素霊使い(ワーナミンネ) 3

 森が燃えていた。

 かつては豊かな緑に包まれ、鳥のさえずりに満ちていた故郷が、無法なる者たちの手によって蹂躙されていた。苦悶と怨嗟が、熱気に乗って頬に吹きつけられた。呆然と立ち尽くす視線の先で、黒く長い影が躍っている。

 てっぺんのとがった鉄兜と、黒光りする金属の鎧――彼らの突き上げる槍の先についているのは、よく見知った者たちの生首だった。

 彼ら悪鬼のような形相で同胞を狩りたて、逃げる背中に無慈悲な刃を振り下ろしていた。やめろと叫びたかったが、喉から漏れたのは、かすれた笛のようなあえぎだけだった。手足の感覚がなくなり、動くことができない。

 影たちは、一定のリズムに乗って踊っているようだった。それは、この場にはどう考えても似つかわしくない、楽しげに歌う声だった。

 野兎のように弾み、時折ころころという笑いが混じる。まだ幼い、少女の歌声――不思議と心地よいその声に、あまりのことに凍りついていた彼女の心は揺り動かされ、知らずしらずのうちに惹きつけられていた。

(何をしている……!)

 抑えた声が聞こえると同時に、腕をつかまれた。

 自分がその歌をいつからか口ずさんでいたことに気づき、彼女は愕然となった。ふりむくと、兄のように慕っているオルラノの姿があった。端正な彼の顔は、煤と、斬り倒した敵兵の返り血で汚れていた。

(早く逃げろ! 西の抜け道はまだ奴らに見つかっていない。俺が囮になっているうちに、はやく……!)

〈風の伝え手〉であるオルラノは森の外に出かけてゆくことが多く、その土産話を聞くのが彼女はとても好きだった。外の世界に憧れてこっそり森を抜け出し、近くの村までだが、行ってみたことも一度や二度ではなく、そのたびに彼に連れ戻された。こんなことなら外の話などするのではなかったと彼はぼやいたが、それも含めて、彼女にとっては楽しいゲームとなっていたように思う。

 オルラノは、震える彼女を勇気づけるようにぽんぽんと頭をたたき、そのまま踊る影たちのほうへと突っ込んでいった。

 彼女は、その背中をただ見送ることしかできなかった。

 高く、低く――耳の奥で響く、あの歌声。

 長く……落ちて――


 自分が眠っていたことに気づき、ユディスは血の気が引く思いがした。

 一秒か、二秒か。たとえわずかな時間にせよ、こんな場所で意識を失えばどんな危険がふりかかってくるかわかったものではない。

(それほど消耗しているということね……)

 ふ、とユディスのくちびるから笑い声がもれた。

 どこへ行っても霧ばかり。もしかしたら、ずっと同じ場所をぐるぐると回っているだけなのかもしれない。そう言えば、あの狂った武芸者を、あれから一度だけ見かけた。最初の犠牲者と同じように、恐怖にこわばった表情のまま事切れていた。彼はどこに行ったのだろう?

 自分もいずれああなるのだろうか? ならば、どこにも安全な場所などない。だから、好きな時に眠ればいい。もう疲れたと感じたならば――まどろみの中で死ねるのならば――そのほうが、いっそ……。

(だめだ!)

 ユディスは萎えかかった膝を叩いて立ち上がった。手には愛用の短剣をにぎりしめていた。柄には故郷の守り神である大精霊が、凝った装飾とともに彫られている。あの日、炎上する故郷の集落からたった二つ、持ち出せた品の片割れであった。

(私は、こんなところで死ぬわけにはいかない!)

 生きて、仲間の仇を取らなければならないのだ。

 ふたたび歩き出そうとしたユディスの耳に、何者かが近づいてくる足音が聞こえた。すばやく短剣を構える。

(よかった――)

 身体は、まだ、動く。

 油断なく霧の向こうへ目を凝らしながら、ベルトに挿してあるナイフに左手を伸ばした。

「止まりなさい!」

 警告に従って足音が止まる。どうやら一人だけのようだが、この霧――この濃さでは、視界だけでなく音も遮断される。よほど近づいて来なければ、気配をとらえられない。

「何者ですか?」

「この街に起きている怪異を取り除きに来た。怪しい者じゃない」

 聞き覚えのない、若い男の声。同行してきた者のうちの誰かではないことは明らかだ。

「待って。動かないで下さい」

 慎重な足取りで、ぎりぎり相手の顔が確認できる距離まで近づいたユディスは息を呑んだ。

《シン・ラの印》――災いの狂相――実際に目にするのは初めてだった。

 とっさに考えたのは、彼がこの怪異の原因ではないかということだった。もっとも、災いをもたらすという言い伝えは根拠が薄弱で、ユディス自身は迷信だと思っている。だが、この状況で現れたのだから、警戒しておくにこしたことはない。

「まずはマントから両手を出して下さい」

「了解」

 長いマントを割って左腕が伸びた。ユディスはすばやくその腕を観察する。袖の上からだが、筋肉のつき具合は判る。やや高めの身長に比して、長すぎもせず、短すぎもしない。猫科の肉食獣を思わせるしなやかな肉付き。革の手袋――指は長い。

 そして右腕――同じように、マントの下から現われ、その手には――剣。

「捨てなさい」

「なぜ?」

 しれっとした口調で彼は言う。

「なぜって――」

 この男、ふざけているのか?

「言っただろ。怪しい者じゃないって」

「ど、どう見ても怪しいです!」

「ふむ」

 若者は目を丸くして、自分の格好をしげしげと眺め、それからぐるりと黒い瞳を動かして周囲を見回した。そのようすを見て、ユディスはどきりとした。若者の、瞳の色――それが一瞬のうちに目まぐるしく変化したような気がしたのだ。

 千の瞳、万の顔――

 ふいにそんな言葉が脳裏に浮かび、油断は禁物だと自分に言い聞かせていたにもかかわらず、その色に見とれた。

「どうすれば信用してもらえるかな?」

 相手からの問いかけにハッとなる。悔しさとも気恥ずかしさともつかぬ感情がわきあがり、頬がひきつった。

(な、何をやっているの、私は……)

 ぶんぶんと頭を振って、乱れた気持を追い払おうとする。

「だったらまず、武器を捨てなさい」

「それは困る」

「どうして?」

 簡単なこと。この男は敵だ。だから、武器を手放さないのだ。わざわざ訊くまでもないと思ったが、男の口から出た言葉は意外なものだった。

「見られているから」

「はあ?」

 誰が? どこから?

「敵さ。この霧を通して見ている。彼は、霧がかかっている範囲で起きていることならたいていわかるんだ」

「………」

「あまり驚かないね」

「……もっとマシな言い訳を予想していましたから」

「違うね」

 若者は口角をすこし上げた。

「おれが言ったのは、この怪異が自然現象の類ではなく、何者かによって引き起こされたということに対してだよ。つまり、きみはうすうす真相に気づいているってこと」

「そんなこと――」

 言いかけて、ユディスはとっさに否定できない自分に気づいた。

「たいしたものだね」

「なっ」

「この霧の中で正気を保っていられるだけでもすごいことだけど。さすがは破魔の力を持つアルフィヤってところかな」

 いつの間にか、若者が目の前まで近づいてきていた。しかも、抜き身の剣を下げたまま。 ユディスは思わずとびすさり、ナイフをベルトから引き抜いて、投げた。同時に二本。若者は無造作といってもよい動作で剣を持ち上げ、ナイフを弾いた。

「ひどいな」

 心外そのものといった若者の声。

「おれはきみの敵じゃないのに」

 よく見ると、彼の剣はずいぶん奇妙なものだった。基本的な型は一般に使われている両刃の剣なのだが、剣身にいくつも穴があいているのだ。

 あっさりとナイフを防いだ腕前に驚きつつも、ユディスはすでに次の動作に移っていた。

 舞うようなしぐさで腕を動かし、つま先とかかとで地面を叩く。同時にくちびるをすぼめ、周囲に居る目に見えぬ存在に呼びかけるべく、高く口笛を鳴らした。

「(rn……)」

 それは、意味を持つ言葉ではなく、身内から湧き上がる感情をそのまま吐き出したと言ったほうがふさわしい声だった。

 その声に応ずるように光が現れた。あるいは稲妻のように、あるいは複雑な幾何学模様を描いて、色とりどりの光はちかちかと瞬き、楽しげに彼女の周りを跳ね回った。

 光の正体は、素霊ユーと呼ばれるエネルギー体が集まったものである。万物の根幹を成し、物質に固有の性質を与える。この世界を創造したとされる、さまざまな名で呼ばれる超越者の思考の残滓であるとも言われ、原始的ながらも明確な意思を持つ。

「(ouhmmm!)」

 あえて意味を持たせるなら、「走れ」という命令に近かったろう。光たちはユディスの指さすほう――若者に向かって一斉に飛んでいった。彼女が使ったのは、素霊を使役する操霊術と呼ばれる技術であり、操霊術を用いる術者を素霊使いワーナミンネと呼ぶ。

 ワーナミンネとしての力量においてもっとも優秀とされる人々が、ユディスたちアルフィヤである。

 ユディスが今回使ったのは、水と風の素霊だった。彼らが互いの身体を擦り合わせることによって発生した電撃を、目標にぶつける。普段よりもかなり威力は落ちていたが、それでも並みの人間なら一撃で気絶させられる。

「お手」

「え?」

 ユディスは信じられない光景に目を疑った。

 若者は、またしても気のないようすで手を突き出しただけだった。たったそれだけで、光は彼の身体に到達する寸前で停止し、さらには、まるで犬が甘えて鼻を鳴らしているかのような動きでその腕にまとわりついたのだ。

「う――そ――」

 ワーナミンネが素霊を使役するといっても、実際に術として発動するのは素霊自体の意志である。彼らにしてみれば、人間に使われているという意識などなく、言ってみれば遊び戯れている感覚に近い。ワーナミンネの役割は、彼らを楽しませ、時にはなだめすかすなどして、術者の思う通りに動いてもらっているというだけにすぎない。先刻ユディスがおこなった舞や口笛も、すべては素霊に語りかけ、楽しませるためのものだ。

 そうした行為をまったくおこなわず、犬に言うことを聞かせるように素霊を従わせた若者の力量は計り知れない。そもそも、相殺するのでも防ぐのでもなく、発動した術そのものに干渉して身を守ったということは、素霊たちがユディスよりもこの若者を気に入ったということに他ならない。

(ありえない……この私が、操霊術でユラルに負けるなんてことが……)

 若者の身体の周りを跳ね回っていた光は、やがて弱まり、消えた。そのようすを、若者は悲しそうな顔で見つめていた。

「この辺りは素霊の力が弱い。この霧のせいだ……」

「あなた……いったい」

「おどかしてごめん」

 若者はユディスのほうを向くと、ふわりと微笑んだ。羽根のような、重さを感じさせない笑みだった。

「おれはカルティオン・ライル。カルでいいよ」

 そう、彼は名乗った。

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