第8話 スケッチブック
結局それは、僕が臆病で、寂しくはあっても、彼女のためだと言いながら。僕は今の関係を壊してしまうことを恐れていたとという。
本当に、情けないだけのはなし。
「あれ?」
火加減のできないオーブンをいじりながら、足元の紙を、蹴って端に避ける。
あの時も、たくさんデザイン画を描きながら、こうやってお菓子をひたすら作っていたような気がする。
デザイン画は、今だって残っている。千枚、一万枚だって超えるかもしれない、ドレスの絵。
そんなに多くの絵を描いて、決まったものは実にシンプルで。にーにの一族の、三枚の鱗を模した、赤い花の刺繍の入った、マーメイドドレス。
それを着た彼女の美しさは、人魚姫や、乙姫だって敵わない。そう、誰もが絶賛してくれることが、嬉しくて、悲しくて。なにより、にーにが隣に立つと、さらに彼女の美しさが増すような気がするのが、悔しくて。
ブーケトス、というのはなかったけど。お礼も兼ねた、彼女からの花束は。
やっぱり捨てられない。だからいまも、台所の片隅、天井から、色あせて干からびた赤い花束はぶら下がっている。
何十年たった今でも、それらを捨てられない僕は、なんて未練がましく醜いのか。なんて、自嘲気味に笑いながら僕は。
マカロンの生地を天板に乗せてオーブンに入れる。
そうして、新しくここ数日で描いていて、居間に収まりきらなくなったデザイン画を拾い上げて、狭い台所を後にした。
ようやく、ここから本題に入ろう。
人間には、寿命がある。
もうすぐ。あと、数日で、彼女は死ぬだろう。
幸せに生きただろう、その人生が。98年に及ぶ、短くも長かった人生が、終わる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます