第3話 玲愛と奏
星屑高校に入学してから一ヶ月半が過ぎた。この頃になると、見知らぬ関係だった生徒達が少しずつ仲の良い友人を見つけ出す。そんなクラス内では既にグループができ始めていた。生徒の一人である煌太も教室で話す程度の友人はいた。
「おっと、そろそろ部活の時間だぜ。俺はもう行くわ」
「あ、俺も行く」
「俺も、じゃあな赤星」
話していた友人たちは各々の部活へと向かっていった。皆を見送ると思わずため息が出る。
「部活か……」
入学式以来、大勢の人混みの中で過ごすと頭痛がして気分が悪くなることから医院長先生はじめ、山本先生からも一旦部活に入部するのを阻止させられていた。
「帰ろう」
特にやることもなかった煌太は席を立ち、クラスメイトの喧騒が残る教室を後にした。
ほとんどの生徒が部活動に参加しているため、放課後から部活動開始までの間は生徒達の声で学校中が彩られる。また、HR棟の教室のほとんどは部活動に使われないが、運動部の着替え等には使われることがある。部室を有意義に使用できない一年生のほとんどは、教室で着替えてから部活に行くのがルーツとなっているらしい。
HR棟一階から下駄箱に向かうと、先程までの喧騒が嘘のように静寂に満ちていた。
「今帰り?」
下駄箱で靴に履き替えようとしていた時、聞き覚えのある声に動きを止められる。白衣を纏い、相変わらずのスタイルを維持する山本先生だった。
「そうですけど、何か用ですか?」
「煌太君を見かけたから声をかけただけと言ったら悪いかしら」
「いや、悪くはないですけど。先生はそんなに暇なんですか?」
「私が暇に見えるかしら? 部活動が盛んな星屑高校。当然、運動部のレギュラー争いも激しくて怪我をする人が後をたたない。必然的に私の出番が増えるのはわかるでしょ?」
「まあ、わかりますけど……」
白衣を翻して格好つける山本先生を見て、煌太は思わず苦笑する。
「ところで、最近の調子はどう?」
先程とは打って変わり、山本先生が真剣な眼差しを煌太に向けてくる。
「問題ないと思います……ただ」
「ただ?」
「普通の高校生活を送れているのかどうか、まだわからなくて」
勉学に勤しみ、部活に励むこと。もちろん友達作りや恋人作りをすることも高校生活に欠かせない。
自分なりの普通を求めて、煌太はこの一ヶ月間を過ごしてきた。しかし、現状は部活にも入っていないし、恋愛もまだ。気になる子は一人いたけど話せずじまい。至らぬ点はまだ多い。
「わからなくて当然だと思うわ」
「そうですか?」
「たった一ヶ月でわかる高校生はいるわけないわ。皆、煌太君と同じ気持ちなんじゃないかな。高校生活なんてこんなもんかって思っている人がほとんどじゃないかしら」
山本先生の言葉は一見、軽く言っているように聞こえたが煌太の心にズドンと響いた。とても重みのある言葉だった。やはり高校生活を経験している人が語ると言葉の重みが違う。
「考えすぎなのよ。普通の高校生はそんなこと考えないわ。もっと、何事にも全力で取り組んで、全力で楽しむ。それが高校生よ」
煌太に諭すように山本先生は答える。
「そうですよね。先生、ありがとうございます。俺、少し考えすぎだったと気づけました」
正直、周りの友人が部活動に行く姿を見てどこか嫉妬していた。部活動に参加するのが当たり前の星屑高校で、未だ帰宅部の自分に普通の高校生を感じなかった。それがとても情けなくて。怖くて。無理に普通を追い求めすぎていた。でも、もう大丈夫。目の前にはこんなに頼れる先生が……。
したり顔があからさまに表情に出ている山本先生を見て、数秒前に思ったことを取り消したくなった。やはり、自分で何とかしなくては。
「まぁ、高校生は悩むことで成長していくと思うわ。それじゃ、また何かあったら声かけてね。煌太君」
言い終えると、再度白衣を翻して特別棟の方へ向かっていった。山本先生は少し酔狂なところがある気がする。でも、たまに素晴らしいことを言ってくれる人だ。これからもお世話になることが多いはず。煌太は去りゆく山本先生が見えなくなるまで見送った。
山本先生がいなくなるころには各部活動の始まる時間になっていた。そのため、先程までちらほらと見えていた生徒達は、忽然と姿を消したかのようにいなくなった。静けさに浸りながら帰ろうと思った煌太は下駄箱の靴に手を掛ける。
「あっ」
不意に煌太の口から声が漏れる。決して大きな声ではなかったが、静まり返った昇降口に木霊する。周りに誰もいないことを確認すると取り出しかけた靴を戻し、再び上履きに履き替える。煌太は渋々教室へと戻った。
先程まではクラスメイトの喧騒で満ち溢れていた教室も静寂に包まれていた。煌太は自クラス、一年二組のドアを開ける。
誰もいないと思っていたはずなのに、教室には一人の女子がいた。以前も似たようなことがあった気がすると思った煌太は、曖昧な記憶をとりあえず棚に上げ、机の中に忘れていったノートを取り出して鞄にしまう。忘れ物がないことを確認してから教室を出ようとした瞬間、もやもやしていた記憶が一気によみがえった。
入学式の日、教室に残っていた黒髪の女子。艶のある髪は以前と変わらず、夕日を反射する程の綺麗さを保っており、海馬を刺激するには十分だった。
「黒瀬さんだよね?」
気づいた時には話しかけていた。机に向かい、ひたすらノートに何か書きなぐっている黒瀬さんは以前と同様、煌太の存在に気づいていないのか無反応だった。
どうにかして気付いてほしいと思った煌太は、黒瀬さんの机に向かう。机の前まで来たのにもかかわらず、黒瀬さんは気づかないのか下を向いたままだった。
「黒瀬さん? 黒瀬さーん」
煌太はむきになり暫くの間、黒瀬さんの名を呼び続ける。しかし、一向に気づく素振りを見せてくれない。
もういいや。そのまま教室を出ようとしたとき、後ろから憂いを帯びた声が聞こえた。
「いつからそこに?」
「さっきからいたんですけど……」
振り向きざまに黒瀬さんに答えた。何回も呼んだのにと苛立ちを覚えた煌太は、黒瀬さんを睨み付ける。一方の黒瀬さんは煌太の視線を意に介さず、話を続けた。
「どうして教室に?」
「いや、教室にノートを忘れたから取りに来ただけで。ほら、テストも近いし」
黒瀬さんの質問の意図が、煌太には読み取ることができなかった。そもそもこのクラスは自分のクラスでもある。いくら黒瀬さんが先に教室にいようが、自分がいてはいけない理由にはならないと思う。
「ふーん。それで、あなたは私に何か用があるから話しかけたのよね」
「ま、まあ、そうだけど」
黒瀬さんの突き刺さる視線に一瞬、体が硬直した。いつも机と睨めっこしている黒瀬さんしか見たことがなかったけど、初めて見た黒瀬さんは想像通りとても美しかった。
大きな瞳とスッと通った鼻筋が整った顔立ちをつくっている。肌は白く、手も小さい。さらにその美しさを黒瀬さんの一番の特徴ともいうべき黒髪が引き立たせる。ぜひとも冬のゲレンデに連れていきたいと煌太は思った。
「黒瀬さんは放課後に残っているのをよく見かけるけど、何かしているの?」
「何もしてない。あなたに答える義務はないと思う」
はぐらかす黒瀬さんに煌太は食らいつく。
「入学式の事は覚えていないかもしれないけど、その時にも黒瀬さんを教室で見かけたんだ。放課後に残る意味って、何かあるのかなと思って」
「なんでそんなに気になるの?」
「黒瀨さんは、入学以来ずっと一人で行動してると思ったから」
黒瀬さんと出会ってから今日まで、同級生と話したところを煌太は見たことがなかった。まるでクラス全員が黒瀬さんなんかいないように扱っている。そんな雰囲気がクラス中に漂っている気がした。
「そうね。私はいつも一人。でも、一人が好きなの」
まるで一人だけ別の世界を見ているような雰囲気を醸し出す黒瀬さん。明らかに周囲の人達との違いに煌太はどこか惹かれていた。
「あなたの名前は何?」
「赤星。赤星煌太だけど」
「こうた……そう」
煌太の名前を聞くと、黒瀬さんは考える素振りを見せながらノートに何か書き始めた。
「何書いているの?」
「あなたの名前。一応、私が聞きたくて聞いたことなのに忘れてしまったら元も子もないから」
案外、黒瀬さんは真面目な性格なのかもしれない。
黄昏時が近づき、茜色に染まっていた教室が徐々に漆黒の闇に包まれる。黒瀬さんに少しは近づけた気がした煌太は浮足立った気持ちになっていた。
「黒瀨さんの下の名前、教えてよ」
気持ちが先走ったのか、気になったことが口から放たれる。
握り続けていたシャープペンを机に置いた黒瀬さんは、煌太に視線を向ける。
「れあ」
「レア?」
珍しい名前なのか? 黒瀬さんは冗談を言う人だっけ? それなら先程思った真面目のイメージを変えなくてはいけない。
「黒瀨さん。冗談を言われても困るんだけど」
苦笑しながら答えると、黒瀬さんは無言のままノートに何か書いていた。書き終えると、煌太の顔に向けノートを突きだす。そこには『玲愛』と書かれていた。
「玲愛……れあ! そういうことか」
ようやく黒瀬さんの言いたいことに気づいた煌太は、何度も頭の中で反芻する。
「あなた、おかしな人ね」
黒瀬さんの言葉に煌太は驚く。どう考えても黒瀬さんの方がおかしいと思っていたから。
「いや……黒瀬さんの名前を知れて嬉しいよ。玲愛か……珍しい名前だよね」
微笑しながら話す煌太のことを冷たい視線で黒瀬さんが睨み付けてくる。明らかに煌太を軽蔑する視線だった。
「やっぱりあなた……おかしな人ね」
黒瀬さんの大きな瞳に見つめられ、煌太の身は再び硬直する。まるで何かに囚われているような気分だった。
「でも、あなたはおかしな他の人とは違うみたい」
「え?」
「うん。そうみたい」
何かを確信したのか黒瀬さんは頷くと、クスクスと笑った。長い黒髪が双眸を隠しているせいか、とても不気味な笑いだった。
「おかしいって、何がおかしいのか理解できないんだけど……」
疑問が残る煌太を見つめる黒瀬さんは、双眸にかかった髪を右手でかきあげると煌太に答えた。
「明日、放課後に教室で待ってる。知りたければ来て」
さらりと告げると、思いついたかのように黒瀬さんは続けて話す。
「あと、私のことは玲愛でいいから」
黒瀬さんの発言に煌太は虚をつかれた。
黒瀬さんから名前呼びの許可が下りるとは思ってもみなかった。聞きたかったこと、知りたかったことが一気に胸の内まで吸い込まれていく。
黒瀬さんは淡々と言い放つと再びノートと睨めっこを始めてしまった。こうなると黒瀬さんに何を話そうと気づいてもらえない。煌太は胸中に残る蟠りを拭えないまま、教室を後にした。
教室での出来事は煌太の気持ちを大きく揺さぶった。学校からの帰り道でも黒瀬さんのことが頭から離れなかった。それもそのはず、今まで口も聞いてくれなかった黒瀬さんが話しかけてくれたのだから。
入学式の際、教室で見た黒瀬さんに特別なものを感じた。初めて見た黒瀬さんの姿が目に焼き付いて脳裏から離れない。黒瀬さんに対する興味が徐々に膨らんでいるのを感じる。
そして、今日。話すことのなかった黒瀬さんと会話することに成功した。しかも、名前呼びを許可してくれた。もしかすると黒瀬さんは自分に興味を持ってくれたのかも。
いや、黒瀬さんは名前呼びくらい誰にでも許可するような人かもしれない。黒瀬さんが他人と話したところなんて見たことないけど。
もっと黒瀬さんのことを知りたい。
あれ、そういえばどうして黒瀬さんの事ばかり考えているのかな?
これって、恋……なのか?
「何考えてるの?」
帰り道。上の空で夜道を歩いていたせいか、突然目の前に現れた人物に煌太は驚いた。しかし、すぐに知っている人物だと気づき、安堵する。
「奏か。驚かせるなよ」
「上を向きながら歩いてるこうちゃんがいけないんでしょ。また事故にでもあったらどうするの」
「……ごめん」
煌太は口を結び、奏に心配をかけてしまったことを後悔した。
「あっ……私の方こそごめんね。こうちゃんの気持ちも考えないで」
お互い視線を合わすことができない。気まずい空気が二人の周りに漂い始める。そんな空気を断ち切るように奏が話し始めた。
「そういえば、今日は遅いんだね。もしかして、念願の部活に入部したのかな?」
「いや……ちょっと教室に忘れ物してさ、そこで友人に会って話混んじゃって」
今日、初めて下の名前を知った黒瀬さんを友人と言ってしまった。黒瀬さんには友人と思われてないかもしれないのに。煌太は顔が引きつる。
「友人って、私たちの学校はほとんどの生徒が部活動に入ってるんだよ。放課後に教室に残っている人なんていないんじゃないの?」
的確な指摘に煌太の顔はさらに引きつる。
「実は……廊下で神林に会ったんだ。あいつも部活があるって言ってたけど、今日はサボるから話そうぜってなったんだ」
神林は野球部に入部したと聞いていた。奏は文芸部に入部を決めたと以前言っていた。だから、鉢合わせすることもないだろう。そう思って言い切ったが、奏は煌太が話出してからすぐに顔を下に向け、小刻みに体を震わせていた。
奏の様子がおかしいのに気づいた煌太は奏に手を伸ばしたが、嫌うようにふり払われる。
「神林君……今日野球部にいたんだけど。私、こうちゃんに言ってなかったかもしれないけど野球部のマネージャーを週一でやることを決めて、今日がその日だったの」
声を震わせながら奏が話すのを聞き、体から血の気が一気に引いた。奏に嘘偽りを見抜かれてしまった。
「ごめん……嘘ついた」
「こうちゃん……何で嘘ついたの? 私に隠し事してるの?」
奏の声が徐々にかすれていく。今にも壊れてしまいそうなガラスの顔を晒していた。
「隠し事なんかしてない。忘れ物したのは事実だし、教室にノート取りに行ったのも事実」
「それなら、神林君と会ったなんて何で言ったの? ノート取りに行ったって言えばよかったでしょ。絶対に何か隠してるよ」
普段の奏なら、おしとやかに振る舞ってこんな些細なことを気にする素振りも見せないのに、明らかに今日はおかしかった。何故か突っかかってくる。いつもと違う奏に煌太は動揺を隠せずにいたが、自分が悪いため何も言い返せない。放課後に黒瀬さんと会ったことを素直に言えば良いのかもしれない。しかし、入学式の際に見た奏の表情が頭から離れなかった。ここで黒瀬さんと言ってしまったら、奏の表情がさらに壊れていく気がする。
「ごめん」
ただひたすら謝るしか術がなかった。重い空気の塊が一気に襲いかかってくるような気がした。体がいつも以上に重く、悲鳴を上げている気がする。
「もう、嘘なんてつかないで。私、こうちゃんのこと……心配だから」
奏は今まで我慢していたのか両目から大粒の涙を流した。目の前で泣いている奏に対して何もできない煌太は自分自身にもどかしさを感じる。
過去の自分はこんなに情けない人間だったのだろうか。幼馴染でいつも一緒だった奏の気持ちも理解できない人間だったのだろうか。少なくとも今の自分を変えるには自らの殻を打ち破らないといけないことだけはわかる。言うべき時なのかもしれない。記憶喪失の事を。
「…………わかった。奏には、もう嘘はつかない」
半信半疑な気持ちで煌太は述べる。結局、自分に降りかかっている症状について何も打ち明けることができなかった。煌太は発した言葉にひどく後悔を覚えた。奏に嘘はこれ以上つけない。ただ、記憶喪失だけは許してほしい。
双眸を両手で覆ったまま奏はゆっくりと頷いた。後ろを向き、涙を拭った奏は『帰ろう』と言うと、笑顔を見せ煌太に手を伸ばしてくる。煌太は奏の手を取り歩き出した。
先程発した言葉に、煌太は後ろ髪を引かれる思いを募らせながら奏と夜道に消えていった。
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