侯爵 2
次に立ち寄った街で宿を取る段になって、カルはユディスに向かって手を合わせた。
「ファラと同じ部屋に泊まってくれないかな?」
「べつに構いませんけど……どうしてですか?」
てっきりカルとファラが同じ部屋、ユディスとアークがそれぞれ一つずつ部屋を取ることになると思っていたから、意外と言えば意外だった。
「男女で部屋を分けたほうが安上がりだろ」
「まあそれはたしかに」
「よかった。ありがとう」
礼を言われるほどのものだろうかとは思ったものの、話に別段おかしな点はない。
なにしろ、ここに来るまでにわかったことなのだが、ファラはとにかくよく食べる。ヤトナに身体を使わせていることがよほど負担なのか、ヤトナが大喰らいなのかはよくわからない。一度ヤトナ本人が「二人分だからな」と冗談めかして言うのを聞いたが、実際はそれどころではない。ユディスをふくめた他三人の食べる分よりも大量の食料が一人の少女の口に吸い込まれていくさまは、ある意味壮絶ですらあった。
「まったく食費がかさんでかなわないよ。ユディスが金貨を届けてくれて、実はかなり助かったんだ」
そんなわけだったから、宿泊費を節約するのも至極自然と言えば自然だ。
「でも、恋人同士なのに、寂しくないんですかね?」
荷物を部屋に置きに行った時に、ファラに訊ねてみた。
「だからあ。べつにカルとはそういうんじゃないってば」
ファラは快活に笑った。そうすると彼女は本当にきれいで、愛らしい。
(必死で助けたくなるのも、わかるかな……)
ふたりの育ったという一座も、良いところだったのだろう。影のないファラのようすを見ていると、そんな気がした。
「ちょっと早いけど、飯にしようか」
カルが呼びにきた。
「ファラ、何が食べたい?」
「なんでもいいよ。おいしいもの!」
「大雑把すぎるなあ。待ってな。女将にここらの名物をきいてみる」
「えへへ。楽しみだねー」
ファラがにこにこと笑顔を向けてきた。たしか、彼女の精神(こころ)が壊されたのは十二の頃と聞いている。彼女の言動が幼いのは、身体を動かしている擬人格が、当時の彼女の記憶を元にしたものだからなのだろう。ユディスは、他の三人に聞こえないようにため息をついた。ファラの表情やしぐさが愛らしければ愛らしいほど、見ているほうは胸が痛くなる。カルは、どう思っているのだろうか。
四人が一階の食堂に降りていくと、すでに客が何組か入って食事をしていた。夜になると、宿泊客以外にも大勢の人間が訪れてここで飲み食いする。あまり目立ちたくないので、四人は隅のテーブルについた。
給仕の娘が注文を取りにきた。カルの口から、沼鯉(ガトン)の煮物、野菜と卵のスープ、鶏の串焼き……カルの口から、するすると料理の名前が出た。
「それからとにかく腹が膨らむように、マディをたくさん」
給仕も目を丸くしていたが、実際に料理が運ばれ、テーブルに並べられていくさまは壮観だった。
「いただきます!」
大きな目をきらきらさせ、今にもよだれをたらさんばかりになっていたファラが、もう我慢できないといったようすで叫んだ。とびかかるように手近にある串焼きにかぶりつき、左手にはもう、それを流し込むためのスープの椀がにぎられている。
ファラの勢いに触発されたのか、アークも負けじと料理を口に詰め込みはじめた。カルはというと、適当に料理をつまみつつ、ファラの皿に料理を取り分けたり、彼女の口を拭いたりと、かいがいしく世話を焼いていた。恋人や従者というより、小さい子供を持った親といった感じだった。部屋を別にしたのも、別に彼女と一緒にいたくないというわけではなく、本当に経済的な理由からなのだろう。
この日は久しぶりに、ユディスも満腹になるまで食べた。湯浴みをし、寝巻きに着替えて、くつろいだ気分でベッドに横になる。手足をゆったりと伸ばして、カルたちのことを考えた。連中は賑やかすぎるきらいがあるものの、一緒にいて楽しい。もちろんアークは別だが。
復讐という目的がなければもっと良かったのに――ちらりと思った。
(弱気……? ううん、感情の波がたまたま下に来てるからそう思っただけ――ん?)
気配を感じてまぶたを上げると、ベッドの脇に、枕を両手で抱えてファラが立っていた。
「一緒に寝てもいい?」
か細い声で、彼女はそう訊ねた。
「眠れないんですか?」
訊き返すと、彼女は小さくあごを引いてうなずいた。
「まったく。子供じゃないでしょうに」
「で、でも暗いし、風でぎしぎしいうし、どっかで犬は吠えてるし……それに、いつもはカルがいてくれるのに、今夜はそうじゃないから……」
「……わかりましたから、そんな置き去りにされた子犬みたいな目で見ないで下さい」
罪悪感を刺激されて、ユディスはしかたなくベッドの端に寄った。毛布を持ち上げると、ファラは嬉しそうに「ありがとう」と言い、するりとベッドに潜りこんできた。
「わあ、あったかい」
「これでもう怖くありませんね?」
「うん。ユディスって、優しいね」
「そんなこと……ありません」
頬が熱くなり、ユディスは視線をそらした。
「ねえ。ユディスはカルのこと、好きなの?」
唐突すぎる問いに、ユディスは思わず咳き込みそうになった。
「そ、そんなふうに考えたことはありません」
「ふうん。そっか。ちがうのか」
がっかりしたようにも、ほっとしたようにも聞こえる声で、ファラは言った。
「いいから。もう寝てください」
話しかけられないようにするために、ユディスはファラに背を向けた。しばらくすると、ファラはすうすうと寝息をたてはじめた。
(この娘、本当に思考能力がないのかしら?)
カルたちの話を信じないわけではないものの、どうしても疑ってしまう。ともかく、これでようやく安心して眠れる。ユディスは目をとじた。そうしてしばしの時間が過ぎ、まどろみの中に落ちて行こうとしていた頃――
背中にやわらかいものがあたった。ファラが身体を寄せてきたのだろう。気にするほどのこともない。ユディスがそう考えた直後、寝巻きの中に何かが滑りこんできた。
「なっ!」
それはファラの手だった。左は裾の下、右は胸元から、抱きかかえるように両腕を服につっこみ、ユディスの肌をまさぐってくる。
「ファ、ファラさん?」
「おお! 服の上からではよくわからなかったが、なかなか良い胸をしておるではないか」
耳許で舌なめずりするような音がした。これは、ファラではない。
「ヤ、ヤトナ様? お、おやめください……ッ!」
「何を恥ずかしがる。よいではないか、よいではないか」
首筋を、やわらかなくちびるが這った。
「わあああッ!」
絡みつく腕を必死にふりほどくと、ユディスは部屋をとびだした。そして、隣の部屋のドアをこぶしで何度も叩いた。
「カル! 起きてください、カル!」
ドアはすぐにひらいた。
「ど、どうしたんだ、そんな格好で?」
いきなりすがりつかれたので、カルは狼狽したような声を出した。
「ファラさんが……いえ、ヤトナ様? それが私をいきなり……私を……」
「落ち着いて。何があったんだ?」
「大げさな奴だの。そんなに騒ぐほどのことか?」
「ヤトナ? まさか……」
カルの頬がひきつった。
「そういうことはしないって約束だろう」
「女同士だ。大目に見ろ」
「そういう問題じゃない」
「本人の意思を尊重しろ、てか? 聞き飽きたわ」
「なっ――」
「なあ、中に入ったら?」
こぶしを震わせるカルの背中を、アークがつついた。たしかに、あまり廊下で騒ぐと人が来てしまう。カルは、ひとまず自分たちの部屋に入るよう促した。
だが――おそるおそる向けられたユディスの視線に気づき、ヤトナは白い歯を見せた。彼女も一緒だと思うと気が進まなかったが、カルが大丈夫だと言うので、ユディスはしぶしぶ部屋に入った。
「すまない。まさかここまで見境がないとは」
カルがこめかみをおさえながら言った。
「ど、どういうことなのですか? ことと次第によっては――」
「『その性淫蕩にして、様々な獣と交わる』――伝説上の竜の中には、そうやってさまざまな妖魔を生み出したものもいる。要するにヤトナも、そうした神々の一人ってことだ」
カルの言葉に、ヤトナが妖しくくちびるを歪めた。
「ふたりで旅をしておる間は、それこそ毎晩のように……のう?」
「ああ。たしかに毎晩のように、おれを誘惑してきたよな」
「おいおい。ここに多感な青少年もいるんだぜ。ちょっとは教育的配慮ってもんを頼むよ」
アークはこの成り行きを面白がっているようだった。
「まったく、変なところでお前は頭が固いというか、素直でないというか」
「うるさい。その身体はファラのものだ。彼女の意思を無視して勝手なことをするなと何度も言ってるだろ」
カルに突きつけられた指を見て、ヤトナはせせら笑った。
「ふん。そうやって己の度胸のなさを言い訳するのか」
「ちょ、ちょっと待ってください! それじゃあ、カル、あなたは私を身代わりに立てたのですか?」
「言い方は気に食わんが、そういうことだの」
「い、いや! 女同士ならまさかヤトナもそんなことはしないと思ったんだ」
「言わなんだか? わしは、お前たちの言う意味での肉体を持たぬ生命体だ。容れ物の性別などたいした意味をなさぬ」
ユディスがじっと睨むと、カルは額に脂汗をにじませた。
「本当に、私がなにもされないと思ったんですか?」
「いや……ちょっとは、そんな可能性もなくはないかな、とは……」
しどろもどろになったカルを見て、ユディスの頭はかっと熱くなった。
「バカ!」
ユディスは腕を振り上げ、平手でカルの頬をしたたかに打った。
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