第2話 吐きそうなほどの甘さ

 どれだけ歓喜しても追いつかない部屋の中のにおいは、どこまでも甘ったるく、脳が溶けて思考を保てなくなりそうだ。いっそ、そうなって本当に壊れてしまえばいい。そうしたら、くだらないことに一喜一憂して苦しむことも、涙を流すこともない。

 むせかえって、それでも足らずに吐き出してしまいそうな苦しいにおいにつられて。自分でも引き出せないような苦しい言葉も、一緒に吐き出してしまいたい。

「マカロンは、一昨日作ったっけ。まあ、いいか」

 一抱えではどうにもならない大きなボウルには、大量の卵白、そして砂糖が入っている。卵黄は、あとでバニラをたっぷりと効かせたカスタードクリームでも作ろうか。ああ、そうしたら、またノワに怒られそうだけど。『ご飯をお菓子で済ませるの!?』って。小さな頬を膨らませて、顔を真っ赤にする様子は、簡単に想像できる。

 趣味は、男装と旅暮らし。それに、不老不死に近い種族的な体質のおかげで、持て余した時間をつかって、新しいことを学び技術を身に着けること。おかげで、旅の相方ノワには『うん、できることじゃなくてできないことのほうを教えて?』なんて言われることも。不老不死なんて長い長い時間、一か所にとどまっていても、正直暇で退屈。だから始めた旅暮らしも、資本主義社会で生きていることには変わりなく、お金がなければどうしようもない。だから、数年単位で定住して貯蓄をためては、あちこちふらふらと気ままに旅歩く、といった感じ。技術や知識を身に着けるのも、定住した土地で、仕事を探すときのため、というのが最初は大きかったし。男装の理由としては、180越えの伸長と、低い声や細く無駄なく筋肉のついた体形に、異様に男装が似合っていたことと。最大の理由は、女二人旅と分かったとたんハエのようにたかるごみ虫みたいなクズい連中がうざい。なんて言ったら、言葉遣いが悪いと義母かあさんに口うるさく言われそうだけど。

 吸血鬼、というと一番有名なのはウィピリ。いわゆるヴァンパイア。だけど、それは『牛』という大きなくくりの中で、ホルスタインだのアバディーンアンガスだの、黒毛和種だの細分化されているようなものなので、僕らの呼び方としてはヴァンパイアは適切な呼び方ではない。加えて僕は、長い時間を持て余して自分を対象に人体実験をしたりされたりした結果、いろいろな特性を取り込んでしまったみたいだから、義母かあさんや万寿まんじゅと同じくくりに入れるかどうかも怪しい。でも、長期間血液やそれに成分を似せたものを摂取しないでいると体調を崩す、ということは、まだ吸血鬼のくくりの中に入るらしい。今後については知らない。

 ノワ?あのこは魔女だ。曾祖母がどうだとか言ってたきもするけど。魔力が高ければ高いほど幼い姿をしているような種族で、千年以上にわたって年齢一桁の容姿を保っている時点で、どれほどの人物なのかはお察し。できないなら、できないなりに想像してくれればいい。

 遠い昔、まだ人間だった僕を、手ごろな餌にするために引き取って育て、情がわいてしまって吸血鬼に変えたうえで正式に養子にしてくれたお人よし。義母かあさんが魔女や夢魔などを意味する《モーラ》を語源に持つ吸血鬼の一種の中で、貴族みたいな立ち位置の家の生まれだったこと。加えて、人間が公式に僕らみたいな存在を認める前から、人間社会で地位と権力を確立してしまった魔族の一人。そんなこんなでいちおうお嬢様、なんて呼ばれることもある。下心と敵対心丸見えな笑顔で。

 住所不定、世界各地を歩き回っていても、特に何も言われないのは、世界各地のナウな情報を義母かあさんに逐一報告して、家の更なる発展に貢献していることが大きい。鮮度命の情報を、たまに腐らせてものすごく怒られるけど。

 義父とうさんは、年相応、というのもおかしいけれど。若い姿を保ったままの義母かあさんや万寿まんじゅ、僕と違って、老人の姿を好む変わり者。もっとも、世界各地の紛争地域を好んで渡り歩く相方に連れられて、あまり後のことは考えず、命以外のものを一切無視して人命救助を行う僕らや、時にパワ-バランス考えずに突き進む義母かあさんのせいで、苦労が絶えないからだとかいう苦笑交じりの小言も聞かなかったわけじゃない。苦笑が混ざっている時点で、そんなものはただの冗談の一端だということも。

 足元にガサガサとまとわりつく紙屑が、ウザったい。甘いにおいの中にわずかに混ざる黒鉛のにおいも、たまらなくうっとおしい。

 すべて、自分がまき散らかしたものだけど。すべて踏みつけて、踏みにじって、壊してしまいたい。

 でも、もう。期限まで、時間がない。

 時間っていうのは、本当に残酷だ。

 いつもは、飽きるほど。それこそ無限に持て余しているのに、こういう時ばかりは、いつだってすぐになくなってしまって。引き留めようとしたって、止まってくれないんだから。

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