3

 二人と別れた彼は、リウの息がかかっている三軒の店を回った。彼自身が直接に経営に責任を持つ私的財産として実の親から分配された店は、実のところあまりない。彼自身の資産の多くが裏の利権に集中しているためである。

 だから表の世界の住人はその名前どころか存在自体もめったに知らない。その兄弟や親族が経済界においては中華系企業グループの重鎮として深く知られているにも関わらず。しかし少年がたった今歩みを進め続けるここのような、社会で一番深く、汚く、暗い場所においては、その名を知らない者は早晩に野垂れ死にする運命と決まっている。そいつには頭のネジと正常な精神のどちらかが欠けているに違いないのだから。

 少年の姿はやはりこのネオン街では浮いてしまう。しかしその顔を見たものはぎょっとしたように目を逸らすか、もしくは下卑た視線を送って寄越すかだ。どちらにしてもその急ぎめの足取りをわざわざ止めようと声をかける者はいない。

 彼の巡った三軒目の店は駅から伸びる大通りにほど近い、まっとうな中華料理店。入り口を大仰な店名が書かれた赤い壁が覆い隠し、店内の様子は一切うかがい知れず、一見の客には飯店だとすら判別がつかないかもしれない。

 とはいえその表側に彼がのこのこと寄っていくはずもなく、行き慣れた裏通りからの裏口を叩く。その裏口の向こう側は厨房や従業員用の控室に繋がる入り口とは別に用意されていて、妙に頑丈そうな、鍵穴どころかノブさえない鉄製の扉に唯一、それが壁の一部でないとわかる特徴として、人の目の高さに郵便受けのような四角い切れ目が入れられていた。それがノックの音に反応して開く。

 覗き穴で嵌め殺しにされた防弾ガラスの向こうから険のある視線が彼の頭上を飛んだ。やがてそれが降りて、少年の顔を認識する。扉が内側に開く。

 少年は無言で濡れた傘を巻いて男に渡し、その赤絨毯の敷かれた広めの部屋に入り、両手を上げた。彼を招き入れた男はすでに扉を閉め、厳重な鍵をかけたあと、少年が金属物の類を持っていないことを確認した。そして部屋の反対側の扉横に設置された端末に手をかざす。

 それが掌紋認証だったのか、向こう側から別の男が扉を開けて少年を招き入れ、彼をエレベーターに乗せて共に地下へと降りる。

 ここまで言葉もなく彼が通されたということは、ここが当たりだったということであり、彼の予定通り、仕事は早い時間から始められるだろうということだった。

 エレベーターを降りて幾つかの扉と廊下で待たされたあと、通された先には円卓があり、一人の小柄な老父が食事をしていた。二人分の料理と席があり、彼の座らない方の席には食べかけと思われる食器だけが残されていた。

「不味い飯を美味くする方法は知っているか?」

「いいえ、リウさん」

 その広間に入ってから暫くの間、彼の近くに立ったまま男の食事を眺めていた少年は答えた。

「三つある。ひとつは幇だ。日本の言葉なら仲間だ。どんなに不味い飯でも分け合えば美味くなる。ふたつめは金だ。目の前の不味い飯を札束と一緒に卓の外に投げればいい。すぐに別の料理が用意される」

 食べ終わり。白酒を口に含む。

「最後のそれは敵の血だ。俺の怒りが毛穴の淵にまで達した相手の命乞いを聞きながらの食事は何物にも代えがたい」

 満足気に吐息を漏らす。

「だが、裏切り者の血だけは、あとから苦みが襲ってくる。一生消えず舌先に溜まり続ける苦(クー)だ。年を取ればまた別の味に変わることもあるらしいが、俺にはまだわからない」

 そして向かいの席を指差し、初めて少年へと視線を向けた。

「お前がそこの席で血を流さないことを祈っている」

 食べかけの料理に口をつけていた者が、もうこの世にいないことを考えて、少年は今更になってズボンの裾の濡れた冷たさが気になり始めて小刻みに震える。

「はい……リウさん」

 懐から時計を取り出し眺めながら、ツァオと一声呼んだ。

 名を呼ばれた男が少年の背後から出てきた。彼が手を差し出してきたので、その手に厚みのある封筒を乗せる。眉一つ動かさずに彼は中身の金額を数えた。

「シャンジュ」

 リウは目線を上げた。

「足りないか」

「シーダ」

 少年はその言葉に恐怖を押し殺して目を閉じる。用意した封筒の中身は言いつけられていた金額に少しだけ足りなかった。相方のスリが事故なく続けられていれば、ひょっとしたら達していたかもしれない金額。

「契約を破ったお前のような子どもが、俺の手でどうなったかは知っているだろうな」

「知ってます」

 それはかつての仲間だった。同じようにひっそりと産まれ街に捨てられた、混血の未登録児童ら。二人を残して他のものは稼ぐ道を誤って、リウに仕事を斡旋された。その誰もが今は彼の所持するビルのうちのどれかを支える土になっている。

「そう怖い顔をするな、上手くやればいいだけだ。そうだろ」

 はい、リウさん。そんな返事をしながら、これ以上、内心の苦々しさが顔に出ないよう精一杯だった。突然に上納金の額が倍近くまで引きあげられたのは先月からのこと。生活を切り詰めてさえ絶対に達しないであろうその契約は、二人の少年を思い通りに扱うための口実でしかなかった。

 だからこそ本来なら二人がかりでやっていたスリを今日だけは一人でできないかと試してみたし、その失敗で実行犯の少年はつい数時間前、死にかけた。

 そして本題はここから。

「お前たち混血児には価値がある。理由はわかるか」

「……俺たちは犯罪を犯しても、法律上この国にいないことになっていて、罪にはならないからです」

「そのとおりだ。だからこそ様々な者達がお前たちを手元に集め使い潰そうとする。憎い敵を殺す鉄砲玉としても、一世一代の大博打の代行としても摩耗なく使えるからだ」

「……」

「お前たちには故郷がない」

 その瞬間口元に浮かんだのは、はっきりと。侮蔑であった。

「俺たちはお前らのように故郷がない者を信頼しない。故郷がないということは誇るものがないということだ。忠誠を誓うべき名誉がなく仕えるべき矜持もない。獣と同等の卑しい血だ」

「はい、リウさん」

「そんなお前たちを、愚かにも保護しようとするイセフという名の組織があるのは知っているか」

「……いいえ」

 一瞬の間を聞き逃すはずもなく、

「馬鹿な期待はしないことだ」

 と彼は釘を刺した。

「お前たちは死ぬまで俺の所有物だ。誰にも手出しさせず、逃さず、成人するまでには、しっかり役に立つよう殺してやる。

 しかし今は差し当たって、お前の仕事の話だ。その組織の人間がどうもお前たちに目を付けたらしい。その愚か者がどこの誰かはわからない。だがこの街にすでに潜み、お前らを監視し、接触の機会を測っている。お前の仕事は助けを求めるふりをしてそのエージェントに近づき、関係するものを出来る限り多く殺すことだ」

「……わかりました、リウさん」

「近日中に接触があるだろうが、あるいはすでにお前たちの周りに潜んでいるやもしれない。注意しつつ、無警戒を装え。それから生きて帰ってくるのも仕事のうちだ。この仕事の次第では俺が良いものをお前たちにくれてやろう」

「良いもの、ですか?」

「楽しみにしていろ。下がれ」

「……はい」

 少年は目礼して、退室する。

 彼にはわかっていた。その仕事とやらが彼一人に与えられて、もう一人には与えられない理由が。残された方は人質で、自分が万が一にもリウを裏切ることがあったとした場合の第一の保険。そして彼の言った『良いもの』が第二の保険。

 そんなあやふやな約束を信じるほど蒙昧でもないけれど、残された仲間の命程度では自分の身を守る気にもならない彼にとっては、唯一と言っていいほどの鎖となって身体にまとわりつく。

 もしかしたら、それは。偽造戸籍かもしれない。

 喉から手が出るほどに彼らが欲する。人としての最低限の存在を保証する身分。産まれた時から誰にも認められず、名前さえ持たない彼らが初めて手にする確かな足場。

 誰もが産まれた時から持つそれに、彼ら混血遺児は一切の論理的思考を失うほどに、焦がれる。たとえそれがわずかな可能性で、ほのかな期待であったとしても。

 熱に浮かされたようにエレベーターの到着を待っていた。

 だから背後から近づいた彼に襟を捕まれ、引き摺られた時も叫び声一つあげられずに、為されるがままだった。そのまま物置の暗がりまで連れて行かれ、口元を強引に口で塞がれた。

 その頃にはそんなことをする相手が誰であるかに気付いていたし、一切の抵抗や声を上げることを諦めて、本当に服を汚すはめになったなと漠然と考えていた。

「会いたかったぜ」

「……」

 その男がかつて、彼の客であったことはない。金も落とさずに何度も襲って来ては、一方的に快楽を貪って捨てていく。それでも少年が男のモノを噛み千切らないのは、そいつがリウの身内だったからだ。

 リウの家系唯一の面汚し。ろくな仕事さえこなせないくせに態度だけは不遜。男女問わない買春が趣味でリウの店に出入りしては売上を内緒で掠め取って小遣いにしている寄生虫。

「いくら俺のが気持よくても声だけには出すなよ、リウに聞かれたら殺すからな、な?」

 おもちゃ同然のナイフでぴたぴたと少年の首筋を叩く。そんなものに恐怖を感じるわけもないが、下手に逆らうのも面倒な上に彼には捨てるほどのプライドもなく、ただ単にとっとと済ませてしまおうと思った。

「とっとと済んじまうしな」

「何か言ったか?」

 男は彼の服を脱がせながらあばらの浮いた肌をぶよぶよとした肉質の指で撫でるのに夢中だった。

「どこに隠れてたって訊いたんだ」

「ここさ、ずっとここだったのさ」

 強引にズボンから靴を抜き出し、少年の下半身の衣類を剥ぐ。

「お前が来るってリウが急に言い出してよ、食ってたのも途中で中座しろだと」

「……あ?」

「ほら、そこの壁に手をつけて腰を突き出せ」

「そんなことより――」

「さっさとしろ!」

「……お前、あの席にいたのか」

「それがどうした、え?」

 背後で扱く音が聞こえた。

「……勃たせてる場合じゃなくてさ、悪いこと言わないから今すぐここから逃げた方がいいぞ」

「俺に指図すんな死にてぇのか」

「……馬鹿が」

 その言葉の直後、彼のむき出しの背中に生温かいぬめりが飛び散って、少年は流石に青筋を立てた。

「いくらなんでも早すぎるだろ、この――」

 背後は血の海だった。

 彼の背中からつま先までを真っ赤に染めたのは男の首から噴き出る血で、その背後にはリウが立っていた。

「俺の商品を勝手に貪る、裏切り者の豚の血だ」

 短刀を喉から引き抜くと、空気の抜ける音をさせながら男は崩れ落ちた。リウはつまらなさそうにその様を眺めたあと。短刀を少年に突き出した。

「舐めて綺麗にしろ」

 少年はガタガタと震える舌を突き出した。鉄の味に自身の血の味まで混ざる。

 短刀の柄で肩を突き倒され、血溜まりに尻餅をつく。

「下手くそだな」

 リウは倒れた男に短刀を突きたて、もう反応さえないその死体ごと、別の部屋に運ぶよう部下に指示した。

「お前は俺のものだ」

 リウは同じ言葉を何度か繰り返した。

 剥き出しの臀部を無感動な視線が執拗に撫でるのを感じた。

「その血の味と一緒に、頭に叩き込め。お前が無様なことをするたびに俺の顔に泥を塗るのだ。俺の晩餐にその血を振りかけられたくなければ、あの役立たずのスリ共々、奴隷としての自覚を持て」

 それで話は終わりだったらしく、今度こそ本当に、雨の中に放り出される。傘をささずに濡れることで、血の跡を洗い流しながら、相方の寝ながら待つ住処へと足を向けた。

「……結局、服汚れたな」

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