世界を観る者
1-1
通学途中の電車も二年目となれば飽き飽きしてくる。
あぁ、電車通学。昔は憧れたが、今は面倒くさい事この上ない。
唐突に、携帯の着信音が聞こえた。
僕ではない。
携帯は向かいのおばさんの手元で震えていた。
それにしても、この曲は聴いたことがある。いや、ないほうがおかしいか。マナー違反の着信音、それは某国民的あんパンのテーマソングだ。
『何のために生まれて、何をして生きるのか』
あんパンのテーマが僕の頭の中をくるくるとリズミカルに巡っている。
深い……深いというか、小さい頃には気にしなかったその歌詞の意味を理解できるようになっただけか。
何のために生まれたのか、確かに難しい疑問だ。しかし、何をして生きるのか、少なくともそれは僕にとって簡単な問いだ。
見る。
ただただ、見る。
僕は見るために生きている。
少しでも多くの世界を、一つでも多くの『物語り』を見るために。
だから、正面でバツが悪そうに電話に出るおばさんや、啓発本の表紙に隠してラノベを読む隣のサラリーマン、やたらキャピキャピと群れて騒いでいる女子高生なんてどうでもいい。
或いは、この思考さえどうでもいいのかもしれない。
いや、はっきりと言って邪魔だ。
僕が今考えるべきは手元の本。その『物語り』の事だけでいいのだ。
どちらかというと、生きる事自体が読む事の、見る事の邪魔になっている節がある。しかし、生きていなければ読む事ができない……難しい……
仕方ない、あまり考えすぎは良くない。
少なくとも、読んでいる間はダメだろう。
軽く深呼吸して周りから意識を遠ざける。
すぅっと音が遠くなる。
やがて、音が消えた。
これで集中できる。あと数十ページだ、着くまでに読み切ってしまおう。
▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△
読み切ってしまおうなどと軽々しく思ったが、まさか本当に最後まで読み切れるとは思わなかった。
本は読む方ではあるが、早い方ではないので正直電車を降りてホームで読んでから行けばいいと思っていたのだが、電車はまだ目的の駅についていなかった。
いや、目的地どころではない。一つ前でも、二つ前の駅にもついていない。
二年も通って覚えたこの車窓の景色が、僕にここがまだ目的の駅まで半分を少し超えたところだと告げていた。
いや、それだけではない。
「これは……停まってる……?」
景色が流れない。
見間違いでも何でもない、近くの鉄塔も、遠くの山も、一ミリたりとも動かない。
違う。
景色だけじゃない。
僕の周りにいる人も、物も、全てが動きを止めている。
尋常ではない。
正面のおばさんは微妙な口の開け方をしながら静止し、隣のサラリーマンはどれだけ経っても本のページをめくらない。かしましかった女子高生も、爆笑した姿勢のまま動きを止めている。
時間という概念が消え去ったかのように何も動かない。
恐る恐る吊り革に触れてみた。
質感はそのままだが、どれだけ引っ張ってもピクリとも動かない。
いや、確かに運動部でも何でもない僕の全力なんてたかが知れているが、それにしても吊り革ひとつ揺らせないなんてそんなことは天地がひっくり返ってもあるはずがない。
あぁ、天地はひっくり返ってないが、時間は止まっているんだっけ?
ともかく、これは異常事態なんてレベルをはるかに逸脱している。
天地がひっくり返る事のほうがまだ理解できるというものだ。
適当に引力と斥力のバランスが何かしらの拍子で崩れたとか……いや、こんなの科学など高校生レベル、それも下から数えたほうが早いレベルの知識だから、言えることではあるのだが。
少なくとも、時間が止まる。それも自分以外だけ、というのはそれこそ今まで読んできたような『物語り』の中での話である。
ある意味、そこで読んだ事があるからこうして冷静とは言えなくとも理性を保っていられるのだろう。
しかし、何というか――――
「無茶苦茶だなぁ」
ここまでくるとそうとしか言えない。
いや、自分でもそんなこと言ってる場合じゃないとは思うのだが、いかんせん僕には時間が止まるというような特殊な状況に陥った経験がない。当たり前だが。
『物語り』ならば、まだ何とかなるだろうが、現実にこんな事が起きてしまってはもうどうにもならない。
お手上げだ。
青少年の有り余る衝動の捌け口となる漫画などならば、ここからソウイウ展開に持っていくのだろうが、よく考えるまでもなく、吊り革の件で実証されたように、おそらく僕以外のモノは一ミリたりとも動かないだろう。
よく見てみればシートにしたって、僕の重みで凹んでいた部分が元に戻っていない。
質感は同じなのだから全くできないわけではないだろうが、この状況がいつ解除されるかわからない時点でそんな危ない橋は渡りたくない。
というか、このパニックの状態で今はそれどころじゃない。
ともかく、今はどうするべきかに脳を使おう。
そして、しばらく考えてみた。
それはもう、足りない頭を総動員して考えてはみた。
その結果としてたどり着いたのが、もうこれでいいんじゃないかという半ば諦めの境地だ。
しかし、諦めと言っても、この環境自体は僕には何の不利にも働かない……と、思う。
二つの条件さえクリアして仕舞えば、僕にとって、この静かな環境はそこまでの苦痛にはならない。
その二つの条件というのは、
一つ目、腹が減ったり喉が乾くかどうか。
二つ目、生理的現象……まぁぶっちゃけトイレにはいかなくていいのかどうか。
時間が関係するならどちらも心配なさそうなものだけれど、僕だけ動けているのだから、僕にはしっかり時間の影響が流れている……なんてことになっていたら困る。
が、そのどちらも今すぐには検証できない。
「はぁぁ……」
盛大にため息が漏れる。
仕方ない、暫くは持ってきていた別の本を読んで時間を潰そう。
……ん?待てよ。いやいや、少し落ち着くんだ僕。今ちらっと頭に浮かんだ言葉をしっかり反芻して思考しろ。
「これ、鞄から本とり出せる?」
いやいやいやいや、そんな筈はない。僕は結構クールな奴だろ、うん一回落ち着け。
まずは確認。
鞄はある。
この異変の前と同じく、座席の足元に置いてある。
ではチャックは?
開いて……いない!
いや、まだチャンスはある!僕自身が動けるように、僕の所有物は時間の停止と関係なく動かせる可能性がないこともない。
現に今も手に持っている本はページをめくれる。鞄も開けれるはずだ。
恐る恐るチャックをつまんで……引く!
いや、分かっていた。チャックに触れた瞬間「あ、これダメな奴だわ」って直感したさ。あんなぴくりとも動かないチャックがあるはずないのだから……
だがしかし!ここで諦めるわけにはいかない。このチャック一つに、僕のこれからがかかっているのだから!
もう一度、さっきよりも慎重にチャックをつまむ。
深呼吸。心を落ち着かせるんだ……
「なんどやっても無駄だと思いますよ」
そんなことは分かってる、他人に言われるまでもないことだ。
「いえ、どうしても開けなきゃいけないんです……え⁉︎」
驚いた。
驚かないわけがなかった。
僕以外全員の時が止まっていると思っていた矢先、他人に声をかけられるとは微塵も予想していなかったのだから。
恐る恐る、声のした背後を振り返る。
前言撤回である。
僕の予想は微塵も外れてなどいなかった。
すなわち、僕以外の全ての人が動きを止めていた。
そこにいたのは、そう――――
「
天使だった。
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