侯爵 5

 城門をくぐった瞬間、肌が粟立った。

 大きな城市には必ず結界師という専門のエウ・マキスが置かれ、侵入者の警戒にあたっている。戦時ということもあって、そうとう強力な結界が張られているのだろう。悪意をもって城市に足を踏み入れれば、たちどころに役人なり衛兵なりがとんでくる。むろん、対抗手段がないわけではないが。

 マレードは物々しい雰囲気につつまれていた。人は多いのに、話をしている者、笑っている者が少ない。みな足早で、明確な目的を持って動いているようだった。城市のすべてが戦のために機能している。それも、至極自然なかたちで。

「これがマレード……」

 ユディスは呟いた。

「住民を見れば、支配者がわかると言いますが」

 ユーネリア大陸はいまだ乱世の残り香を漂わせている。マレードも、そういう場所のひとつだった。

「ついてきな」

 アークが手を振った。物珍しそうにあたりを見回しているファラの手を、カルが引いた。


 連れて行かれたのは、街の南東に建つ侯爵の居城だった。四角く切り出された黒い石を積み上げて造った城は、鎮座さして街を見守る戦の神のような佇まいだった。馬と騎竜は厩舎に預けた。さすがに貴族の城だけあって、騎竜用の厩舎は立派なものだった。

 やはり、マレード侯がアークの主なのかとユディスは思ったが、執務用の一室で待っていたのは、はるかに若い人物だった。

「長旅ご苦労」

 凛とした声が部屋に満ちた。

 低いが、それは女の声だった。背筋をぴんとのばして立ち、一方の手を机に置いて、ユディスたちを見つめている。短く切った黒髪に紺色の軍服、腰には剣を佩いている。中性的な美貌とそのいでたちから、ユディスは一瞬、男性かと思ってしまった。

「ミルザ様」

 アークが跪き、うやうやしい態度で言った。

「報告書に記した者たちを、お連れいたしました」

「《青き花》にアルフィヤの戦士か。この仕事にはうってつけだな」

 言葉遣いまでが男性的だった。まっすぐな眉の下で、はしばみ色の瞳が強い光を放っている。唯一女性らしさを感じさせるのが、薄桃色をした真珠の耳飾りだった。

「ミルゼイユ・ロイスだ。アークともども、よろしく頼む」

(ミル……まさか、ラーナシア侯爵?)

 ユディスは驚きに打たれた。ラーナシア侯ミルゼイユ――十年ほど前に、父親の跡を継いだ女傑として、その名は他国にも聞こえていた。マレード侯ではなかったが、同格の大貴族ではないか。

 八大城塞都市を預かる貴族の中では、もっとも若輩ではある。しかし、その才は文武に渡り、領民には慕われ、女帝アステニアの信任も厚いという噂だ。間違いなく、ファイラムの次世代を担う人材の一人であろう。

「こたびの戦で、私は兵站を担当している。マレード侯はこの城市の守り。実戦部隊を率いるのはベルン・クオルという将軍だ」

 さて――ミルゼイユは声を落とし、ユディスたちを見据えた。

「諸君ら――いや、諸君らのような人材を、私が求めている理由はすでに聞いているだろう。私は陛下に、戦とは別の任務を密かに仰せつかっているの。それは、対〈吐息ブレス〉――正確には、かの化物どもの発見と捕捉、およびその殲滅だ。諸君らには、私の下で実際に手足となって働いてもらいたい。先に断っておく。これは、決して表に出ることのない任務である。栄光や名声とは無縁で、しかも危険極まりない。一度引き受けたら、たやすく抜けることもかなわぬ。むろん、報酬はそれ相応のものを用意するつもりではあるが、釣り合わぬと思ったなら、立ち去ってもらって構わない。ここまでの話ならば、まだ、口封じの必要はないからな」

 不穏な言葉を発した口が、皮肉っぽく歪んだ。

「おそれながら」

 ユディスは伏せていた顔を上げた。

「ひとつ、お聞かせ下さい。ファイラムほどの大国が、なぜたかが妖魔の一種にそこまでこだわるのですか?」

「あれがただの妖魔であると、お前は思うか?」

「と、言いますと?」

「例えば〈吐息〉の力の特性だ。聖文法は、術者の内面の力を引き出すわざ。対して操霊術は、術者の内なる音を解き放ち、言うなれば外にある存在の力を借り受けるわざ。妖魔の使う妖術も、たいていはこのどちらかに類する。ところが〈吐息〉の使う力はそのどちらでもない。奴らは、素霊ユーを喰らうことで事象を変容させる」

「そう言えば――」

 プラトーがカルにさわった時、素霊が異様な騒ぎかたをした。思えばあれで、ユディスはプラトーと例の少女を結び付けたのだ。

「例えば、素霊を鍋、この世界に存在するものを水としようか。〈吐息〉は鉄を喰う虫だ。こいつにかじられて、鍋の底に穴があく。すると、中の水は渦を巻いて零れ落ちてゆく。この、水が零れ落ちるという現象そのものが奴らの使う力だ。これは、意志の力というより、本能だとか生理的欲求といったものに近い」

「素霊が彼らに食べられ続ければ、どうなりますか?」

「この世界は、あるべき姿を保てなくなる。ゆえに、奴らはこの世界を滅ぼすためにどこぞからやって来た侵略者なのだとか、あるいはこの世界がもともと内包している滅びの因子なのだと考える者もいるが、まあ、そういう説もある、という話にすぎん。私には、奴らのもたらす実害のほうが問題だ」

「素霊のことは実害ではないとおっしゃるのですか?」

「比べ物にならんほど小規模ということだ。いいか。先の、百年あまりも続いた動乱――そのきっかけを作り出したのは、〈吐息〉だと言われている」

「まさか。あれは、シン・ラの乱心が元になったと」

「私もそう聞かされて育った。真偽のほどは今となってはわかるまい。しかし、奴らは人に混じり、人の心を惑わす化物だ。あの乱世を引き起こしたのが奴らというのは、あり得ぬ話ではない」

「それは、ユラルの犯した罪を〈吐息〉に押し付けているだけなのではありませんか?」

 得体の知れない化物が原因なのではなく、あの愚行こそがユラルの本質ではないのか。

「ユディス、口をつつしめ!」

 アークが声を荒げるのを、ミルゼイユは身振りで制した。

「私も、すべてを妖魔のせいにするつもりなどない。いずれにせよ、実際に争ったのは我らユラルだ。その責を負うのは、やはり我らの役目なのであろう。私や陛下は、そのように考えている」

「〈吐息〉と戦うのは、ユラルとしてのけじめですか?」

「そんなところだ」

 気負いはなく、だが強い。そんな口調でミルゼイユは言った。

 ユディスはふたたび頭をたれた。悪くない。アークは気に入らないが、この人物は好きになれそうだった。貴族でなければもっと良かったのに、とも思った。

「カルティオン、お前も何かあるか?」

「ひとつだけ、条件が。〈吐息〉と戦う機会を、可能な限り与えて欲しい」

「可能な限りとは、どの程度のことを言っている?」

「おれの身体がきかず戦闘が不可能な場合、物理的に現地への到着が不可能な場合、危急の場合を除く、すべて」

「それはまた無茶な注文だ。新参のお前を中心に組織を動かせと言うのか?」

 ミルゼイユは可笑しそうに言ったが、目は笑っていなかった。

「嫌なら、断るまでだ」

「嫌とは言っていない。だが、それだけの価値がお前にあればの話だ」

「どうやって示せばいい?」

「簡単なことだ。今回の任務でお前たちの実力を見る。使えぬと判断すれば、この会話に関する記憶を魔道師エウ・マキスに消去させ、放逐する」

「……わかった」

 すこし考えてから、カルは答えた。

「ユディスも、よいか?」

 カルがやると言うのなら否やはない。ユディスはうなずいてみせた。

「任務を達成すれば、我らは晴れて同志だ。成功を祈っているぞ」

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