素霊使い(ワーナミンネ) 4
「《青き花》」
とも、彼は名乗った。
その二つ名には聞き覚えがあった。《シン・ラの印》を持つ、妖魔専門の退治屋。傭兵仲間のあいだで近頃よく耳にするようになった人物だ。
「まさか、こんなに若いなんて……」
とは言ったものの、間近で見るまで年齢はよく判らなかったというのが正直なところである。たしかに声で若いと判断したものの、その泰然自若とした態度や雰囲気、ちらりと垣間見えた厳しい表情などは歴戦の戦士を思わせたし、無防備に笑ったり、きょとんとしたりした顔はほんの子供のようにも見えた。
実際、顔立ちは幼いほうだろう。まず目が大きく、くるくるとよく動く。頬からあごにかけての線は柔らかで、これから角張ってごつくなるか、それとも繊細に研ぎ澄まされてゆくか、危ういバランスの上で決断に迷っているような印象だった。
「本当に、敵ではないのですね?」
「うん」
腹の底のほうから、大きな空気の塊が吐き出された。五日間、張りつめっぱなしだった緊張の糸を、ようやく緩めることができたからだった。
しかし、まだ気を許すのは早計だ。
「それで、きみの名は?」
「ユディス……ユディス・ディナン・ベスタルネフ」
「……なるほど。よろしく、ユディス」
何がなるほどなのだろうか。差し出された手を、ユディスは眉を寄せてにらんだ。
「強情だね。あのままだったら野垂れ死んでいたところだろうに」
憎たらしいことを言う奴だ。そう思ったが、口には出さなかった。そうするのも億劫なほど疲れていたということもある。
「そうだ。ちょっと口あけて」
「は?」
訊き返したところへ、いきなり何かを放り込まれた。吐き出そうとしたが、手で蓋をされた。手袋の使い込まれた革の匂い。それから、口の中に広がる花の香り。
「ラッカ。蜂蜜をルニエの粉で固めた飴玉だよ。疲れがよく取れる」
手を離して、またカルは微笑む。
「こ、こんなもので懐柔されたりは……」
「わかってるよ。子供じゃないんだから」
毒を盛られるのではという思いが頭をかすめた。しかし、疑い出せばキリがない。ここは腹をくくるしかないと思い直したユディスは、ラッカをばりばりと噛み砕いてから飲み込んだ。そうすると、たしかにカルの言った通り、わずかではあるが、全身に力が戻ってきたような気がした。
「もっと味わえばいいのに」
行儀の悪さを咎めるようにカルは言った。
「あなたは……何なのですか?」
「さっきも言ったろう。きみとは同業者みたいなもんだよ」
またとぼけたことを――と怒りがこみあげたが、怒鳴るのはやめた。どうもこの男からは、悪意のようなものは感じられない。天然ならば、まともに相手をしても疲れるだけだ。
「どこで操霊術を学んだのですか? ユラルなら、ふつうは聖文法(しょうもんほう)でしょう。それから、なぜ一人なんですか。誰か仲間は一緒ではないのですか?」
「一つ目の質問の答え」
カルはぴんと人差し指を立てた。
「聖文法は苦手なんだ。昔からね。だから代わりに、その時々に縁のあったワーナミンネについて操霊術を習った。どこというのは、答えづらいかな」
どうにも胡散臭い。しかし、とりあえずこちらの問題はさほど重要ではない。ユディスは続きを促した。
「二つ目の質問の答え」
カルが今度は中指を立てた。
「この仕事はおれの領分。だから、他人に邪魔されたくなかったんだ」
「それはつまり、この霧を発生させている何者か――さっき敵と呼んでいましたけど、その人物と、あなたは関わりがあるということなのですか?」
「まあ、近いかな」
「誰なのですか、それは」
「わからない」
「わからないって、そんないい加減な――」
「でも、この霧が何なのかはわかるよ」
カルはあごを上向けた。
「……霧は霧でしょう?」
いや、と彼は首を横に振った。では、何だと言うのだ。
「断末魔」
そう言って、カルは口をつぐんだ。
セーヴァの南端、街を見下ろす小高い丘に、邸が建っている。
元はとある商人の邸であったが、今は主が替わっている。
家人を殺し、居座ったその化物は、一階にある広間で食事の最中であった。
そのさまを、ゴルトの名主の娘サーラは、震えながら見つめていた。
家具や調度品がすべて取り除けられ、がらんとなった広間の天井からは、縄が垂れ下がっている。一本や二本ではない。ざっと見たところ二十を超える本数の荒縄が梁にかけられ、さらに、その先には全身をぐるぐる巻きにされた人間がぶら下がっているのだ。
巨大な蓑虫が密集しているようなこの異様な光景――サーラ自身もまた、その蓑虫の一匹であった。
新しい邸の主は、広間の中心にうずくまっていた。
そいつは、日に二度、二人ずつ、人を喰らう。
蓑虫は日に四匹消費され、日ごとに補充される。サーラは昨日、他の街の住人が押し込められている大部屋から連れてこられ、ここに吊るされた。
きょろきょろと、化物は首を動かした。これは今日最初の食事。二人目を吟味しているところだった。
ぺちゃり、と床が鳴った。足音――ぺちゃり。ぺちゃり――こちらに近づいてくる。ふーっと吐き出される息。生臭い匂いが鼻をつく。
あと一人――あと一人、この場で喰われる。
サーラは固く目を閉じ、震えながら祈った。相手の意識に留まらないように息を殺す。自分が喰われなければ、代わりに誰かが喰われるのだが、そんなことを気にしている余裕などなかった。
ひぃっ、という力ない悲鳴があがった。どうやら犠牲者が決まったらしい。おそるおそる目をあけると、化物が立ち上がって、水かきのある手でまだ若いその女の顔をなでまわしていた。サーラは彼女を知っていた。大通り沿いの花屋で働いている女だった。
化物は、彼女の襟元をわしづかみにすると、ぐいとひき下ろした。そして、露わになった肌にぺたりと手をあてた。長い指が、首に絡む。
ぐば。
異様な音がした。
女の目から、口から、鼻と耳の穴から、白い気体のようなものが噴き出していた。
ぐば、ぐば。
白いものが噴き出すたびに、化物の手のひらが、女の胸にめり込んでゆく。そして女の顔からはみるみる生気が失われ、やがて土気色に変わる。
これが、この化物の食事であった。手のひらから人間の生気を吸い、吸われた人間からは、どういう理屈なのか、白い気体が噴き出す。肉を焼いた時にしたたる汁のようなものだろうか。ともかくこの気体が、街を覆う霧の正体であった。
女の首ががくりと落ちた。事切れたのだ。
再び化物が床にはいつくばった姿勢に戻る。ごろ、とその喉が鳴った。
「……来たのか」
そいつは呟いた。
化物が人語を解することも驚きだったが、その発音の滑らかさ、高度な知性をすら感じさせる声の響きがあまりに意外で、サーラは一瞬だが恐怖を忘れた。
「これは、なんという幸運」
化物が口を歪めた。サーラの目には、それは笑っているように映った。
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