魔道師(エウ・マキス) 4

 ぐったりと、ファラは諦めたように全身の力を抜いた。

 ガドの手が襟の後ろをつかんだ。白く、うなじがのぞく。

「そら」

 服が引きおろされ、ファラの背中があらわになった。男たちのいっせいに目を剥いた。

「おい、こりゃあ……」

「なんだ、この女」

 予想もしなかったものを目にして、彼らは明らかに戸惑っていた。ゆっくりと、ファラが身を起こした。そして、あらわになった肢体を隠そうともせず、男たちに向き直る。

 染みひとつない、均整の取れた見事な裸身に、一匹の竜が巻きついていた。

 否――正確には、竜の彫り物だった。瑠璃色の鱗と長く鋭い爪と牙、爛々と燃える両眼、黄金色のたてがみ、枝分かれした二本の角――それはあまりに生々しく、今にも動き出しそうで、竜の頭が彫られている背中の側にいた男などは、睨まれたと錯覚したのか、「ひっ」と情けない声をあげた。

 まさか、まだ少女と言ってもよい年頃の女が、首の下から足首にまで至る、しかもこれほど見事な刺青を彫っていようとは、この場にいる誰もが想像もしていないことだった。むろん彼女は芸能者であるから、堅気の娘とはずいぶん違う生い立ちをしてきているのだろうが、刺青を入れるという行為は非常な苦痛を伴うものだ。これだけの大きさともなれば相当に時間もかかる。育ち云々といった問題以前に、小娘の身で刺青を入れようという発想が出てくることがそもそも普通ではない。

「見たな」

 娘の口角がきゅっと上がった。

 ようやく口を利いたと思ったら、なんたる不敵な物言いか。だが、ガドをはじめ、全員が突如変貌したファラの態度と、奇妙な迫力に呑まれていた。

「下衆どもが、我が身にふれることすらおこがましいというに、かような無礼……ただでは済まさぬぞ。ん?」

 ファラの口調はどこか楽しげだった。けだるげに腕を動かし、髪をかきあげる。笑みはどんどん大きくなっていく。邪悪さすら感じる、それでいて蠱惑的な表情であった。


 あれです、とパオロが指差した。

 傾きかけた古いほこら――しかしユディスは、それが見える以前から、その方向から発せられる異様な気配に気づいていた。

 それは、ほこらを実際目にした今、さらに強くなっていた。びりびりと、まるで全身を刺すような感覚があり、気をしっかり保たなければその圧に押し潰されてしまうほどのものだ。パオロは気づいていないのか? 恐ろしく強大な何かが、そこにいるということに。

「遅かったか……」

 カルが呻くように呟いた。

「え……? 遅かったって、どういう――」

 パオロが青い顔をして問うたのも聞こえないようすで、カルはほこらに近づいた。

「待って下さい」

 ユディスの声に、ようやくカルは足を止めた。

「何なのですか、これは? 見張りもいませんし……あそこには、何がいるのですか?」

「言っても信じられないだろうな」

 カルはほこらの扉に手をかけた。

「実際に見てもらって、それから説明する」

 大きな音を立てて扉が開かれた。その途端、中からまばゆい光が奔流のように迸った。ユディスはとっさに腕を上げて顔をかばった。

 おそるおそる、まぶたを上げると、光は収まっていた。薄暗いほこらの内部は、すべてが死に絶えたように静かだった。だが、まだユディスは動くことができなかった。何かが――強い力を持った何者かが、こちらを見ている。まだ姿は見えないが、それがはっきりと判った。

 意を決したように、カルが中に踏み込んだ。一、二度躊躇ってから、ユディスも続いた。かびと腐った木による臭気が鼻腔を刺す。

「遅かったの」

 鈴を振るような声がした。

 カルの肩越しに、女の姿が見えた。女は、壁際にまとめられたゴロツキのものと思しき荷物の上に、けだるげなようすで腰掛けていた。髪がほつれ、服はぼろぼろで、目のやり場に困るありさまだった。それに、白い肌に何か描かれているのは――刺青?

「お前があまりに待たせるものだから、つまみ食いしてしまったではないか」

 くつくつと、女は喉を震わせた。その瞬間、ユディスは、彼女こそがあの視線の主だと悟った。

 ヤトナ――とカルが呟くのが聞こえた。ヤトナというのは女の名だろうか。だが、さらわれたのはたしかファラという娘だったはずだ。横目でカルのようすをうかがうと、彼は渋面を作って女を睨んでいた。女の見た目はかなり若い。ユディスと同じか、もっと下だ。それなのに、ユディスには彼女がまるで年ふりた怪物のように思えた。

「とはいえ、こんなカスのような連中ではいくら食っても腹の足しにもならん。やはりお前でないとなあ。……ん? なんだ、その顔は」

 女がゆらりと立ち上がった。その足許に、人が倒れていた。一人、二人……全部で六人。パオロに聞いていた、ゴロツキたちに違いない。皆、ろくに抵抗したようすもなく、白目を向いて床に伏し、ぴくりとも動かない。

「そう睨むな。お前が心配するようなことは何もしておらぬ」

「心配なんてしてない。ただ、こんな真似をして、どういうつもりか訊いてみたいだけだ」

 凝然としていたカルが、感情を抑えた声で言った。女はあやしく微笑むと、上目遣いに彼を見ながらそばに擦り寄り、鼻にかかった甘えるような声を出した。

「かたいことを言うな。こやつらのしたこと――いや、しようとしたことか? それを思えば当然の報いであろう? 第一、お前が悪いのだぞ」

「ここまですることはなかった」

「そうなのか? 細かい加減はよくわからぬ」

 とぼけるように首を振る女と、ユディスの目が合った。水色の瞳から放たれる眼光はあまりに鋭く、足がすくんだ。こんなことは、これまで一度としてなかった。あのプラトーですら問題にならないほどの威圧感――それに、胸の奥から湧き上がってくるような畏怖の念。もし、この場で女に何かを命じられたら、例えそれがユディスの死を意味するものであっても、喜んで従ってしまったかもしれない。

「これか。これがお前の言っていたアルフィヤの小娘か」

 外見上は大して変わらない、と言うかむしろユディスより年下にすら見えるのに、小娘と言われてもまるで違和感がなかった。

「なるほど。たしかになかなかみばはいの。ちいと薄汚れてはおるが」

「し、失礼ではありませんか」

 ユディスはやっとのことで弱々しい反論を試みた。だが、女は気にしたふうもなく、むしろユディスの抵抗を面白がるように白い歯を見せた。

「失礼? 笑わせるでないわ」

「な――何を」

 意図するところはよく判らないが、その物言いはあんまりだろう。怒りが畏怖に勝ったユディスがさらに言い募ろうとすると、女はふいと顔を背けた。

「なんだ、こやつも来ておったのか」

 今度はパオロを見て言う。ユディスが見てもわけがわからないこの状況である。パオロにはなおさら理解不能であろう。一般人にすぎない彼の場合、女が発している異様な気配にすら気づいているかどうか怪しい。

「ファ、ファラ……無事……なのかい?」

「見ての通りな」

 やはり、彼女がファラであるらしい。では、ヤトナとは?

「まあ、そんなことはどうでもよい。カル」

 自分を心配して来てくれたパオロをどうでもよいとは、どういう神経をしているのか。呆れるユディスの前で、ファラはさらに妙なことを口走った。

「どうやらやることはきちんと済ませて来たようだの。なら、はよう吸わせよ。まったく、さんざん待たせおって」

 それはカルの耳許でぼそぼそと囁かれた言葉だったので、パオロには聞こえなかったようだった。そして言い終えるなり、ファラはカルの首に腕をまわし、自ら顔を近づけて彼に口接くちづけた。

 ユディスもパオロも絶句した。特に、ファラに想いをよせているパオロにはショックが大きかったようで、彼はへなへなとその場に座り込んでしまった。

(他人の目があるというのに、なんて――)

 これでは見ているほうが恥ずかしくなる。しかもファラは、口接けしながら、一度だけ、ちらりと視線をパオロに送ったのであった。

(た、楽しんでる?)

 ユディスは、ありったけの敵意と侮蔑を言葉に乗せて相手を罵りたいという衝動に駆られた。だが、そう思ったとたん、またしてもあの威に圧され、ユディスは動くことも喋ることも出来なくなってしまっていた。

 ――お前の考えていることなどすべてお見通しなのだぞ。

 ファラはこちらも見ず、言葉も発せず、ただ気配のみにてそう語っている気がした。

「もうそのくらいでいいだろ」

 ユディスが目を反らすべきだろうかと悩んでいると、カルがファラをひきはなした。

「まだ終わってはおらぬぞ」

「だから……こういうことは、人前でやると勘違いされるから……」

「なんだ。照れておるのか?」

「そ、そりゃあ……照れる」

 耳まで真っ赤になったカルは、口許をおさえて横を向いた。

「だいたい、くっつける必要なんてないのに」

「ふふん。お前はほんに愛いやつよの」

「だから、やめろって」

 二人のやりとりは、恋人同士がじゃれているように見えなくもなかった。だが、そう流してしまうにはあまりにもひっかかる部分があった。

「あ、あの!」

 ユディスは意を決して、二人に向かって呼びかけた。

「おう、カルよ。この小娘がなんぞ訊ねたいらしいぞ」

「あ、ああ」

 カルは気まずそうに咳払いをしてからユディスに向き直った。心なしか、顔色が悪い。

「偶然……じゃないよな? おれたちを追って来たんだろう」

「そうしむけたのはあなた。違いますか?」

 カルは答えず、肩をすくめた。

「まあいい。でも、ここじゃなんだな」

「……そうですね」

 ユディスは、呆けたままのパオロを見た。

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