第13話 子供のころのように、少し大人の話をしようか

 とうの昔に、涙なんて枯れ果てた。

 どこまでも暗くて、足元が土で押し固められた床であること以外、何もわからない場所で、不安に震えて流した涙は誰にも届かなくて。こんなもの、無駄なんだと知ったときに。

 感情が揺れ動いたって、それがこぼれることはない。

 いくらだって、演じることはできるけど。

「おニィさん。もうすぐ閉店時間だよ!」

 うるさい、と言う言葉すらまともに発音できない僕は、こうしてすぐに間違えられるとしたって、やっぱり女だ。誰がなんといったって。初恋の人が、女性だとしたって。

 酒とたばこと。油と、人と、やっぱり酒の匂い。

 どこにでもありそうな居酒屋のカウンターでつぶれる僕を、店の主人はしょうがないというように放っておいてくれた。黒いスーツに白衣なんて、訳アリとしか思えない恰好をしていたせいかもしれない。あったかいんだよね、白衣って。コート替わりにすごい便利。

 人もまばらで、もうすぐ閉店時間だとか言いながら、店主はどんな客でもやってくればいらっしゃいと店に迎え入れる。

「ずいぶんな有様だな。水で酔いつぶれる奴なんて、初めて見たぞ」

 覚えのある声が、僕のすぐ隣に座る。

 水に酔ってるわけじゃない。原因は店内に充満してる酒の匂いだ、と言い返そうとして。でも、にーにはそれをわかって言ってるのも知ってるから、何も言わずにそっぽを向く。匂いだけでもこうしてろれつが回らないまでになってしまう僕は、当然酒なんて飲めるわけがない。調理に使うときも、しっかり換気を怠らずに完全に飛ばす。でないとうっかり倒れかねない。

 反対に、底なしに強いにーには、今も店で一番強い酒を、原液のまま頼んで店主を驚愕させた。

 頭が痛い。すぐ隣の、強烈で独特のアルコールと酒特有の花のような香り。それが、原因だ。

 酒に弱いってことは、つまり酒に逃げることが出来ない。宴会でも、匂いだけでこうしてつぶれるから、しっかり対策をしないと一緒に楽しめない。弱いからって死にはしないけど、苦しみはある。

「にーに」

「ああ」

 そう、たった一言しゃべるだけで、脳の奥が突き刺されるように痛い。

「彼女は、しあわせに、いきた?」

 でも、痛みなんて慣れてる。だから、僕はそんなものを気にしたりなんかしない。

 一番、尋ねたかったこと。でも、肯定されても、否定されても、間違いなくにーにを僕は殴り飛ばすだろう。

 だけど、にーにの口から帰ってきた言葉は、そのどちらでもない。

「さあな」

 本当はどうだったのかなんて、本人にしかわからない。周りがどれほどその人のことを見ていたからって、見えているものが本当のことだとは限らない。だから、にーにが肯定しても、否定しても、殴る気でいた。

 だけど、

「少なくとも、俺が見る限り。つらいこともあっただろうに、いつだってあいつはそれを隠し通して乗り越えて。最後には、笑っていた」

 寂しそうで、晴れやかな横顔をみたら。

 本当に、もうこれはどうしようもない。

「そっか」

「ああ」

 十分だ、なんて思えない。

 どこまでも、どこまでだって、まだくすぶっている。

 彼女は逝ってしまった。それは、覆す方法を知っていたって、そんなことをすれば彼女の生を汚すだけだ。そう、間違いなく思えて、納得できてしまうことが悔しくて悲しくて。

 ぽん、と。

 そんな時にうつぶせた頭の上におかれたのは、一冊の分厚い日記帳だった。

「今わの際に、お前に渡すよう託された」

 それだけ言って、にーにはまた、強い酒を店主に頼む。ただ、今度は水割りで。

 随分と懐かしい、花柄のコラージュの表紙だった。こんなもの、まだとっていたのかと愕然としたし、嬉しいようで、腹立たしいようで、訳が分からなかった。

 はっきりと覚えてる、小学校の図工の工作。手伝いを乞われて、僕は上手く書き過ぎて、これは提出できないけどきれいだから頂戴と言われて渡した、ただの落書き。テーマは青で、僕の家紋エンブレムのペンダントを見せてほしいと言われて、そんなものよりもとすすめた、青い花たち。

 紫陽花アジサイ、ブルースター、勿忘草ワスレナグサ、エリンジウムにニゲラにルリタマアザミ。そして、竜胆。

 ぐちゃぐちゃの感情が、収まらないときに。ヒトは、一体どんな表情をしているんだろう。僕はもう、笑って居ればいいんだろうか。

「勝ち負けじゃぁなぃのは知ってるし、そもそもが無理な話だってのも、分かってるけどさぁ」

 泣きそうな声で、流れなんてしない涙が喉を抑え込むようで嫌だけど、こればっかりは、どうしようもないのかもしれない。

「一回だけ、持ちかけたことがあるよ」

 ぼろぼろと、涙の代わりに零れ落ちていくのは、言葉だ。

 話しても、良いのかもしれないと思って居るわけではないけど。悲しみに暮れる涙が止まらないのとおなじように、止まらない。

「にーにと、同じだけの寿命を生きる気はない?ってさ」

 にーには、時折酒のお代わりをもらいながら、黙って話を聞いている。

 いや、もしかしたら、僕の話なんて聞かずに、ただ酒を飲んでるだけなのかもしれないけど。

「人間だったから、にーにと会えたんだって。人間じゃなかったら、にーにと一緒になることはなかったから、だから。出会ったときと同じ人間のまま、にーにの隣に居たいって、フラれちゃった」

 コップの水にぼやけて映るのは、笑っているような僕の無表情。

 次に、聞こえてきたにーにの言葉は、

「――――」

 なんだか、聞き取れなかった。

 酒の匂いに朦朧とした意識が、言語を拾い上げる能力を放棄したのかとも、思ったけど。

「は?」

「らしくないな。と言ったんだ。竜胆りんどうを俺から連れ去り、自分のモノにしてしまう、現実的な力をお前は持っているのにな」

 モロイ。夢魔モーラを語源とする、吸血鬼の一種。

 誘惑と堕落。その技術に特化して進化した吸血鬼、とも言える。

 感情を操るのも、記憶を操るのも。少しばかり疲れるとはいえ、可能。

 周囲の目をごまかす方法なんて、いくらでもあるし、いくらでも知ってる。

 にーにが言っていることの意味なんて、簡単だ。欲しいなら、奪えばよかっただろう。

「できるわけないじゃん。それやっちゃったら、もう、それは僕が好きになった彼女じゃないよ。彼女が、化け物側こっちに来るのを望まなかった理由と一緒だよ」

 へなっとした、自分の笑顔さえ、憎たらしくてたまらない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る