第4話 玲愛の真実
次の日の放課後、煌太は黒瀬さんとの約束を守るため、自席に座ったまま暇つぶしにと教科書を眺めていた。
煌太が部活動に入っていないことは、山本先生はもちろん、担任の平下先生も知っていた。しかし、クラスの友人が平下先生から部活に行けと言われている姿を見ると、どうしても羨ましいと思う気持ちは消えなかった。
皆が部活に行き、教室内は煌太一人となる。教室に来るように言っていた黒瀬さんもまだ来ていないみたいだ。時間を確認しようと黒板上に掛かっている時計に視線を移した瞬間、部活動開始のチャイムが鳴り響いた。
「始まったか」
ふと呟いた煌太は後ろを振り向く。視線の先に広がる光景に驚いた。先程まで教室にいなかったはずの黒瀬さんが机にノートを広げひたすらシャープペンを走らせていたから。
教室には自分一人しかいなかったはずなのにと思いながら席を立つと、黒瀬さんの席まで歩を進める。
「黒瀨さん。昨日約束したとおり来たよ」
黒瀬さんはいつものように、話しかけられていることに気づいていないのかノートを見つづけていた。
「黒瀨さん。黒瀬さん!」
いくら読んでも反応がない黒瀬さんに苛立ちを覚えた煌太は、昨日の出来事を思い出す。
昨日、黒瀬さんは『玲愛と呼んで』と言っていた。今まで同級生の事は当然苗字に『さん』を付けて読んでいた煌太にとって、名前で呼ぶことに違和感を覚えずにはいられなかった。奏のことでさえ『岩田さん』と呼びたいくらいなのに。今、玲愛と呼んだら気づくのかどうか。煌太は意を決して呼んでみた。
「玲愛……さん」
癖になっていたのか『さん』付けで呼んでしまった。ぎこちない呼び方になってしまったことに煌太は恥ずかしさを覚える。
机に向かったままだった黒瀬さんは煌太の声に気づいたのか、動かしていた右手を止めて煌太に顔を向けた。綺麗な双眸に思わず飲み込まれそうになる。
「来たね」
ニヤリと笑みを浮かべると黒瀬さんは髪をかきあげる。
「昨日は途中で終わったけど、結局何が言いたかったのさ」
「まだ私のことを黒瀨さんって呼ぶのね。玲愛で良いっていったのに」
「そりゃ、少しは抵抗あるんだよ。黒瀬さんだって俺の事、煌太と呼べるの?」
黒瀬さんに気持ちを分かってほしかった煌太は自らを引き合いに出してみる。
「煌太。普通に呼べるけど何か」
「いや、そうなんだ。……ははは」
あっさりと下の名前を呼ばれた煌太は半分悔しくて半分嬉しい気持ちを抱いた。
「それより玲愛……はさ、理由を教えてくれるんだよね」
「何のことだったかしら?」
「何のことって、昨日の放課後のことだよ」
「昨日って言われても私にはわからない」
話が噛み合わず煌太は地団太を踏む。玲愛の記憶能力はどれだけ低いのか疑いたくなる。
「玲愛は昨日、俺のことを『おかしい』って言ってたけど、その訳を今日教えてくれるって言ったんだよ。ホント覚えてないの?」
玲愛は渋面を作っていたが、徐々に本来の顔に戻った。
「そのことね。あなたのおかしい理由なんて簡単なこと」
玲愛は席を立つと、窓に近づいていく。煌太も玲愛の隣に並んだ。外では運動部がそれぞれの大会に向けての練習をしていた。
「どうして部活動に入ってないのかしら。本来、星屑高校は部活動に入るのが非公式だけど義務化されてるはず。特に理由がない限り、こんな時間に教室に残っているわけがない」
痛いところを突かれ、煌太は体が竦む。玲愛の言うことは正論だ。入学して一ヶ月以上経過しているにも関わらず、部活動に入部していない生徒は特定の人しかいない。もちろん、自分も特定の人の一人だが。
「みんなには言ってなかったけど、入学前に交通事故に遭って入院してたんだ。それもあって、入部の期日を延ばしてもらってるんだ」
煌太は事故について笑いながら明らかにした。ただ、記憶喪失だという事は誰にも知られたくないことなので言わなかった。唯一知っている山本先生にも口止めはしてあるし、玲愛には伝わっていないはず。
笑ってやり過ごそうとする煌太を前に、玲愛は興味がなさそうに『そうなんだ』と一言告げるとそそくさと自席に戻り、ノートを開くと何かを書き始めた。会話が途切れてしまい、周囲の空気が重くなるのを感じる。
意を決して事故について告げたけど、玲愛は無反応に近かった。やはり他人のことについては興味がないのだろうか。玲愛はやはり不思議な女の子だと煌太は再認識する。
入学式以来、常に放課後の教室に残っている玲愛が周りの人と交流しているのを一切見たことがない。常に一人でいる玲愛はこの一ヶ月でクラスメイトからも不思議な女の子として認識されている。そんな玲愛は人気のない放課後に何をしているのだろう。
校庭から響く運動部の声が教室に木霊する。暫くして、煌太の脳裏にある疑問が浮かび上がった。
「そういえば、玲愛もここにいるってことは部活動に入ってないんじゃないか?」
毎日放課後に教室に残っていることを考えると容易に推測できた。今まで疑問に思わなかったことが不思議で仕方がないくらいだ。
疑問をぶつけられた玲愛は、冷静さを失ったかのように直ぐに反応を示した。
「そ、そんなことない。私は……部活に入っている」
「それじゃ、何部なのさ。毎日教室に残っているのは知っているんだよ」
「それは……」
答えるのが嫌なのか玲愛は煌太から視線を逸らす。明らかにいつもの玲愛とは様子が異なっていた。玲愛にも聞かれたくないことがあるのかもしれない。
目が泳いでいた玲愛は大きく息を吐きだすと、決意に満ちた表情で煌太の顔を見つめてくる。一瞬たりとも目を離さない玲愛の勢いに押されそうになる。
「……この後、暇?」
「え?」
真実を聞けると思っていた煌太は、玲愛の発言に思わず拍子抜けする。
「この後、暇かどうか聞いているのだけど」
「そりゃ、何もないし暇だけど」
部活動に参加していない煌太は、放課後に時間の制約がない。自由そのものだ。
「なら、付き合って」
「え! 付き合うって……俺達まだそんな仲じゃないし」
異性からいきなりの付き合って宣言に、心臓の鼓動が一気に早くなる。
「あなた、何か勘違いしてるんじゃない? 知りたいんでしょ? 私の部活を」
玲愛の言った言葉の意味を理解した煌太は、自らの思考に恥じらいを覚えた。
「うん。玲愛の部活を知りたい。だから俺、付き合うよ」
「そう。なら、一時間後に集合。場所はここで」
「わかった。でも、なんで一時間後なの?」
疑問に思い尋ねてみるが玲愛は既定の動作にうつっていた。
仕方なく煌太は時計に視線を移す。時刻は十六時半を過ぎるところだ。外では運動部が来るべき大会に向けて練習をしている。外の喧騒が再び静まり返った教室内に響き渡る。
このまま教室で玲愛の隣にいるのも良いのかもしれない。ただ、玲愛にとっては他人が周りにいるのが目障りだと思っているのかもしれない。玲愛について詳しく知っている人なんてはたしているのか。わからないことばかりで悩み悶えていた煌太は、とりあえず煮え切った脳みそを冷ますために校内を歩き回ることにした。
HR棟は部活動が始まると生徒がほとんどいなくなってしまう。一方、特別棟には理科室や図書室、美術室などがあり、文化系の部活動が盛んに活動している。特に理科室は毎日薬品を使った実験を行っており、教室の前を通るたびに薬品の匂いが充満して通りたがる生徒はほとんどいなかった。
煌太は図書室へと向かっていた。テストも近いし、少しくらい勉強しようと思った。軽く参考書でも見ておくだけでもやらないよりはましだろう。
図書室に向かうには、理科室前を通るのが最短で行けるルートだ。しかし、最短で行ける代わりに鼻を抑えこびりつくほどの匂いに襲われる。代償を払いながらも煌太は理科室前を横切ろうとした。
「あら、そこのあなた。部活は?」
突然話しかけられ、煌太は立ち竦む。後ろを振り返るとショートカットと眼鏡が印象的な、星屑高校生徒会会長である上本由美が腕を組み、仁王立ちしていた。
「お疲れさまです。会長」
とりあえず、煌太は挨拶をする。
「あなた、一年生ね。一年生は部活動に入るのが星屑高校の掟よ。なのに何故、部活動時間中に廊下を歩いているわけ?」
「テストが近いんで、図書室に行って勉強しようと思って。あと、病気持ちなので。先生達は知っています」
「そう……てっきり、部活をサボっているのかと思った」
会長の発言に煌太の笑みは次第に苦笑へと変わる。
「まぁ、君はまだ一年生だから大目に見るけど、ちゃんと勉強するのよ。そして、早く部活に入るように。星屑高校は文武両道を意識した、規律のある高校なのだから」
堅物な性格を感じさせる会長は煌太に淡々と告げると、理科室へと戻っていった。どうやら会長は化学部の一員らしい。
突然現れ、風のように去っていく会長は常に生徒を監視しているように思えた。そんな会長は一年生の間では良いことよりも悪いことのほうが多く広がっていた。
会長はとにかく堅物で、規律に背く人間がとにかく嫌いらしい。また、会長自身が嫌なことは全て権力を持ってして排除すると言われている。そのため、生徒会役員となった生徒は会長の駒として働かされるらしい。会長に纏わりつく噂を想像しながら煌太は理科室の前をそそくさと後にした。
やっとのことで図書室に着いた煌太は静かにドアを開閉する。図書室では読書同好会が活動しているため、音を立てるたびに同好会の生徒が視線を向けてくる。
異様な威圧感に耐えながら煌太は空いている席を探す。テストが近いこともあり、いつもは閑散としている図書室にも若干の人が集まっていた。そのため、空席を見つけるのに少しばかり苦労した。
丁度よいスペースを見つけた煌太は辺りを見渡す。長机に六つ椅子が設えてあり、空席は五つ。先客がいるけど共有させてもらおうと思い、座っている人に声をかけた。
「すみません。席、ご一緒しても良いですか?」
「どうぞ……あら、煌太君じゃない」
声をかけてから気づいたが、目の前で本を読んでいた人は山本先生だった。
「放課後にここに来るなんて珍しい。何かあったのかしら。もしかして、彼女でも待ってるの?」
「ち……違いますから。テスト近いので勉強しに来ただけです」
「もう、赤くなっちゃって。やっぱり若いって良いわねぇ」
山本先生の独特なリズムに、自分のリズムを狂わされる。記憶喪失について知っている先生は弱みに付け込むかのようにあしらってくる。正直、少し苦手な先生だ。
「先生こそ、どうして図書室にいるんですか。もしかして、誰か待っているのでは?」
「そう。実は待っている人がいるのよ」
「そうなんですか……えー!」
予想が見事に当たり煌太は驚きを隠せず声を発していた。山本先生に待ち人がいたなんて。いったい誰なのか考えてみるも検討がつかない。
「その、待っている人って誰ですか?」
「煌太君に決まっているじゃない」
あっさりと自分を待っていたと言われ、頬が熱くなるのを感じた。
「もしかして、私が生徒と禁断の恋でもすると思ったのかしら。いやらしいわね」
「そんなこと考えてないですから。それで、何故俺を待っていたんですか」
「それはね……話してあげたいんだけど、周りの目が怖いから場所でも移しましょうか」
山本先生との会話に夢中になっていたせいか、今自分がいる場所について忘れていた。ここは図書室であり、同好会の活動場所でもあり、テスト前に生徒が勉強の場に使う場所でもある。
煌太は周りを見渡す。図書室にいる全員が煌太達に視線を向けていた。まるで獲物を狩るような目で。周囲の視線に恐怖を感じた煌太は、山本先生の手を引いて図書室を後にした。
「もう、煌太君ったら大胆ね。私をこんな個室に連れ込んで」
「先生……のせいですよ。でも、ここなら気兼ねなく話せるので」
息を整えるのに必死な煌太はつっこみも忘れ、言葉に詰まりながら話し続ける。二人は山本先生のホーム教室である保健室に足を運んでいた。
星屑高校の保健室は他の高校よりも良い造りになっている。教室一つ分の広さが普通だと思うけど、星屑高校では教室二つ分の広さとなっている。これも盛んな運動部で怪我をする人が多いからだと山本先生は言っていた。
「それで、俺を待ってたのはどうしてですか?」
「それはね、部活のことよ。もう一ヶ月経つし、そろそろ決めたのかなって思って」
今、一番癇にさわることを言われ、煌太は勢いで口走る。
「先生は知っていますよね。俺が大勢の人がいるところにいると、頭痛が襲ってくるって」
「ええ、知っているわ。でも、煌太君は部活に入りたいんだよね? 普通の高校生活を送りたいんだよね? 昨日話して思ったけど、あなたはやっぱり部活に入るべきだと思うわ」
「それじゃ、俺が……俺の体が受けつける部活を紹介してくださいよ」
我慢していたこと、自らの願望が口から放たれる。
言ってから気づいたけど、そもそも山本先生には関係ないことだ。自分を気遣って言ってくれたことなのに、まるで山本先生が悪いかのような対応をしてしまった。最低だと自らに嫉妬する。
「そうね……あるかもしれないわ。一つだけ」
「えっ」
「ただ、煌太君には少し酷かもしれないわ。それでも問題ない?」
山本先生は煌太の対応に気にする素振りも見せず、普通に提案をしてくれる。煌太は黙っていられる状況ではなかった。
「頭痛の症状が起きなければ問題ないですけど……そもそも、この頭痛の原因って何ですか? 医院長先生に聞いても詳しいこと言ってくれないのですが」
発言を聞いた山本先生は憂いを帯びた表情を晒していた。あまり言いたくないのか口をきゅっと結んでいる。
言いたくないのは良くない事だから。おそらく交通事故の後遺症なのだろうと、何となく予想ができた。それでも、はっきりとした病名がわからないと対処のしようがない。
様子を窺うように山本先生の顔を覗き込むと、先生の口元が少し緩む。
「まだ、わからないけど……もしかしたら、不安障害に分類される『PTSD』の可能性があるかもしれないわ」
「PTSD……」
事故に遭ってから、病室で自らの症状について色々と調べたことがあった。主に記憶喪失について調べていたので詳しいことは覚えていない。ただ、PTSDという単語を目にしたのは確かに覚えていた。
「それって……治るんですか?」
「普通に生活してれば治る病気よ。ただ……」
言葉に詰まる山本先生は、恐れている事を口にした。
「一つ間違えると悪化する恐れがあるの。だから、決して油断してはいけない病気なのよ」
「そうですか……」
「でも、煌太君の場合は交通事故の現場を見たとか、トラウマ体験で発症するってよりは大勢の人混みの中にいる時に症状が出ているのよね……もしかしたら『パニック障害』を合併している可能性もなくはないの。だから、間違っても軽い気持ちで考える事だけはしないでほしいと思っているわ」
医院長先生と血縁関係にあるだけ、知識の量も煌太と比べて倍以上違うことを実感させられる。山本先生の言葉は煌太の中で多く紡がれていく。
「どうして……どうして、先生は俺なんか気にかけてくれるんですか?」
「どうしてって、入学当初にも言ったけど私も医師の娘として純粋に煌太君を助けてあげたいと思ったのよ。それに、大切な星屑高校の生徒でもあるしね」
山本先生の寛容さは煌太にとって理解しがたかった。それでも、山本先生の気持ちは煌太の中で確実に変わるきっかけをつくってくれている気がする。
「それで部活についてだけど、部長には私から言っとくから、時期が決まってから参加ってことになると思うけど問題ないかしら?」
「問題ないです。あの……何て言えば良いかわからないんですけど……」
山本先生に向かって煌太は深くお辞儀をした。感謝の気持ちでいっぱいのはずなのに言葉にすることが難しかった。相手に気持ちを伝えることの難しさを実感させられる。
「煌太君なら、別にいいわよ。私の彼氏にしてあげる」
「いえ、けっこうです……って、何で告白をお願いしてる風になってるんですか!」
いつもの山本先生に戻ったのを確信できた煌太は、少し気持ちが楽になった。
気づけば玲愛との待ち合わせ時間まであと五分ちょっと。煌太は保健室を後にして教室に向かった。自分には力強い味方がいる。そんな気持ちを胸に教室で待つ玲愛のもとへ向かった。
教室に辿り着き、ドアを開ける前に煌太は一度大きく深呼吸をした。玲愛が何部に所属しているのか。真相がついに明かされるはず。
意を決して教室のドアを開けた。教室には玲愛がいるとわかっていたが、誰もいないかのように閑古鳥が鳴いていた。まさか、本当にいないのかと思い玲愛の席に目を向ける。視線の先にはいつも通り玲愛はいた。
「玲愛……来たよ」
言いなれない名前呼びに、若干照れながら話しかけた。玲愛は煌太の発言を待ちわびていたかのように、すっと席を離れると帰り支度を始める。
「さぁ、行きましょうか」
玲愛は煌太に目もくれず教室から出ようとする。思わず煌太は玲愛の手を掴んでしまった。
「ちょっと、何処に行くのさ。少しくらい説明してくれよ」
「説明するより見るほうが早いわ」
言い終えると玲愛は掴まれた手をはらうと、教室を出て階段を下りていく。煌太はもどかしい気持ちを胸に玲愛の後を追った。
玲愛の後を追う事およそ二十分、星屑高校の最寄り駅前にやってきた。いったい玲愛は何をするつもりなのだろうか。玲愛は見ればわかると言っていたが、今から始まることに予想がつかない。
駅前は十八時前という事もあり、星屑高校の生徒がちらほらと姿を現す時間になっていた。そんな中、煌太と玲愛は近くの喫茶店から駅前を歩く人達を眺めていた。
「玲愛……今やっていることは何なのかな?」
「人間観察」
一言で説明を終える玲愛。正直、理解に苦しむ。
「それと、コーヒー頼んだのは良いけど……」
目の前にはコーヒーが二つ。もちろん煌太と玲愛の分。砂糖とミルクも同数になるはずなのに……。
「そんなに砂糖入れて大丈夫なのか?」
「コーヒーは甘くないとまずいじゃない」
煌太の指摘を意に介さず砂糖を次々に投入する玲愛。結局、シュガースティック五袋分の砂糖がダークブラウンに染まるお湯へと消えていった。玲愛はかなりの甘党らしい。
「結局、玲愛の部活は何? もしかして、通行量調査部じゃないよね?」
苦笑する煌太に対して玲愛は何も反応を示さないままずっと駅前を眺めていた。
この状況が何時まで続くのか。ふと、玲愛の事から意識が逸れた瞬間、玲愛が椅子から腰を上げた。いきなりのことで煌太は虚をつかれる。
玲愛は何か目標物でも見つけたかのように駅前を眺め続けると、いきなり走り出して店を出ていった。
「ちょっと、玲愛。待てって」
急いで玲愛の後を追いかけようとするが、店員の視線が煌太に突き刺さる。お会計を済ませていなかったことに気づいた煌太は渋々と玲愛の分も支払った後、急いで玲愛の後を追った。
玲愛はそう遠くへと離れてはいなかったので容易に見つけることができた。物陰に隠れながら獲物を狩るような目で駅前を眺めている。そんな玲愛が何を眺めているのか知らない煌太は、玲愛の視線を頼りに駅前を眺める。
「あれって……同じクラスの吉野じゃん」
サッカー部のイケメンこと吉野匠は一年生で既にレギュラー争いをしている星屑高校屈指のストライカーとして同学年の中で知れ渡っていた。煌太も同じクラスだけあって、よく話をする仲にはなっていたので面識があった。もしかして、玲愛は吉野が目当てなのか。
「あのさ、吉野に何か用なのかな? これって部活にあまり関係――」
「黙って」
玲愛の鋭い一言により煌太は思わず竦んでしまった。玲愛は未だに真剣な表情で駅前の吉野を眺めている。もしかして、玲愛は吉野のことが好きなのかもしれない。
心の中で揺らぐ気持ちに押しつぶされそうになりながらも、煌太は必死に自我を取り戻す。
だいたい自分は何を期待してたんだ。吉野程のイケメンの事を好きになる女子がいたって仕方ないことだろ。第一、吉野に比べて自分なんかたいして格好よくないのに。
「行くよ」
玲愛の一言が脳裏に突き刺さる。考えを巡らせている間に吉野の方に何か変化があったらしい。先程まで駅前にいた吉野は数人の男子に囲まれて人気のない場所へと連れていかれようとしていた。
「ちょっと、これってどういう事だよ? 何故吉野はあんな奴らと……」
「私はいつも彼の事を見ていた。最近、吉野君の顔に微かにだけど傷が増えているのが気になった。どうしてか、不思議に思うことが沢山あるの。それで今日、後をつけることにした」
駅前へと走りながら玲愛は煌太に答える。
いつも彼を見ていたと玲愛は答えた。もしかして、もしかすると玲愛は吉野のことが好きなのかもしれない。好きな人が暴力沙汰に巻き込まれているのに耐えられないのかもしれない。
恋愛とは無関係に見えていた玲愛に好きな人がいるかもしれないと思うと、煌太は悲哀を感じずにはいられなかった。
それでも、今は吉野の身に起きていることの方が一大事だ。もし、吉野が本当に巻き込まれているのなら、助けた方が良いに決まっている。たとえ玲愛が吉野のことが好きでも、今起こっていることとは無関係なのだから。
「止まって」
玲愛の突然の一言に、急ブレーキをかけて身を静止させる。勢い余って、玲愛にぶつかってしまう。
「ご、ごめん」
「黙って」
玲愛から冷たい一言をもらうが、走ってきたこともあり気持ちは高揚したままだった。
呼吸を整えつつ玲愛の視線の先を見ると、見たくなかった光景が広がっていた。
吉野が見知らぬ学生に殴られていた。
目の前に広がる現実に、煌太は暫く声を出すことができなかった。逃げ出すことも、助けに行くこともできず、殴られ、蹴られる吉野をただ眺めることしかできなかった。
「おい、吉野。お前、一年でレギュラー争いしてるんだって。調子のってるんじゃねーよ。お前のせいで俺はサッカーを辞めざる負えなくなったっていうのに、どうしてそうぬけぬけとサッカーできるんだ。あぁ」
集団のリーダーらしき人物が吉野に向かって話していた。一方の吉野は他の人に殴られたり蹴られたりして言葉を返せずにいる。
「お前のせいで、俺はずっと苦虫を噛み潰した思いをしてきた。高校に入っても足は完治しない。あの時のスライディングがなければ、俺は今もサッカーを続けられたんだ」
言い残すと吉野を思いっきり蹴とばした。吉野は痛みで顔が歪んでいたが、ただ話を聞いているだけで何もしようとしなかった。
「どうして、吉野は何もしないんだ。玲愛、俺は警察を呼んでくる。だから」
「警察なんて呼ぶんじゃねぇ!」
玲愛の言葉に煌太は一瞬怯むも、玲愛の発言にどうしても納得が出来なかった。
「だって、このままじゃ吉野は確実にやられる。誰か大人の人を呼ばないと大変なことになる。玲愛だってわかってるだろ」
玲愛は何も言わずにただ吉野の方を眺めていた。しかし、玲愛の表情はいつもと違い、怒りに満ちた表情をしていた。
吉野の声が聞えたのはその時だった。
「平野……確かに中学最後の試合で、俺は危険を顧みずお前にタックルをした。でも決して怪我をさせるためにしたわけじゃないんだ……ただ、俺だって勝ちたかった。チームとして。同じ中学でも違うシニア所属だったから戦うことになっただけで、本当はお前と一緒のチームで試合をしたかったんだ」
「うっせえ」
吉野の振り絞る声が平野の蹴りにかき消される。
「きれいごとばっかり言ってるんじゃねぇ。俺が怪我をした事実は変わらねぇんだよ」
平野の叫びは煌太の胸に重く響いた。好きで怪我をしたわけではない。記憶喪失だって好きでなったわけではない。起こってしまった結果は取り戻すことが出来ない。
傷ついた体を抑えながら、吉野は振り絞るように声を出し決定的なことを言い放った。
「だったら、どうして平野の大切な足で俺を蹴るんだよ。平野はサッカーが好きじゃなかったのか。もう一度サッカーやるんだろ。だったら、大切な足を傷つけるんじゃねぇよ。俺ともう一度真剣勝負しようぜ。お願いだから……もうやめてくれ」
吉野のありったけの思いが響いたのか、平野の目から涙が流れ落ちていた。平野の目が充血している。
一瞬、平野は固まっていたが次の瞬間『うっせえ、黙れ』と言いながら吉野に殴りかかる。
「やめろ!」
思わず声に出して叫んでしまった煌太だが、放たれた声は止めることができない。
手遅れだった。もっと早く吉野のもとへ行ってやれれば。もっと早くこの場から離れていればどうにかできたかもしれない。
自らの過ちに怒りを覚えた煌太は、瞬時に起こった光景に驚愕する。先程まで隣で戦況を眺めつづけていた玲愛がいつの間にか平野の隣にいた。そして、平野の顔面に蹴りを放っていた。
鈍い音とともに平野は道路に倒れる。いつもおとなしい玲愛が蹴りで相手を吹っ飛ばすなんて思ってもみなかった。煌太は目の前の現実にただただ驚くことしかできなかった。
「平野さん! てめぇ、何しやがる」
平野の連れの人達が玲愛に襲い掛かるが、玲愛は華麗に避けると鋭い右ストレートを全員にくりだし、見事倒してしまった。
圧巻だったのは煌太より小さな体から出る拳の勢いだ。まるで石でも入っているんじゃないかと思わせるくらいの重い右ストレート。一瞬で五人が道路に突っ伏してしまった。
玲愛は何事もなかったかのように吉野に駆け寄ると、傷の具合を確かめていた。少し額を切っていたが大事には至ってないみたいだ。
吉野の無事を確認した玲愛は、平野達が転がる道路を眺め、吐き捨てるように言った。
「あなたたち、ごみ虫以下ね。吉野君はあなたにどれだけの思いをぶつけたと思っているの。中学で何があったかはわからないけど、少なくともお互いライバル関係だったのでは? お互い切磋琢磨できる相手なのに自分が怪我をしたからって……腹いせのつもりなの? 甘ったれるんじゃないよ!」
いつもは無口な玲愛が言うような言葉とは思えなかった。煌太は開いた口が塞がらない。
玲愛がすぐに助け出さずにじっとこらえていた理由が今になってわかった気がした。吉野の本音を平野にぶつけてほしかったからじゃないかと。実際、吉野は平野に対して本音を言っていたと思う。玲愛はそこまで計算してこの場を作ったのかもしれない。
「てめぇ、女だからって調子のってんじゃねぇぞ」
「おい加藤。辞めろ。もういい、行くぞ」
玲愛に殴りかかろうとした平野の連れの一人である加藤の手が止まる。平野を一瞥した加藤は吐き捨てるように悔しさを吐露する。
「くそ、覚えてろ」
その場から逃げるように平野達は去って行った。先程まで騒がしかった駅裏通りにいつもの静寂が訪れる。
「ありがとう、赤星。それに、黒瀬さん……だっけ?」
「どうしたんだよ吉野。いつからこんな目に遭っていたんだ」
煌太の勢いに押され、少しはにかんだ吉野はゆっくりと話し始めた。
「高校入学当初から……かな。さっきの話を聞いていたのならわかったと思うけど、平野と俺は中学が一緒で良きライバルだった。でも、シニアの練習試合の際、俺のスライディングのせいで平野が怪我をしてさ……一年以上まともにサッカーができない体になっちまったんだよ。平野は俺が高校でもサッカーをするのが許せなかったんだと思う。最近、平野と会うたびに何かといちゃもんつけられてたからさ。平野にあそこまで殴られたのは今回が初めてだけど」
ボロボロの体を引きずりながら何とかして立とうとする吉野を、煌太は支えてやることしかできなかった。そんな自分に無力感を覚えた。
「それより、黒瀬さんは凄いね。小さい体で平野に挑むなんて。全く大した人だよ」
「私は見過ごしたくなかっただけ。無責任な人を許せなかっただけだから」
静かに玲愛は呟くと、その場を去っていく。
「玲愛。ちょっと待てよ」
「行ってあげなよ、赤星。俺はもう少し、ここで休んで行くからさ」
吉野は煌太の背中を押す。吉野は心も体もイケメンだった。少しでも平野に同情しようとした自分が哀れに思えた。
「ごめん、吉野。お前も早くこの場から離れろよ」
煌太は呟くと、先にこの場を離れた玲愛の後を追った。
十八時を過ぎ、駅前は部活帰りの星屑高校の生徒が一気に増え始めた。玲愛は先程入った喫茶店にいた。よく来ているお気に入りの店なのか、先程と同じ席に着きいつも教室で広げているノートに何か書いている。
煌太は玲愛の目の前に座った。しかし、当然のように玲愛は気づく素振りも見せない。暫く待っているとシャープペンを置いた玲愛がようやく口を開いた。
「どうだった?」
「どうだったって……」
「私の部活、わかった?」
「部活って……訳がわからないよ。今のはたまたま吉野を見かけて、吉野の危機を救っただけなんじゃないの?」
「それが偶然じゃなく、必然だったら」
「え?」
玲愛は手を挙げて店員にコーヒーを頼む。店員が顔を向けてきたので煌太も同じものを頼んだ。玲愛の行っている部活が何なのかさっぱりわからない煌太は、戸惑いながらも玲愛に質問を続けた。
「必然ってことは、吉野に今日何が起こるかわかっていたってこと?」
「そうかもしれないわね」
「玲愛は、未来を予知することでもできるの?」
「それは違うわ」
「なら、今回の事は必然でいい。どうして放課後の教室に毎日残っているのさ? これも玲愛にとっては必然なのか?」
「…………」
玲愛は何も答えようとはしなかった。その後、放課後に教室に残っている理由についてあらゆる手段で問いただしてみたが、玲愛は一切口を割ることはなかった。
ただ一つわかったことは、コーヒーにシュガースティックを五本も投入するくらい玲愛が異常な甘党だということくらいだった。
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