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 一方、泥の中に残された生き物は、男の狙ったわけでもないだろう蹴りが幸か不幸かその小さな心臓に入り、呼吸が止まってから数分が経っていた。あるいはやはり、幸運であったのかもしれない。商売道具の指を折られるよりも先に、その偶然の呼吸停止によって結果的に男のやる気が削がれたのだし、もしも気絶したままに痛みを忘れて死ねるならば、なおさらだ。

 ぱしゃぱしゃと雨が泥を跳ねさせて、少年の体温を奪っていく。その音に混じってもう一つ似た音が近づいてきた。足音。

 別の少年が彼のそばに歩み寄ってきていた。

 男が戻ってこないことを確認したかのようなタイミング。傘をさして見下ろす彼の目に、しかしその少年を助けようという焦りは見られない。時間を追うごとに少年の回復確率は下がり続けている。

 その足元に這いつくばっているあと数分で死ぬ運命の子供と比べて、その少年は様々な点で異なっていた。まず服装。足元の泥だらけの子が薄汚い布切れのようになってしまった大人用のシャツを、何度も洗いつつ端を結んで無理に着ているのに対して、彼は彼自身の身長にピッタリと合った長袖のワイシャツにハーフパンツをサスペンダーで吊るしていた。それは戸籍のある一般家庭の子供にとっても正装にあたる組み合わせで、特別な催事の日にしか着せられないものであったが、この少年にとってはそれがどうも普段着らしい。

 そして何よりも顔立ち。殴られた直後でチアノーゼを来した伏せっている方と比べても仕方ないが、その分を差し引いても彼の顔立ちは幾分中性的で多少混じった白人の血が全体の幼さに言い知れない影を射している。

 その不思議な少年は傘をさしたままため息をついて、革靴で足元の少年を仰向けに転がした。あるいはその一瞬の躊躇いは、このまま死なせた方が幸せなんじゃないかと思ってしまうほどの、その穏やかな寝顔に見入ったせいだったのかもしれない。

 しかし右足を彼の左胸にかけ、上から骨を折る勢いで。踏み潰す。それを何度か繰り返すうちに、心臓がまともに動き出し、少年は息を吹き返して泥水を吐き出した。

「っぐ……ゲホ、げえぇ」

 むせながら酸素を何度も肺に送って、数刻で失われた分の血流を全身に取り戻す。生存を嬉しがる様子もなく、ただ無気力に自分を踏み続ける足をのけて、俯いた。

 吐瀉物が泥の真ん中にこぼれる。立っている方の彼は眉をひそめながら汚れない距離まで数歩さがった。喉を詰まらせないように時々喉の奥を掻き混ぜながら、もう何も出すものがなくてただえずくばかりの少年に向かって、彼は初めて口を聞いた。

「右手は無事か?」

 少年は力なく、手を振った。その指は男の暴力のなかをくぐり抜けてなお、一本も傷付いていない。

「外傷だけでなく、麻痺も残っていないな」

 うめき声混じりに何かをつぶやいた。

「何だ?」

「……足」

「あ?」

 首を振りつつ言葉を紡ぐことを諦めて、口元を拭い顔をあげる。

「……戻ってくるかな」

 男のことだ。

「駅にまっすぐだったから、しばらくは大丈夫だろう」

 それからしばらく考えて、

「右手は本当に無事なんだな?」

「あぁ」

 返事を聞いて、先に帰らずに少年の回復を待ってやることにする。もし息を吹き返さなかったら、右手に障害が残ったなら。そのまま彼を捨てることも選択肢のうちだったが、まだ利用価値があるなら多少下半身に障害が残ったとしてもそばに置くだけの理由にはなるかと考えた結果だ。

「あいつの蹴りさ、蚊も殺せないよ」

「その蹴りで死にかけたお前は、蚊以下か」

「運が悪かったのさ」

 眉をしかめながら、立ち上がった。その動作が少しぎこちなく、少年は尋ねた。

「膝から下の感覚がないだけ。杖か何かだと思えば十分動く」

 鼻を鳴らして踵を返した少年の後を、傘もなく濡れるに任せて歩き出す。自分の足取りが覚束ないのに、まったく歩調を緩めないのはこれについてこられないなら捨てるという意味だろうかと苦笑いを浮かべた。

「次は上手くやるよ」

 返事はなかった。彼は背後の少年が財布を握った手を捕まれ、駅から引きずり出されるまでをすこし遠くから眺めていた。だから少年の技術に不手際があったわけでもなく単純に運が悪かったとしか言いようがないことを知っている。

「俺だけじゃなく、お前だって独り立ちしないといけない」

 そう言って、彼を一人で駅に向かわせたのは少年の方だった。多少なりとも責任を感じていた。だからと言って、負い目が産まれたわけでもないのだけど。

 二人は無言のままに路地を幾つも曲がり、駅と駅の狭間の不便で汚水の流れる不潔な地区へと近付いていった。それにつれて見える家並みも鉄筋コンクリートのビル群から、トタン屋根のあばら家が目立ち始める。雨のせいで人影はさっぱりだが、普段ならそこらの路上にダンボールを敷いて座り込む男どもが寝ているはずだ。ろくでなしがろくでなしに乞食するでもあるまいに、一日中そこでごろごろする男も餓死する様子はないので、おそらくそれぞれ別に食べるたつきがあるのだろう。

 彼らはそして、ついに陽の当たらない場所で生きる人々が賑やかに行き交う一角にたどり着いた。

 そこにはいくつかの屋台が並び、雨の中にも関わらずほの白い熱気を幕の隙間から吐き散らしながら商売を続けている。これからが雨も本降りだろうに貧乏人ほど元気なものだとため息を吐く。

「おい、あれ二つ」

 背後の少年に声をかけて今日の彼単独での稼ぎの大半を渡した。あんな人いきれに自分が突っ込んでいくのを厭うたためだ。彼はそんなこと気にもしない様子で不格好に駆けていった。タグ無しにはコンビニなどの購入時点で身分確認される店は軒並み使えないから、彼らが食事をできるのはこうした不法露店のみなのだ。

 その間に周囲を見回す。傘をさしているのは彼くらいで服装も含めてかなり目立っているはずだったが、誰も彼もが自分を強引に無視していた。

 いつものことなので、舌打ちをひとつしただけで空を見上げる。

 空は雨の夜にもかかわらず、地上からの明かりに赤茶けて薄っすらと汚れて見えた。

 彼はその影に気付いていた。近寄ってくるそれに気だるげに視線を向ける。大男がいた。

「ドウ、元気?」

 片言の日本語で話しかけてきた香物特有の異臭を放つ男は、赤い鼻を啜りながらにっと笑った。少年は手だけを上げて返事に代える。

「元気、チガウなら。いつでもドウゾ。オクスリ安い、たくさんアル」

 懐をまさぐり始めた男に首を振って、

「いらない」

 少年にしては珍しく、見下ろす彼にだけ見えるよう年相応な微笑みを返した。

「売れてるか?」

「ボチボチでんな」

「お前いつもそれ以外の返事しないよな」

 ふふと笑いながら、少年の目は笑っていない。

「それよりさ、リウがどこにいるか知らないか」

「……知らないネ」

「そうか」

 一瞬で笑顔を溶かした男に悪かったと謝りながら、傘を回す。彼がリウを嫌っているのは知っていたが、これで今日の縄張り巡りが決定したため、少年の方も不機嫌さを隠さない。

「あいつヨクナイ」

「知ってるさ」

「チャイニーズ・マフィアはクスリ高くウル。キライ」

「……そうかい」

「アンタも、高くウラレル」

「…………」

 肩を竦めて、傘を回していた手を止める。相方が二つ容器を持って歩いてきたからだ。

「お、売人。今日も臭いな」

「オハヨウいい顔ネ」

 殴られて腫れた頬のことだった。からかわれた本人は更に顔を赤らめる。

「夜だよ馬鹿。売りもん自分で焚くなよな」

 一つの容器をもう一人に手渡す。箸の突っ込まれたそれは化学調味料の溶けたお湯に小麦粉の薄皮と肉団子を浮かべただけの簡単な屋台の料理で、それが彼らの一日の食料だった。

 持ってくるまでに雨が混ざったにも関わらず、湯気の立ち上るそれを片手で飲みながら、少年らは短く言葉を交わす。

「まだ今日は帰れないみたいだ」

「もう仕事しないんでしょ」

「馬鹿言え」

 むしろこれからが稼ぎ時だった。相手が暇を持て余した誰かの内縁の妻から、幼児趣味の娼婦やホモの酔客に変わるだけだ。リウの用事が済み次第、客を見つけてそのまま朝まで仕事をするつもりだった。

 汁物を飲み干し、器を少年に突っ返す。受け取りながら妙な真剣さで、

「その服汚すなら僕に譲ってけよ」

 もちろん、それは泥や雨の話ではない。

「その時はまた新しく買ってもらうさ」

 そう残して、手を振った。

「ニーニャ」

 大男は行きかけた少年をそう呼ぶ。彼の母国の言葉らしいが、意味は教えてもらっていない。

「なんだよ」

「ダメになったらジャンプ。キャッチャーはシタにいるネ」

「……」

 苦笑して肩をすくめた。

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