踊る者たち 4

 ユディスの兜が飛び、赤い飛沫とともに金色の髪が幾本か宙に舞った。

「ユディス!」

 カルはもう一度叫ぶと、馬腹を蹴った。

 ユディスは《旋》と向かい合ったまま立っていた。髪留めが外れ、頭の後ろで結っていた髪がほどけている。武器も持たぬまま、両手をだらりとさげ、額からは血を流していた。

 がふっと音がして、《旋》の口から血が溢れた。のろのろと腕を持ち上げ、自分の腹のほうへともっていく。水の刃で鎧が断ち割られ、傷口からは内臓が見えていた。

《旋》が倒れた。倒れる間にも、彼はユディスから目を離さなかった。

「勝ったのか」

「はい。なんとか、私のほうが、先に……」

 震える己の手を、ユディスは見つめていた。《旋》が使っていた斧は、二人からかなり離れたところに落ちていた。ユディスは、まだ息のある《旋》の前に屈み込んだ。

「気をつけろ。死ぬ前に、きみの身体を奪おうとするかもしれない」

 カルの忠告に、ユディスは黙ってうなずいた。

「ユ、ユディス……ユディス……」

 弱々しく《旋》は喘いだ。赤く染まった手をのばし、ユディスの頬にふれようとする。

「どうして……こんな……ことを……」

「あなたは兄さまじゃない」

 その腕を、ふれられる前に、ユディスはとらえた。

「ちがう……わたしは……オル……ラノ……」

「黙りなさい!」

 ユディスは腕を握った手に力を込めた。《旋》の手のひらの中では、どろどろとした黒いもやのようなものがうごめき、ユディスの耳に向かってのびてゆこうとしていた。

「あなたは……兄さまじゃ、ない」

 かつてオルラノであったものから、ユディスは目をそむけた。そのうちに、つかんでいる腕の力が抜けていった。手をはなすと、まるで重さのないもののように地面に落ちた。

「ごめんなさい」

 ユディスは呟いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 くちびるが、まるで己の意思とは無関係に動いているようだった。頬が濡れていた。自分が哀しんでいるのかそうでないのか、それすらもユディスにはよく判らなくなっていた。

 ふいに肩に手を置かれた。

「カル……」

 振り返ると、カルが哀しそうに微笑んでいた。

 重さの感じられないその笑みは変わりないのに、なぜだかその表情は、彼に似つかわしくないと感じた。

「これでよかったんだな?」

「……はい」

「そうか。よくやったな」

 まだ、オルラノの腕をつかんでいた格好のまま、おろせずにいたユディスの手を、大きな手のひらが包んだ。かすかに残っていた震えがとけてゆく。ユディスはうなずいた。また、涙があふれた。

「あ……」

 聞こえるか聞こえないかという声がカルの口からもれた。ユディスは顔を上げた。カルはもう、ユディスを見てはいなかった。彼の視線を辿る。丘の上――小さな人影が見えた。

 こちらを見ている。揺れる黒髪。

(女の子?)

 気づいた瞬間、空気が張りつめた。

「しまった」

 カルの顔から血の気がひいていた。傭兵たちが、遠巻きにユディスたちを取り囲んだ。手には弓。鋭いやじりの光が、こちらを向いていた。

「なんの真似――」

 言いかけたところで、ユディスは彼らの目の色が異常であることに気づいた。まるでまどろみの中にいるように、うつろで力がない。

「レイガン!」

 ラハドの男も例外ではなかった。彼らに何が起きたのか、ユディスが判断するよりも早く、矢が放たれた。よけられない。そう思った瞬間、突き飛ばされた。

「カル!」

 肉に矢が突き立つ音。ひときわ大きな、空気を切り裂く気配。ユディスの口が、叫びのかたちにひらかれたまま凍りついた。

 脇腹に、どん、という衝撃がきた。紙一重の差で地面に刺さったレイガンの矢を、赤い液体が伝い落ちてきた。

「あ……ああ……」

 言葉が出てこなかった。目の前にある光景を、幻だと思いたいのに、いつまでたってもそれは消えてなくならなかった。

 よろめきながら、ユディスは立ち上がった。応じるように、カルの身体が傾く。手をのばした。けれども、指に力が入らず、カルはユディスをすりぬけていった。

「カル……カル!」

 膝をつき、身体を抱き起こして、声を限りにユディスは呼びかけた。だが、カルはくちびるをわずかに動かしただけで、ユディスの声に応えることはなかった。

「やった……! ついに、ついにやった!」

 丘の上から歓声があがった。見ると、黒髪の少女が、己の身体をかき抱くようにして震えていた。

「見ていてくれた、兄さん? 間に合いました! クローネは、成し遂げました!」

少女は恍惚の表情に涙を浮かべ、嗚咽とも笑いともつかぬ声をもらしていた。

「……クローネ? あなたが……《響》?」

「そう!」

 ぞっとするような目で、少女はユディスを見下ろした。

「あなたには感謝するわ、ユディス。《旋》を倒してしまったのにはちょっと腹が立ったけど、おかげでカルに隙ができたし、面白いものも見られたから許してあげるわ」

「何をしたの……? これは――」

「暗示をね、かけただけよ。《旋》が死ぬと同時に発動する、『カルティオン・ライルを殺せ』という命令の」

 マレードからだ、とユディスは気づいた。おそらくクローネは、これまでずっとカルの動向を探り、彼を殺すチャンスを窺っていたのだろう。そして、カルがこの戦に加わることを知り、先回りして傭兵たちに暗示をかけた。わざわざこんな回りくどい手段を取ったのは、ノーザパイドで悟られないようにするためと、《旋》との戦いでカルが消耗したところを衝くという意図があったからだろう。

 ユディスは、カルの身体をそっと地面に横たえると、クローネと向き合った。

「バーレン兵を操って、デュナンを襲わせたのはあなた?」

「そうよ。よく覚えているわ。あれがわたしの、〈吐息ブレス〉としての最初の仕事だったの。あなた、あれの生き残りなんですってね」

 あっさりと、クローネは言った。ごまかそうとか、都合のいいことを言って同情を引こうといった意図はなく、ただ当たり前のことを当たり前に話したという感じだった。

「懐かしい。ほんとうに……ずいぶん、かかった」

「懐かしいですって? 何を……何を言って――あなたはっ……自分のしたことが――」

 大切な人たちを、突然奪われた。それからどれほどの苦しみを味わいながら、今日まで生きてきたか。無力感に打ちのめされ、孤独に苛まれ、光さえ見えない道をさまよい続けた。すべてはあの日を境に終わりを告げたのだ。あの、温かく安らぎに満ちた日々は。そして今度は、カルの命までも――

「もちろん、わかっているわ。だから、せめて器になれなかった者はすべて殺してあげようと思ったのに。なまじ生き延びたりするから、つらい目にあうのよ。オルラノもずいぶん罪なことをしたものね」

 冷ややかな目。まるで、ユディスやオルラノのほうが悪いとでもいうような物言い。

「よくも……よくもそんな……」

「あたりまえじゃない! 兄さんの仇を討つためだもの。そのために、わたしはどんなことでもするって誓ったんだもの。あなたのことなんて、知ったこっちゃない」

 ユディスは怒りで二の句が告げなくなった。なんと傲慢で、自己中心的――こんな相手に少しでも同情した己を、ユディスは恥じた。

「それじゃ」

 クローネは、話は終わったというように、スカートの裾を払った。

「わたしもう行くね。戦場の匂いって好きじゃないの」

「ま、待ちなさい!」

 びん、と空気が震えた。次の瞬間、踏み出しかけていたユディスの足許が抉れた。

「なっ!」

 なんらかの攻撃があったのはわかった。だが、見えなかった。クローネの姿が、丘の向こうに消えようとしていた。振り返る。血を流し、倒れているカルがいる。ユディスは迷った。このまま彼を、置いていって良いものだろうか。

 まだ息はある。しかし……どう見ても、助かる傷ではない。体温が失われていくまざまざとした感覚が腕によみがえり、ユディスは身震いした。

 カルが死ぬ――考えたくもないが、その時は確実に迫っている。彼を看取ってやる者が、必要なのではないのか?

(でも、クローネがそこにいるというのに……)

 やっと辿り着いた、仇である。彼女を殺すためにユディスは生きてきたのだ。ディナンで死んだ――あるいは、オルラノのように器として肉体を奪われた同胞たち――その無念を、晴らさねばならない。カルが死んだら、彼の分も。

 ユディスはノーザパイドを手に取った。柄がカルの血でぬめった。かちかちと鳴る歯をぐっと噛み締め、ユディスはクローネの後を追った。

(ごめん、カル)

 丘を越える時、ユディスは振り返らなかった。

(すぐに戻るから。あいつを倒して――)

 呪文のように繰り返しながら、ユディスは走った。

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