ヤクザチルドレン

言無人夢

1

 男は慣れた仕草で、その小さな生き物を蹴り上げた。這いつくばって男の膝より下。その生き物はすでに声をあげることさえやめていた。新しく垂れた血痕が雨粒に形を掻き乱されて泥に混じる。

 男は急に冷めて、その行動に馬鹿らしさを感じ始めた。

 盗られた金はすぐに戻ってきた。逃げようとしたスリはこうして足元で死にかけている。当初の怒りをすでに忘れてしまったにも関わらず、惰性で肉の塊を蹴り上げ続けても、はした金も持たないガキからは何を取り上げることもできない。

 割りに合わない無駄な労働だ。

 家では妻子が自分の帰りを待ちわびている。こんな犬以下の浮浪児に関わっている暇なんて俺の人生に一瞬でもあるだろうか。革靴についた血も裾に跳ねた泥も、我が家に帰りつくまでには雨に洗い流されるだろう。

 傘を傾けて、鞄を持ち直した。腕時計の針は夕飯時を少し過ぎたあたり。舌打ち混じりに踵を返して、男は帰宅を再開する。建物と建物の隙間の小さな空き地から抜け出て、路地を行き交う人々の背を追う。帰りがけに、さっき放置してきたガキが死にかけている場所を交番に届けようかと迷うが、それすらも時間の無駄だろうと思い直す。

 第一、あの子供はおそらくタグ無しだ。国にその生存を認められず、就学機会と生活保護の供与を拒絶された低層出身者。生まれる前から首元にタグチップを埋め込まれ、その照合で個人として認識され、口座や戸籍にリンクを張られることでその身分を保証されている自分や自分の家族とは価値が違う。

 そんな子供を警察に突き出したところで、向こうとしても困惑するばかりだろう。戸籍のない人間は公式には刑罰処分さえできないのだから。特に未成年の戸籍不所持者はたしか、強制労働施設に送ることもできず、ほとんど何もできずに釈放。巡査の側からしてみれば点数稼ぎにさえならず、いい迷惑なのだと聞いたことがある。

 善良な市民を志してきた男にとって、そのような誰の得にもならない行為は想像するだけで心苦しいものを感じる。考えれば考えるほど不快な気分にしかならない。やはり犬に噛まれたとでも思って早めに忘れてしまうのが一番だろう。帰れば晩ごはんの匂いが玄関にまで漂ってきていて、自分は駆け寄ってくる息子を抱き上げて頬寄せるのだ。妻の小言に苦笑しながら着替えを済ませて食卓を囲む。息子の学校での出来事に相槌を打つ。夕食に遅れてしまった謝罪も込めてテストの出来を大げさに褒めてやろう。

 そういえば、と足を止めて振り返る。二度とスリができないようにあの子供の指を踏み折ってしまえばよかったかなと男は今更になって思っていた。

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