第二章

魔道師(エウ・マキス) 1

 この数日というもの、パオロの胸は甘い想いでふたがれていた。

 原因は、近所の旅館《銀の牡鹿》に逗留している一人の歌姫であった。

友人たちと酒場で飲んでいた時、偶然彼女の歌を聴いた。一撃で虜になった。天上の歌というものがあるとしたら、まさしくああしたものであるのだろう。

 しばし、刻を忘れて聴き惚れた。声だけでなく、彼女は容姿も素晴らしかった。ほどけば腰まであろうかという髪を美しく結い上げ、派手ではないが仕立ての良い衣装に身を包んだ彼女は、ときに微笑み、ときに憂いに満ちた表情を浮かべながら、有史以来変わらぬ人々の心情をうたいあげた。彼女が歌い終えると、嵐のような拍手と喝采が巻き起こった。唐突に舞台に現れた新顔の歌姫に、誰もが惜しみない称賛をおくっていた。

「ファルネイア・フィード……へえ。これが本名なのか、あの

 酒場ではファラとしか彼女は名乗らず、話をする機会もなかった。そこで幼馴染みであり、《銀の牡鹿》の自称看板娘でもあるユカに頼み込んで宿帳を見せてもらった。

「それで、彼女は部屋に?」

「出かけてるよ」

 ユカは呆れ顔で言った。

「言っておくけど、望みはないわよ。現場にいたんだから、あんたも知ってるでしょ?」

「う……」

 旅の芸能者は、芸と同時に春をひさぐことも珍しくない。歌のあとで、ファラも当然その容姿に目をつけられ、一晩その身を買いたいと数人からつめよられていた。パオロが内心複雑な思いで見つめていると、彼女の連れと思しき青年が間に入った。男たちの怒声から、青年が連中の要求を断ったのだとすぐに知れた。男たちはいきりたち、強引にファラを連れて行こうとした。次の瞬間、青年が屈んで身体を左右に揺らしたように見えた。何をしたのかと思うまもなく、男たちは全員床に転がって呻いていた。

 武芸に関してはてんで素人のパオロの目には、青年がどれほどの腕前なのか見当もつかない。だが、すくなくとも街のゴロツキが束になっても敵う相手ではないことはわかった。

「絶対男だって。間違いないよ」

「そんなの、本人に訊いてみなくちゃわからないだろ」

 パオロがむきになって言い返すと、重症だと言わんばかりにユカは頭を振った。

「しょせん流れ者じゃないのさ。適当に稼いだら、またどこかの街へ流れてゆく。ひとところにいつまでも留まってなんかいやしないよ。夢なんか見てないで、マディ《パン》を焼く修行のほうに身を入れたらどうなんだい?」

「うるさいな。余計なお世話だよ」

 パオロの実家は、ここグラースの街でも評判のマディ屋だ。店は兄が継ぐので、今のところ、次男坊である彼は放蕩を許されているという状態だった。

「まあ、せいぜい頑張んな。骨は拾ってあげるから」

 ユカの皮肉を背中に浴びながら、パオロは宿を後にした。

 格別あてなどなく、ファラの立ち寄りそうな場所はどこだろうとあれこれ考えながら歩いていると、なんという幸運か、パオロは目当ての娘と遭遇した。

「あ……」

 心の準備などできていなかった。自分でもどうかと思うほど間の抜けた声を漏らして、パオロは道の真ん中で数秒間立ち尽くした。ファラは薄汚れたマントをはおり、フードを深く降ろして歩いていた。実際に彼女に会い、その姿を目に焼きつけていたパオロだったからこそ一目で彼女と判ったが、そうでなければ、彼女が今、巷で評判になっている歌姫だと気づく者はいなかったろう。

 彼女は両手に紙の袋をかかえていた。袋の口からはみ出しているのは、焼きたての香ばしい匂いを漂わせるマディであった。

「や、やあ」

 パオロは思い切って声をかけた。ファラは立ち止まって彼を見た。不思議そうな顔をしてはいたが、警戒しているようすはなかった。

「そのマディ、ピスナ通りの《マディ・ラント》で買ったんだろ?」

「そうだけど。それが何か?」

「俺、そこの息子なんだ」

「ふうん」

 話しかけるきっかけとしてはこれ以上のものはなかったというのに、まるで興味がなさそうなその返答に、パオロは肩透かしをくらった気分になった。しかしそれ以上に、はじめて間近で見るファラの美しさにあらためて心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚えた。

(なんてきれいな水色の瞳……それに、この声。やっぱり――)

 なんとしても、ここから一歩踏み込みたい。

 そう思い、必死に頭を働かせたが、なかなかよい考えが浮かんでこない。ほとんど苦しまぎれに、「その辺でマディを食べながら、話でもしないか?」と言った。

 完全に失敗したと思った。自分がマディを買った店の息子だからといって、どうしてそんな権利が発生するのか。味の感想でも聞きたいのか?

 ところが、案に相違して、ファラはあっさりとうなずいた。

「いいわよ。誰かと食べたほうがおいしいし」

「え? いいの?」

 パオロは、相手がすぐに「ウソよ」と言うのではないかと疑って、ファラの顔をまじまじと見つめた。すると彼女は、無邪気そうににっこりと微笑んだ。一瞬にして疑念の雲は吹き飛び、パオロは天にものぼる心地になった。

「じゃ、じゃあ、こっち! いい場所があるんだ!」

 興奮のあまり声が裏返った。紙袋を代わりに持ち、何度も振り返りながら先導した。なんだか足許がふわふわして、雲の上を歩いているような気分だった。

 パオロは街の西にある丘を目指して歩いた。やや距離があったが、ファラは文句ひとつ言わずについてきた。それどころか、耳をすますと、彼女がうたう鼻歌が聞こえてきた。パオロはますます舞い上がった。

 丘に着くと、二人は木陰に入って、草の上に直接腰をおろした。吹き抜ける風が心地良い。来た道を振り返ると、ゴルトの街を囲む城壁が見える。左手には川が流れ、頭上からは鳥たちのさえずりが聞こえた。

「いい景色だろう?」

「うん」

 ファラはうなずきながら、袋からマディを二つ取り出した。ひとつをパオロに渡すと、さっそく自分の分にかぶりつく。

「おいしい」

 彼女の笑顔を見ると、心の底からの言葉なのだと思った。

「あなたが焼いたの?」

「いや……ちがうけど」

「そう」

 ファラはパオロから視線を外し、無心にマディを頬張りはじめた。

 どういう意味の「そう」なのかは分からなかったが、パオロは急に不安になった。

「あ、あのさあ」

 何でもよい。話をしなければ。

「今日はひとりなんだね」

「うん」

「連れがいるだろ? たぶん、トシは俺と同じくらいかな。彼は、どこに行ってるんだい?」

「カルのこと?」

「ふうん、そんな名前なんだ」

不安がむくむくと膨らんでゆく。

「仕事よ」

「仕事?」

「そう。仕事」

 ひとつ目のマディを食べ終えると、ファラはふたつ目に手をのばした。

「彼は……その……恋人、なのかい?」

「カルが? まさか!」

 口許を手でおさえながら、ファラは肩を震わせた。

「あいつは弟よ。出来の悪い弟!」

「な、なんだ姉弟……」

 全身から力が抜けた。

「まあ、正確には弟みたいなものなんだけどね。わたしたち、同じ旅芸人の一座で育ったの。わたしは座長の娘、カルは団員の一人で……」

 まさか駆け落ち? やっぱりそういう間柄なのか?

「いやね。そんなんじゃないって」

 ファラはころころと笑った。

「アレは言うなれば奴隷だ」

「え?」

 突然、ファラの口から聞いたことのない声音が発せられ、パオロはぽかんとなった。

「今、なんて?」

 よく聞き取れなかった――と言うより、せりふの中に、到底含まれるべきでない単語が含まれていたような気がしたのだが……。

「え? 何が?」

 ファラは目をしばたかせた。声の調子も元にもどっている。手には三つ目のマディ。

(まさか……そうだよな。そんなはずない)

 あれは気のせいだったのだと、パオロは自分を納得させた。

「色々あってね……一座はなくなっちゃって、しばらくはカルの他にも何人か、一緒に旅してた人はいたんだけど、なんだかんだでいなくなって……」

 実はね――とファラは口ごもるように言い、うつむいた。

「わたし、病気なんだ」

「え――」

「それを治すために、わたしとカルは旅をしている。カルの仕事も、そのためのものなの」

 ふい、と水色の瞳がパオロに向けられた。まっすぐに、けれどもただひたと据えられているだけの視線。それだけでパオロは、ぴくりとも動けなくなってしまった。

「ど、どんな病気なの?」

 訊ねると、ファラはゆっくりとかぶりを振った。

「わたしにもよくわからない。カルは訊いても教えてくれないし」

 ひょっとして、かなり重い病気なのだろうか。

「ああ、でも、なんとなく見当はついてるのよ。自分の身体のことだしね」

 ファラは屈託なく笑ったが、パオロにはその笑顔を見ていることができなかった。こんなにもつらい運命を背負った、まだたぶん二十歳にもならない女の子に、不純な動機で近づいた自分が恥ずかしかった。

「えっとね、たぶん――」

その先は言うな。ファラの口をおさえるために、パオロは手をのばした。

「とってもお腹がすく病気」

「え?」

 寸前で止まったパオロの手を、ファラは右手でゆっくりと横に押しのけた。そして、左手に持ったマディを口に運ぶ。あれ? それはいったい何個目の――

「だめなの。食べ始めると止まらなくなっちゃって」

 恥ずかしそうに、ファラは頬を染めた。

 それは病気なのだろうか。医学を学んだ経験のないパオロにはわかるはずもない。ただひとつ確かなのは、はにかんだファラの表情がとてつもなく魅力的ということだけだった。

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