素霊使い(ワーナミンネ) 2

 夕闇に沈みかけた街に、鐘の音が響いた。

 セーヴァより南東、いくぶんか主街道に近い、ゴルトの街――

 長年の盟友であったレシスの突然の裏切りにより、平和に慣れていたファイラム帝国は国全体が近年にない緊張感に包まれていた。ゴルトのような辺境でも、このところ戦の匂いを纏いつかせた旅人の姿がちらほら見られるようになっていた。

 しかし、やはり今現在、人々の口にもっとも多くのぼるのは、隣街を襲った怪異の噂であった。

 霧が危険なものであるらしいことがわかってすぐに、有志の者がセーヴァに向かった。彼らは三日経っても戻ってこず、より本格的な調査隊が組織された。だが彼らもまた、霧に突入したまま音信が途絶えた。

 重苦しい空気を助長するような鐘の音に、皆が口をつぐんだ――その二人連れがゴルトを訪れたのは、そんな時だった。

 通り沿いに立つ街灯を、エインと書かれた灯火札の束を持った黒服の警備兵が回っていた。街灯の基部にある蓋を開け、昨晩のものを剥がして新しい札を貼り付ける。すると、銀色の玉のような外套の頭が白い光を放ちはじめる。

 長く影の伸びた石畳を踏んで、二人は歩いていった。彼らの行く手にあるのは、この街で一番大きな邸であった。


「霧の街に行く人間を集めてると聞いたんだけど」

 邸の主人はダロス・クレイグといった。このゴルトで、名主を務めている男である。

 ダロスは、自分を訪ねてきた二人を見つめた。

 口を利いた男は、声の感じからするとまだ若い。頭にはターバンを巻き、足許にひきずるほど長いマントを纏っている。胡散臭いとは思ったが、似たような連中ならこれまでもたくさん訪ねて来ている。

 連れは――こちらはターバンの男よりすこし背が低い。フードを深くかぶり、あらぬかなたを向いているせいで顔は見えない。交渉ごとは相方の仕事でも思っているのか、数歩後ろに控えたまま、会話に参加しようという気配がまるでなかった。

「……ああ。セーヴァは妻の郷里でな。霧が出たのは、ちょうど一人娘のサーラが帰っている時だった」

 沈痛な面持でダロスは言い、やつれた顔をなでた。

「あんたがた、本当にセーヴァまで行ってくれるのか?」

「いや。行くのはおれ一人だよ」

 男の声音が軽いと感じ、ダロスは心配になってきた。

「若すぎるな。大丈夫なのか?」

「聞いたこと、ないかな」

 若者はそう言うと、いきなりターバンをほどきはじめた。するするとほどけてゆく布地の下から現れた髪の色を見て、ダロスはぎょっとなった。

「その髪は……」

 ランプの灯が照らし出した彼の髪は、不思議な色合いをしていた。一見すると漆黒だが、照り返された光は青い。まるで闇夜に燐光が燃えているようで、見つめていると引き込まれそうになる。

「瞳も――同じ色、か。驚いた。これは《シン・ラの印》か? 見るのは初めてだが……」

 抑えきれぬ畏怖と、嫌悪の念。ダロスは、己の声が震えるのを自覚した。

 シン・ラとは、このユーネリア大陸東部に存在するもうひとつの帝国――バーレンにかつて君臨した暴君の名である。

 類稀なるカリスマ性と圧倒的な魔力を有し、その性は残虐にして酷薄。皇帝でありながら自ら戦陣に立ち、敵国はおろか、同盟国や自国の領土をも蹂躙したと伝えられる。彼の登場は、以後百年にわたる乱世の幕開けでもあった。

 それから彼と同じ髪と目の色をした者は《シン・ラの印持ち》と呼ばれ、周囲に災いをもたらす存在として忌み嫌われるようになったと言う。

「印持ちの剣士、《青き花》――」

「なんだ、知ってるなら話は早い。どうする? おれを雇う?」

「し、しかし……」

「大丈夫。経験上、ひとところにあまり長く留まらなければ何も起こらないから」

 若者はにこりと笑って一歩ダロスに近づいた。羽根のように、重さを感じさせない笑みだった。ダロスが身体を強張らせたのを見て若者は足を止めたが、笑みは崩さなかった。

「わ、わかった。人手はすこしでも欲しいところだからな」

 返答を聞くと、若者は満足そうにうなずき、さらに一歩踏み出した。

「それじゃあ、報酬の件だけど」

「う、うむ――前金で十ヘイニー金貨五十枚、成功報酬でさらに五十枚だ」

「しめて一千。結構。聞いてた通りだ」

 一千ヘイニーと言えば、四人暮らしの一般家庭が三ヶ月は食べていける額だ。

 若者は、ダロスの使用人からいったんは金貨の袋を受け取ったが、中身も確かめず、すぐに相手の手の中にそれを戻した。

「それじゃあ、彼女を宿屋に連れて行っといてくれるかな。できれば、世話好きのおばさんか、おばあさんのいる所がいいな。そいつ、よく食うから」

「彼女?」

 若者の連れが、フードをずらしてわずかに顔をのぞかせた。ややきつめの、大きな瞳が見えた。

「なるほど。それは構わないが、あんたはどうするつもりなんだ?」

「このままセーヴァに向かう」

「なんだって?」

「だから、金も宿に預けておいて欲しいんだ」

「む、無茶だ! 五日前に出発した調査隊にはアルフィヤの戦士様もいたんだぞ! せめてもっと人数が集まってからのに――」

「あなたの娘さん――それに他の人たちの安全を考えたら、一刻の猶予もないはずだ」

「それはそうだが……」

「大丈夫」

 若者はふわりと微笑むと、視線を連れの女性に向けた。

「かならず戻ってきますから。かならず――」

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