侯爵 7

 ただ営舎の入口で待っていてもつまらないので、アークとファラは街をぶらぶらしていた。アークとしては、子守りを押しつけられたようで、なんとなく面白くなかった。

 空気はピリピリしているし、とりたてて珍しいものがあるわけでもない。それなのに、ファラはにこにこと笑いながら、実に楽しそうに通りを歩いていた。

「なあ、面白いか?」

「うん!」

 勢いよくうなずきはするが、その実彼女はなにも感じていないではないか。むなしくなって、アークはため息をついた。

 しかし、たしかによく出来ている、と思う。ファラのしぐさや行動は、ほぼ完璧に人のそれを模している。彼女に対し、カルは当たり前の人間を相手にするように接している。それは、たとえファラの行動が反射と形態模写にすぎなくとも、なるべく話しかけ、人として扱うことが、多少なりともファラを元にもどす助けになるからだと言う。

(けど、なーんか、人形遊びをしてるみたいな気分になっちまうんだよな)

 地味な格好をしていても、ファラの美貌はどうしても人目をひく。さすがにマレードは治安がいいので心配は少ないが、万が一にも柄の悪い連中に絡まれないとも限らない。その時には、アークが彼女を守らなければならないのだ。

 放っておくとどんどん先に行ってしまうファラを、アークは歩みをはやめて追いかけた。そのうちに、ぽつぽつと雨が降り始めた。ファラをつかまえたら、いったん営舎にもどったほうがよさそうだ。

 気がつくと、ファラは立ち止まっていた。そして、追いついたアークの腕に、いきなり自分の腕をからめてきた。

「な、なんだよ!」

 慌てて振り払おうとしたが、ファラはますます力を込めてアークにすがりついてくる。二の腕に押し付けられたやわらかい感触に、アークは頭が沸騰しそうになった。

「あれ……」

 ファラの声には、心なしか脅えるような響きがあった。その視線の先を、アークは追う。灰色の雑踏。その中から、墨が染み出すように浮き上がった、一組の男女。

 アークは息を呑んだ。


 あらわになった男の身体を見て、ユディスは息を呑んだ。

 ゴダーロから受けた傷の手当てをするために、一室を借りた。ロウソクに火を灯し、振り返ると、カルは上半身裸になっていた。

 その身体には、これまでくぐり抜けてきた戦いの激さを物語る、大小さまざまな傷痕が刻まれていた。ひときわ目を引くのが、肩甲骨の間にある、丸く大きな傷痕だった。

「大したことないのに」

「いけません。傷口から悪い風でも入ったら……」

 ユディスはカルの肩をつかんで椅子に座らせた。まずは背中。

 たしかに、深手というほどの傷はなさそうだった。木の剣を使っていたこともあり、裂けるよりも打撲や擦過傷のほうが多い。ユディスは、傷口を一つひとつ、丹念に消毒し、膏薬を塗ってゆきながら、何気ないふりを装ってその丸い傷痕にふれてみた。白く、皮膚がひきつっている。なにか槍のようなもので貫かれたような傷だが、もしそうなら致命傷になりはしまいか。

 次いで正面に回る。痛みに顔をしかめながら、カルがユディスを見上げてくる。目が合うと、カルは、このくらいなんでもないというように笑った。胸の真ん中にも、背中と同じような丸い傷痕があった。

「この傷は……?」

「これも〈吐息ブレス〉との戦いで。あの時は結構ヤバかったよ」

 軽い口調でカルは言う。そんな簡単なものなのだろうか? どう見ても、この傷は……。

「降ってきたな」

 顔を上げる。雨粒が窓を叩いていた。ひんやりとした空気がどこからか忍び入ってきた。

 隊長の座をなぜ譲ったのかと、ユディスは訊ねた。

「より確実に見つけ出すためだ」

 部隊を構成する三要素は、将と兵、それに両者の仲立ちをする繋音師アンフィシーという術師である。その他にも、参謀やら参軍やら結界師ボーラゥやら心医クワナルやら、軍全体を見ればさまざまな役職の人間がいるが、とりあえずその三つが揃えば、部隊としては成立する。

 アンフィシーの役目とは、将と兵の精神を、思念の糸によって繋ぐことである。そうすることで、軍やそれを構成する部隊はあたかも一個の生き物のように自在に動くことができる。アンフィシーがいるのといないのでは、戦闘力は天と地ほども差が出てくるのである。ことに今回のような寄せ集めの傭兵部隊などでは、アンフィシーなしでは部隊としてまともに機能すらしないだろう。

「隊長でも悪くはなかったんだけど、実際に剣を振るって戦わざるを得ない場面も多いだろ? その点、アンフィシーなら術に専念していれば文句を言われないし、戦場全体を見渡すこともできる」

 カルほどの剣士が戦わないのはそれだけで損失とも思えるが、彼の術師としての力量と、アンフィシーという役割の重要性を鑑みれば納得はできた。また、繫音術はその性格上、長時間安定した状態で保たれる必要がある。それには、気まぐれな素霊を使う操霊術よりも聖文法のほうが向いている。

「だからと言って、私に面倒を押しつけることはないでしょう。しかも、あんなことまで言って……」

 カルより強いという発言で、傭兵たちのユディスを見る目が明らかに変わった。カルがさも当然のことを言ったに過ぎないという態度だったせいか、実力を披露しろと迫られはしなかったものの、あれはかなり冷や汗をかいた。

 持ち上げられるのは別に悪い気はしないし、実戦で腕を磨いてきたという自負もある。問題は、カルがユディスの力を本当に認めているのか怪しいことだった。

「未熟と言ったり、強いと言ったり。本当はどう思っているんですか?」

「どっちも本当だよ。正味の戦闘力を比べたら、きみはおそらくおれより上だろう」

「そ、そうなのですか……?」

 面と向かってそう言われると、気恥ずかしいような、残念なような、どうにも複雑な気分だった。もちろん、もう一度カルと戦ったとして、負ける気はさらさらなかったが。

「未熟と言ったのは、アルフィヤとしての修行を、きみが終えていないからだ」

「う……」

 その指摘は正鵠を射ていた。ディナンが滅ぼされたことにより、ユディスの修行は中途半端で終わってしまった。それどころか、ユディスはまだ、代々ディナンのアルフィヤが伝えてきた奥義の、入口を垣間見たにすぎない。

 アルフィヤは、共同体内部での役割に応じて五つの氏族クランに分かれている。生活環境を調整する〈水の清め手〉、集落の防備と農耕に携わる〈地の聴き手〉、情報の収集と伝達を行う〈風の伝え手〉、狩猟と戦闘を司る〈火の放ち手〉――そして、これら四氏族の上に立つ指導者階級である〈央の束ね手〉。

 ユディスは、ディナンの〈央の束ね手〉の、最後の子供であった。

 もし、ディナンが存続していれば、ゆくゆくはアルフィヤの秘奥のすべてを授けられていただろう。ユディス自身は、それを格別願ったことはなく、むしろ課せられた責任を重荷と感じることのほうが多かった。それでも、ディナンの秘奥が失われたことにはどうしようもない悔しさと怒りを覚えた。

「ごめん。嫌なことを思い出したね」

「いえ……良いのです。怒りも悲しみも、時とともに薄れますから」

 人の心はそういうふうに出来ている。それは残酷な事実だ。歩みを止めぬためにも、あの時の感情を反復する作業が必要なのだった。

 カルは一瞬、顔を曇らせた。同情か? 本当に人が好い。しかし、いまさら同情など欲しくはない。欲しいのは、確実に仇にたどりつき、殺すための方法だ。

(あなたには、悪いけれど……)

 カルの優しさに甘えながら、それを邪魔に思う自分はなんと身勝手なのだろうとも思う。しかし、今はまだ、仕方がない。

 ユディスが気を取り直して治療を続けようとした時、周囲をはばかるような叩きかたで、ドアがノックされた。

「侯爵様からのお言伝です」

 ドアの向こうから、低い男の声が響いた。

「結界の一部が切られました。敵対者の侵入――〈吐息〉の可能性、有りと……」

〈吐息〉? まさか、街中に現れたというのか。

「場所は?」

 カルが短く、だが鋭く訊ねた。

「ここから北、アルベオ通りを西に移動中とのことです」

 そこまで聞けば十分だ。ユディスは武器を取り、窓から外にとびだした。

「(wwooooone!)」

 喉の奥までいっぱいにひらき、空に向かって呼びかける。たちまちユディスの周囲に風が集まり、道に落ちていた小石や枯れ葉を巻き上げた。

「待つんだ、ユディス!」

 カルが叫んだ時には、ユディスはもう跳躍していた。身体が落下を開始するのと同時に、足許に風の渦が現れ、新たな足場となる。ユディスは渦をつま先で蹴り、さらに跳躍した。二度、三度――跳躍のたびに勢いを増し、彼女の身体は空へと舞い上がってゆく。

 以前カルが使った風靴の術より、さらに移動に特化した風踏みの術である。文字通り、術者の肉体を風の弾丸と化して飛ばす。

 取り残されたカルは、やれやれといったようすでため息をついた後、自分も窓から路地に降り、駆け出した。けれどもそれは、ユディスとはまったく別の方向に、であった。

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