕がユディスを支えていた。もう一方の手は、ノーザパイドを持つユディスの手を押さえている。

「これをきみに使わせたくはなかった」

 ユディスは耳を疑った。だが、今日という日は、夢かと思うくらいにあまりに信じられないことばかり起きる。

 悪夢ばかりが続く夢だ。ひとつくらいは、良いことがあってもいいではないか。

 顔を上げた。目が合った。黒い瞳が、青い光を反射している。

「カル……!」

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