侯爵 9

 アルベオ通りに起きている異変は、空中にいるユディスにも感じられた。

 素霊たちが、悲鳴をあげている。そこで何者かが使った力のせいだ。セーヴァで、そして滅びゆく故郷で感じた、あの禍々しい力――やはり、〈吐息ブレス〉か。身内に熱い炎が湧き上がってくる。あるいはついに、巡り合ったのかも知れない。

淡い期待が、常になくユディスを昂ぶらせていた。

「あれは?」

 目標に追いついたユディスは、異様な光景に目を見開いた。

 通りのその一帯の地面が、赤茶色に変色していた。

 街中に突如として出現した底なし沼――中心にはマントをつけた男がひとり立っており、男の正面には、泥に半ば呑み込まれつつあるアークの姿があった。

「アーク!」

 ユディスはすぐさま少年のそばに降り立った。と言っても、さすがに彼女も、得体の知れない泥の中にいきなり足を突っ込むほど愚かではない。幸いにも、アークがいるのはかなり端のほうだったので、ユディスはひとまず泥の外側に着地したのである。

「アーク、こっちに手をのばして!」

 泥の中でぐったりしていたアークが、薄くまぶたをひらいた。

「くそ……よりによってあんたかよ……」

「つまらない意地を張っている場合ですか! さあ、はやく!」

「だめだ……肩を砕かれちまって……」

 アークに聖文法を使わせないためだろう。

「なら、あの蛇のゴーレムを使いなさい」

 ユディスが言うと、アナンタという名のアークのゴーレムは、持主の上体に身体を巻きつけ、首をユディスのほうへとのばした。ユディスも目一杯手をのばすと、かろうじてアナンタの首に届いた。

「いいですか? 一気に引っ張りますよ」

 腰の辺りまで泥に沈んだ身体を引っ張り出すのはかなり骨が折れた。だが、一番きついのは最初で、いったん抜け出しかかると、あとはあっという間だった。ユディスは勢いあまってうしろに倒れ、アークは彼女の上にのしかかる格好になった。

「わっ! ご、ごめん!」

 アークは少年らしい素の表情にもどって、慌ててユディスの上から退いた。

「いえ。それより、ファラさんは? 一緒だったはずでしょう」

「ああ……ヤツならあそこだ」

 アークはぐいっとあごで示した。見上げると、左手の商家の屋根に腰掛けたファラが、ニヤニヤと笑みを浮かべながらユディスたちを見下ろしていた。

 その視線にあてられただけで全身の毛が逆立つような、圧倒的な威圧感。まるで両目から青い炎を噴き出しているかのような錯覚をおぼえる。

「なるほど。ヤトナ様がお目覚めになられたのですね」

「まったく不甲斐のない小僧よの。お前がしっかりこの小娘を守らぬから、わざわざわしが出てこねばならなかったではないか」

 さすがに言い返せないと思ったのか、アークはくちびるを噛んで悔しそうにうつむいた。

「それで、お前たち。これからどうするつもりだ? もうしばらくすればカルも駆けつけてくるであろうが、なんならお前たちがこのデナリスとやらと戦うか? 見事勝ちを収めれば、気を頂いてやってもよいが」

「あんたは戦わないのかよ。神の力をもってすれば、こんな奴に負けやしねえだろ?」

「馬鹿をぬかすな。自ら餌を取る女王蜂がどこにおる?」

 どうやらヤトナは、自分の食事のためとはいえ、指一本動かすつもりもないようだった。

「く……目の前にいるんだから、ちゃっちゃとやってくれりゃあいいのに……」

「しかたありません、アーク。ヤトナ様がああおっしゃっているのです」

「あんたはそれでいいのかよ?」

 アークは痛みに顔をしかめながら言った。

「これはカルが言っていたのですが、人間の身体は、ヤトナ様ほどの力を持った神の器としては小さすぎるのだそうです。ですから、下手にあの身体を使って戦うと、その力をうまく制御することができず、身体を傷つけたり、せっかく溜め込んだ気を浪費してしまう結果にもなりかねないとか」

「本当かよ? 胡散臭いな」

「胡散臭くてもなんでも、今はあの方のおっしゃる通りにするしかなさそうですよ」

 ユディスとしても、なかばやけくそのような気持だった。なにしろヤトナと来たら、まるで歩く理不尽なのだから。

「でもどうする? あいつの能力は、自分の周囲の地面を底なし沼に変えることらしい。このままじゃ近づくこともできないぞ」

「ご心配なく。要は、地に足をつけなければよいのです」

 ユディスはすぐさま素霊たちに呼びかけ、風の渦を作った。風踏みの術。これを使えば、底なし沼など怖くはない。

 裂帛の気合いとともに、ユディスは風を蹴った。雨を切り裂いて鞭のように身体がしなった。短剣を腰だめに構え、一直線にデナリスに斬りかかる。

 手ごたえ――浅い。すんでのところで外された。反対側に着地する直前に反転し、足をつっぱってブレーキをかける。

(もう一度……!)

 そう思い、踏ん張った瞬間、地面の感触が一変した。つま先が、ずぶずぶと音をたてて沈んでゆく。

「広がっている?」

 嘲笑わらったのか? フードの下からのぞいているデナリスの口許が歪んだように見えた。

 腕をだらりと垂らした前傾姿勢のまま、デナリスが一歩、近づいた。彼だけが、泥の上を沈むことなく歩くことができる。ユディスはなんとか這い上がろうともがいたが、もがけばもがくほど、泥の底へと身体は沈み込んでゆく。

「くっ……」

 焦りは募り、次第しだいに体力も気力も削り取られる。デナリスがまた一歩、今度は身体ががくんと前に傾ぐほど大きく踏み込んだ。それと同時に、彼の両方の袖からなにかが音を立てて下に落ちた。

「う、うそ……」

 ユディスは我が目を疑った。だが、それは錯覚ではなかった。デナリスの肩から先は完全に抜け落ち、中身を失った両袖がむなしく左右に揺れていた。

 驚いているひまはなかった。デナリスの腕が沈んだあたりから、魚が水面すれすれを泳ぐように、二つの物体がものすごい勢いで向かってきた。ユディスの左右、距離にして五歩程度の距離で、それらの物体は泥の中からとびだした。

 現れたのは、人の腕の形をした泥のかたまりだった。ユディスはとっさに腕を上げ、顔とのどもとをかばった。泥の腕は、そんなユディスのガードをかいくぐり、彼女の首と二の腕に指をからませた。呼吸を封じつつ、前に引き倒す。すでに両足を呑まれて動けないユディスは、ほとんどなすすべもなく泥の中につっぷした。泥の腕は、こちらからは突いたり払ったりしてもまるで手ごたえがないのに、信じられないほどの力でユディスを押さえ込んではなさない。

 まずい。このままでは――喉をぎりぎりとしめつけられているせいで目の前がかすみ、耳鳴りがした。頭が割れるように痛む。こんな、簡単に……。

「上だ!」

 声がした。わけがわからないまま手をのばした。固い感触があり、ユディスはそれをつかんだ。ぐん、と身体が持ち上げられる。気がつくと、彼女は空を飛んでいた。

「ジュナ……」

 それはユディスの騎竜であった。ジュナは全身を震わせて一声吼えると、翼を大きくはばたかせた。背中に乗っていた男が、下にいるユディスをのぞきこむように首を伸ばした。

「大丈夫かい?」

「カ、カル……? どうしてジュナが、私以外の人間を背中に……」

「ご主人様のピンチだったからじゃないかな」

 カルがとぼけたように言うと、応じるようにジュナが鳴いた。カルはいったん城に戻って、ジュナを厩舎から出してきたのだろう。おかげで助かった。

「主人を差し置いて他人と心を通わせるなんて、あとでおしおきが必要ですね」

 ユディスが言うと、カルは笑いながら肩をすくめた。不思議だった。その顔を見た途端、恐怖も気負いも消えた。

「やれる?」

「もちろん」

 ユディスは自ら手を離した。風を呼ぶ。空いたほうの手にも短剣を握り、落下に近い速度で、頭上からデナリスに斬りかかる。

 泥の手が、ユディスを捕らえようと伸びた。ユディスは風を踏み、方向転換してそれをかわした。

 ユディスが迫る。ようやく危機感を覚えたのか、デナリスが逃げ出すような姿勢を取った。

「(shrrrrrie!)」

 ――逃がさない。

ユディスは周囲の風を集め、巨大な気弾を作り出した。交差した短剣でそれを支え、体当たりするようにデナリスに突っ込んだ。

ぱん、と風船の割れるような音がして、デナリスの身体が爆ぜた。

「おう、えぐい」

 ヤトナがけらけらと笑いながら手をたたいた。

 肉体の八割がたを失ったデナリスは、なんとか立ってはいたが、子供が適当に藁をねじって作った人形のような哀れっぽい姿になっていた。ユディスは油断なく、建物の屋根にのぼってようすをうかがった。これで終わりだとは思えなかった。ただの人間の身体でも、ああ脆くはない。

 しばらく見守っていると、ゆらゆらと揺れていたデナリスの残骸が、真ん中辺りでふたつに折れた。それと同時に、沼の底に穴があいたかのように、通りを覆っていた泥の面積が徐々に小さくなってゆき、最後は倒れたデナリスの身体とともに、完全に消滅した。

「まさか、本当に死んだのですか?」

 ユディスが言うと、隣にやってきていたヤトナが、くつくつと喉を鳴らした。

「いいや。やつめ、お前の術を喰らう寸前に、泥人形と入れ替わっておった。あのまま足許に追い討ちをかけておれば倒せたやも知れぬが、そこはやつの読み勝ちだったのう」

「うぐ……」

「もとよりやつの目的は時間稼ぎだ。もうひとり、女の〈吐息〉を逃がすためのな」

「もうひとり?」

「見たところ、他者の〝音〟に干渉して行動を操れるらしい。のう、アーク?」

 カルに助け起こされながら、アークが神妙な顔でうなずいた。自分の意思とは関係なく足が動いたり、急に動かなくなったりしたのだと、彼は説明した。

「なんだか、ユディスの話に出てきた小娘に似ておる気がするの」

「そ、それじゃあ――!」

 ついに仇にたどり着いたかも知れないという興奮に、ユディスは思わず叫んだ。

「落ち着け。そやつがまだディナンを滅ぼしたやつと決まったわけではない。しかも、どこへ逃げたかもわからぬであろう?」

 それはそうだ。デナリスだけでも捕らえておけば、何かわかったかも知れないのに――がっくりとなったユディスの肩に、ヤトナが手を置いた。

「気を落とすな」

「ヤトナ様……」

「そんなことより、まあまあの戦いぶりだったの。褒めてやろう」

 そう言うなり、ヤトナはユディスの口を自分のくちびるでふさいできた。

「んん! ンンンンン――ッ!」

 ユディスは必死になってヤトナを振り払おうとしたが、全身が金縛りになったように動かない。ヤトナは軽く、ユディスの左右の手首を両手でおさえているだけなのに、どこにも力が入らないのだ。喉の奥から精気をはじめとする諸々の気が吸い上げられていくのがわかった。うまく呼吸ができず、気が遠くなった。

 下ではカルが叫んでいたが、ユディスにはその内容は聞き取れなかった。一分近くもそうしていただろうか。ようやく解放された途端、ひざが抜け、ユディスはへたりこんだ。

「やはり、とどめを刺しておらぬとイマイチだのう。次はきっちり頼むぞ――ん? どうした、息が荒いな。そんなに良かったのか?」

「うう……直接くちびるをつけるは必要ないって言ってたじゃないですか……それなのに……こんな……初めてだったのに、舌まで……」

「泣くなみっともない。たかが口吸いだろう」

「嫌な言い方しないで下さい!」

 うんざりした口調で言うヤトナに、ユディスは相手が神であることも忘れて食ってかかった。大声を出すと、頭がくらくらした。

 カルが二人に向かって、危ないから降りて来いと呼びかけた。気を吸われるというのは、思った以上に身体に負担がかかるらしい。立ち上がることすら出来ないユディスをヤトナが支えた。あんなことの後ではあったが、ユディスはしかたく彼女につかまった。

 屋根の上からカルの隣へ、ヤトナは無造作にとびおりた。衝撃はほとんど感じなかった。

「ヤトナ! またお前は――ユディス、平気か?」

 ヤトナに代わってユディスを支えながら、カルが優しい声で訊ねた。

「だ、大丈夫……ひとりで立てます」

 思わずほろりとなってしまったが、ユディスは気丈に答えた。

「アーク、もうひとりの〈吐息〉っていうのは、どんな奴だった?」

「黒髪の女の子だ。たしか、《響》のクローネと名乗っていた」

 その名を聞いた瞬間、カルの表情が凍りついた。

「《響》……そう、名乗ったのか……」

「ご存知なのですか?」

 彼のようすにただならぬものを感じ、ユディスはおそるおそる訊ねた。

「僕も気になってたんだ。あの女、どうもあんたとファラを知ってるみたいだったぜ」

「クローネ・ルジェンヌ――彼女は、おれが以前倒した、ある〈吐息〉の身内だ。正確には、〈吐息〉に肉体を乗っ取られた男の、だけど」

「そうか。ずいぶんカルを恨んでるようすだったけど、そういうことか」

「よくある話だよ。戦いに身を置いていれば、誰かの恨みを買うことは避けられない」

 正論だ。けれど、自分も復讐に身をやつす身であるユディスには、カルの言葉に対して何も言うことはできなかった。

「そうか。彼女が、奇し名を……」

「何ですか、それは」

「〈吐息〉各人に与えられた、力の特性に応じた異名のことだ。おれに復讐するために、〈吐息〉をその身に宿したのか……」

 カルは己に言い聞かせるようにそう呟き、口を閉ざした。降りしきる雨が、わずかに残っていた先刻の戦いの跡を洗い流してゆく。立ち尽くすカルの頬を、大粒のしずくが伝い、落ちていった。

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