第2話 誕生、バクテリオン!

 ひろは、小さくてカラフルな服の森の中にいた。彼の前ではヌメリと富子とみこが、もうかれこれ三十分ほど、ハンガーに掛かったままのスカートやらワンピースやらを、楽しげにとっかえひっかえしている。浩はこっそりため息を吐き、「どうしてこうなった」と呟いた。

 ここは、浩たちが住むマンションからほど近い場所にある、ショッピングモールの二階で、ガールズ服を専門に取り扱うテナントだった。彼らがここにいるのには、もちろん理由がある。


「こんな、裸同然の格好はよくないわ」

 浩の部屋に上がり込み、どう言うわけかヌメリとすっかり意気投合した富子は、突然そんなことを言い出した。

「でも私には、お兄さんをエロエロでめろめろにする使命があるんです。それなら、露出が多い方がいいですよね?」

「あら、着たままの方が好きって人もいるわよ?」

 富子の指摘に、ヌメリは息を飲んだ。

「着衣エロか!」

「知っているのか、ヌメリ」

「うむ。かつて始皇帝が治める中国では……」

 おまえら本当は何歳だと言うツッコミを、浩は賢明にも飲み込んだ。

「と言うワケで、お兄さん。服買いに行きましょう、服」

 でたらめなうんちくを話し終えたヌメリは、浩の腕を引っ張ってガクガク揺さぶった。

「その格好じゃ外出は無理だろう。俺が適当に買ってきてやるから、家で留守番してろ」

「服を買いに行く服がない……」

 ヌメリはしょんぼりうなだれた。

「ヒロくんに何か借りたら?」

 富子は勝手に簞笥を開けて、中を物色し始めた。

「ちょっと、あんた何やってるんですか。て言うかヒロくんて何なんですか。確か、大学生って言ってましたよね。俺の方が、ずっと年上ですよね?」

「ジーンズなら、裾を折って穿けばなんとかなりそうね。あら、ハンチングとサングラスがあるわ。これも借りましょう。ヌメリちゃんの髪と目って、ちょっと人間離れしてるし」

 富子は浩の抗議を無視して、発掘品をてきぱきとヌメリに着せて行く。ものの数分で、ヌメリはひとまず人前に出ても、怪しまれない格好になった。

「それじゃあ、行きましょうか?」

 富子はにっこり笑って言った。否やは聞き入れらないと直感した浩は、渋々頷いた。


とは言え、ヌメリと富子を連れてきたのは正解だった。大の男が一人でガールズ服を物色して歩く姿は、おそらく誰が見ても不審でしかない。それにくらべれば、三十分や四十分立ちっぱなしでいる苦労の方が、ずっとましと言うものだ。

 ようやく動きがあった。いくつかの服を持ったヌメリが、試着室へいそいそと入る。しばらく経って試着室のカーテンをずらし、中を覗き込んだ富子が「ヒロくん」と手招きして呼ばわった。

「なんですか。ネズミを捕まえた猫みたいな顔してますよ?」

「いいから、こっち」

 富子は浩を試着室の前に立たせた。

「これ、どうかしら?」

 富子は試着室のカーテンを開いた。丸つばの白い帽子にタンクトップの白いワンピース。足元はリボンが付いた淡いグリーンのサンダル。どれもヌメリの褐色の肌に、よく映えた。

「悪くないですね」

 浩の言葉を聞いて、ヌメリはぱっと笑顔を閃かせ、それから恥ずかしそうに顔を伏せた。お下劣なことばかり言っていた少女なのに、こんな顔も見せるのかと浩が驚きにひたっていると、彼女は笑みを浮かべてこう言った。

「ムラムラ来ました?」

 一瞬でもときめいた自分が腹立たしかった。

「それは無い」

 浩が言うと、なぜか富子が舌打ちした。

「何なんですか?」

「がっかりしたのよ」

 富子は不機嫌そうに言った。一体、この女性ひとは、俺をどうしたいんだと浩は訝った。彼女にはヌメリの言う地球の危機のことも、そしてヌメリが企てた例の作戦のことも告げてあるのだ。

「いいんですよ、お姉さん」ヌメリは寛大にも言った。「私にはもう、攻略ルートが見えてます」

「どう言うこと?」

 富子は首を傾げた。

「こいつはツンデレです!」

 ヌメリは人差し指を浩に突き付けた。

「気のない素振りは、内心のデレを隠すためのツンってことね」

 富子は勝手に納得して頷いた。浩は、頭痛がぶり返すのを感じた。

「もう、それでいいから、さっさと会計しましょう。来い、ヌメリ」

 レジへ向かうと、後からヌメリが素直についてきた。店員に、このまま着て帰る旨を告げると、彼女は少し訝しげな顔をしながらもヌメリの服から手際よくタグを切り、レジに並べ、バーコードを読み取っていく。ほどなくして、店員はぎょっとするような値段を告げた。浩はクレジットカードを出しながら、しばらく夕食はキャベツともやしの世話になりそうだと、こっそりため息をついた。

「なるほどね」

 と、富子が意味深に呟いた。

「何か?」

 浩は聞き返してから、店員に頼んで紙袋をもらい、ヌメリが着てきたものを詰め込んだ。

「なんでもないわ。それより、この後だけど、みんなで食事でもどうかしら。せっかくの日曜日なんですもの、このまま家へ帰るのももったいないでしょう?」

「日曜日?」

 浩はぎくりとして聞き返した。連勤が続いていたせいで、曜日感覚がすっかり無くなったいたのだ。しかし、携帯の画面を見れば、その通りだと気付く。店長はヒマだと言ったが、そんなわけがない。彼の勤め先は休日こそ忙しくなるのだ。

「ちょっと用事が出来ました」

 浩はそわそわして言った。

「あら、私のおごりなのに断るの?」

 同じマンションの住人とは言え、初対面で年上の男に食事をおごろうなど、なにを企んでいるのだろう。

「一応、言っておくけど」

 浩の不審に気付いたのか、富子は付け加えた。

「ヌメリちゃんの服は、私が買ってあげるつもりだったの。でも、あなたが自分で払ってしまったから、これはそのお返し。深い意味はないから勘違いしないでちょうだい」

「えーと、ツンデレですか?」

 浩は一応、聞いてみた。

「そう聞こえた?」

「いえ、何か裏の裏があるんじゃないかと、勘繰りたくなりました」

「そう。意外に難しいのね」

 富子は考え込み、少し間を置いてから顔を上げた。

「それで、どうするの?」 

「別に、口実を作って避けたり遠慮したりしているわじゃありませんよ。実を言うと、ヌメリの騒ぎがあったせいで、今日は無理を言って休みをもらったんです。たぶん、今頃は人手が足りなくて、てんてこまいしてるだろうから、ちょっと手伝いに行こうかと思って。せっかくのお誘いで申し訳ないんですが」

 浩は頭を下げ、それからふと思い付いた。

「申し訳ないついでに、ヌメリの相手をお願いしていいですか。どうも、あなたに懐いているみたいだし、仕事が済んだら、お宅まで迎えに行きますから」

 すると、富子はまじまじと浩を見てから、不意に笑い出した。

「あなた、すっかりヌメリちゃんの保護者になってるわね。当たり前に服を買ってあげて、独りぼっちにならないように気を配って。気付いてた?」

 まったく気付いてなかった。ふとヌメリを見れば、彼女はしゃがみ込んで店先に並ぶアクセサリ類をためつすがめつしている。

「どうも、放っておけないんですよね。地球の危機がどうとか言うのは今一つピンと来ませんが、そのためにあいつなりに何やら頑張ってるみたいだし、ちょっとくらい手を貸してやってもいいんじゃないかって思えるんです」

「そうね」富子は笑顔で頷く。「あなたの職場は、ここから遠いの?」

「近いですよ。一階にある村井麹店むらいこうじてんって名前のテナントですけど、知ってますか?」

 浩は吹き抜けから下の階へ、ちらりと目を向けて言った。このショッピングモールは建設に当たって地域との融和と言う名分を掲げ、一階には地元商店街にあった顔ぶれが、ほぼそのまま格安の賃貸料で並んで入っていた。村井麹店も、その一つだ。

「お饅頭と甘酒のお店ね。酒種饅頭がとっても美味しいから、私も時々買わせてもらってるわ」

「ありがとうございます」

「でも、お店にはいつも、可愛らしいおば様が一人しかいないみたいだけど?」

「それは店長ですね。俺が店に立つのは日中だけで、夕方からは本店で仕込みをやってるんです」

 その時、下の階から爆発音が響き、エントランスホールの辺りで埃が舞った。びりびりと周囲の空気が振動し、それがおさまると辺りは静寂に包まれた。

「おーほほほっ!」

 高笑いが響いた。埃が晴れ、エントランスホールには、珍妙な格好の女と白いヌリカベのようなものの姿があった。

「さあ、お掃除の時間よ。愚かな地球人たち、覚悟なさい!」

 女が言って身振りで合図すると、白いヌリカベが動き出した。あたりは悲鳴にあふれ、一階にいた人たちは女とヌリカベを背にして一斉に逃げ出した。爆発音を聞きつけ、浩のように吹き抜けの手すりに掴まって下を見下ろしていた人たちも、その様子を見て我先にと走り出す。

清掃員スイーパーと、清掃獣せいそうじゅうです」

 いつの間にか隣にやってきたヌメリが、つま先立ちで手すりから下を覗き込みながら言った。

「清掃獣?」

「はい。さすがの清掃員も、たった七人じゃ甲子園一七〇〇万個も掃除する事なんて出来ませんから、彼らは自分たちの清掃活動を補助するための、擬似生物を作り出す能力を持っているんです。あれは、固形石鹸型清掃獣サボーンです」

「危険なのか?」

「私たちバクテリアには天敵ですが」ヌメリは肩をすくめた。「人間にとっても同じでしょ。あんな爆発を起こせるんですから?」

 浩は一つ毒づいて、下りのエスカレーターへ向かって走った。店が心配だった。店長は無事だろうか。エスカレータのステップに足を踏み出そうとしたところで、ぐいと後ろに引っ張られ、彼はたたらを踏んだ。振り向くと、ヌメリが浩の上着を掴んでいた。彼女は階下を指さした。シャボン玉が一つ飛んできて、エスカレーターの中ほどにぶつかり爆発した。反射的に身をすくめ、煙が晴れてから覗くと、エスカレーターのステップが崩れ、大穴が空いていた。もう、ここからは降りられそうにない。ならば階段だと走り出そうとするが、ヌメリはなおも上着の裾を掴んで放さなかった。浩が抗議しようと口を開き掛け、彼女はそれを遮って言った。

「ただの人間が、清掃員や清掃獣に勝てると思ってるんですか?」

 ヌメリが指さした先で、白いヌリカベがパン屋に向けて爆発するシャボン玉を吐き出していた。爆風に乗って、数本のバゲットがロケットのように吹っ飛ぶのが見えた。

「あなたたち、大丈夫?」

 富子が駆け寄ってきた。浩は富子に頷いて見せてから、ヌメリに向き直った。

「店長を助けに行くだけだ。戦う気はない」

「でも、あいつらはそんなの知ったことじゃないです」

 パン屋を破壊しつくした白いヌリカベは、その隣のチーズ専門店へ向かっていた。このショッピングモールのテナントを、端から順に破壊するつもりだろうか。

「店長さんだって、とっくに逃げてるわよ。私たちも急ぎましょう」

 富子は言うが、浩は首を振った。彼には確信があった。

「あの人のことだから、今頃、自分でひっくり返した蒸篭せいろの下敷きになって、まごまごしているはずです。早く助けに行かないと」

「どれだけドジッなの、その店長さん?」

「相当なドジッ娘です。ヌメリ、ちょっと教えてくれ」

「はい?」

 ヌメリはきょとんとした。

「力を貸せって言ったな。つまり、俺とおまえが力を合わせれば、あいつらをどうにかできるってことか?」

「そりゃあ、できますけどー」

 ヌメリは、あからさまに嫌そうな顔をした。

「なんだ、その顔は?」

「だって、エッチで籠絡ろうらくする前に、そんなノリノリになられると、ちょっと残念と言うかなんと言うか」

「おまえ、目的と手段が入れ替わってないか?」

 再び爆発音が響いた。

「四の五の言ってるヒマはなさそうね」

 富子が先に立ってさっさと歩き始め、結局、三人揃って一階へとやって来た。階段の壁に身を隠しながら様子をうかがうと、清掃獣はチーズ専門店から二軒隣の漬物屋を破壊していた。浩たちが身を潜める階段とは、広い通路を挟んだ向かい側になる。富子が「あそこの糠漬け、美味しいのに」と、ため息をもらす。

 彼らを除いて、フロアに人影は無かった。ショッピングモールの玄関口エントランスを見やると、自動ドアの枠がぐにゃぐにゃに変形し、エントランスホールにはガラスや瓦礫が散乱していた。怪我などをして倒れている人は見当たらないが、もしこの破壊に巻き込まれていれば、ただではすまなかっただろう。玄関口から反対方向に目をやれば、階段から数軒先のテナントを挟んだ先に、「酒種まんじゅう」と白く染め抜いた藍色ののぼりが目に付いた。漬物屋の、ほぼ真向かいだ。

「今なら気付かれずに行けそうだわ」

 飛び出そうとする富子の腕を、浩は慌てて掴んだ。

「田中(たなか)さんは、ここで待っててください。俺とヌメリで行きます」

 しかし、富子は浩の手を振り払った。

「店長さんが中で怪我してたらどうするの。あなたたちだけで連れてこられる?」

 浩は何も言い返せなかった。

「ほら、時間を無駄にしないで」

 浩は頷き、せめて自分がとばかりに先に飛び出した。村井麹店の前にやって来ると、三人は足を止め、中を覗き込んだ。商品棚の上の饅頭はきれいに並んでいるのに、奥の店員が詰めるスペースは崩れた蒸篭や饅頭で、足の踏み場もない有様だった。

「店長!」

 呼びかけると蒸篭が動いて声がした。

「ヒロくん?」

 商品棚を回り込んで店の奥へ入り、蒸篭を除けると、三角巾とエプロンを着けた年配の女性が顔を覗かせる。見たところ、彼女に大きな怪我は無いようだ。

「大丈夫ですか、店長?」

「私は平気。お客さんは?」

「みんな、とっくに逃げてますよ」

「そう、よかった」

 店長はホッとした表情で言ってから、申し訳なさそうに続けた。

「ごめんね、ヒロくん。爆発の音にびっくりして倒れた拍子に、蒸篭をみんな引っくり返しちゃったの。せっかくヒロくんが作ってくれたお饅頭なのに、もったいないことしたわ」

 浩は「気にしてません」と言って店長を引っ張り起こし、店の外へ連れ出した。彼女は少し足を引きずっていた。倒れた時に痛めたのかもしれない。すぐに富子がやってきて、店長に手を貸した。

「あら、ありがとう。あなた、前にお饅頭を買ってくれたお嬢さんね。ひょっとして、ヒロくんの彼女さんだったのかしら?」

「いいえ、ただのご近所さんです」

 富子は笑顔で逡巡もなく答えた。

「そうそう。カノジョは私です、店長さん」

 ヌメリは自信満々に、自分の胸元を親指で指し示した。

「あらまあ」

 店長は笑顔で言った後、浩に目を向けた。

「それじゃあ、ヒロくん逮捕されちゃうわねえ」

「馬鹿なこと言ってないで、さっさと逃げましょう。あいつらに気付かれたら……」

 ふと目を向ければ、珍妙な格好の女もこちらを見ていた。ぷりっとした唇とたれ目が特徴的な、なかなか可愛らしい顔立ちをしている。しかし、明らかにアラサーと呼ばれるような年代で、一昔前のアイドルを思わせる膝上丈で裾の広い銀色のワンピースに、同じく銀色でヒールの高いブーツとは、果たしていかがなものか。ついでに言うと、頭にはアンテナが伸びるカチューシャも着けていた。

「あなたたち、お掃除の邪魔をするつもり?」

 女は不愉快そうな表情を浮かべて言った。清掃獣が、空っぽになった漬物樽を泡だらけにする手を止め振り返る。その姿を見て、浩は白いヌリカベと言う印象を訂正した。円らな瞳は無いが、身体の真ん中にギザギザの歯が生える大きな口があって、国営放送局のマスコットキャラクターにそっくりだった。背丈は並みの大人より頭一つは高く、横は軽自動車の車幅ほどもある。

 浩は清掃員たちから目を離さず、ヌメリに「おい」と呼びかけた。こうなれば、覚悟を決めるしかなかった。店長と富子を、何としても守らなければ。

「俺は、何をすればいいんだ?」

 ヌメリは頷き、一呼吸置いてから口を開いた。

「私と合体してください」

 富子が吹き出した。店長が「あらまあ」と言った。浩は、ヌメリの頭頂部にチョップをくれた。

「何するんですか!」

 ヌメリは涙目で抗議する。

「おまえは、この期に及んでそれか」

「いや、そう言う意味じゃなくてですね。とにかく、私の言うとおりにしてください。文句はナシですよ」

 浩が頷くのを見て、ヌメリは通路の真ん中まで進み出た。浩はTシャツとジーンズが入った紙袋を富子に押し付け、慌てて後を追う。

「そこまでよ、清掃員。これ以上の乱暴狼藉は、私たちが許さないわ!」

 ヌメリは勇ましくも清掃員に指を突き付けた。清掃員は、馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らす。

「地球人の小娘が、この私マダム・Q・キュートを止める? 面白い冗談ね」

 Q・キュートは芝居がかった仕草でヌメリをねめつけた。マダムと言うことは既婚者か、と浩がぼんやり考えていると、彼女は戸惑うように首を振った。

「違う」

 彼女はすがめた目でヌメリを見ると、不意に嫌悪の表情を浮かべた。

「あなた、あの汚らわしいバクテリアね。何のつもりで人間のふりをしてるの?」

「あなたをやっつけるためよ」

 ヌメリはきっぱりと言った。

「あらあら、勇ましいこと。でも、下等生物に何ができるのかしら?」

 Q・キュートは嘲りの笑みを返した。

「今、見せてあげる」

 ヌメリは帽子を脱ぎ捨てると、浩に目を向けた。

「お兄さん、いいですね?」

「ああ、やってくれ」

 浩は頷く。

「では、こう叫んでください。『増殖武装』です」

「なんで?」

「いいから、早く!」

 浩は渋々、それに従った。

「増殖武装!」

 それを合図に、ヌメリは空中へ飛び上がると浩の頭上で変形し、軟体動物のように大きく触手を広げた。白いワンピースが、ひらひらと宙を舞うのが見えた。そう言えばパンツを買い忘れていたな――などと考えていると、触手は浩の身体に絡み付き、彼は瞬く間に全身をヌメリに覆い尽くされた。皮膚に吸い付く粘液の感触に怖気おぞけを覚えるのも束の間、彼女は耳と鼻からも浩の体内に侵入してくる。パニックになりかけた時、ヌメリの声が耳元で聞こえた。

「あーん、お兄さんが大きすぎて全部入らないよぉ」

「おい」

 浩は抗議する。両耳にヌメリが詰まっているせいか、その声は両手で耳を塞いでしゃべった時と同じく、妙に聞き慣れない音だった。

「ちょっとふざけただけです。でも、私の声はちゃんと聞こえてますね?」

「ああ、よく聞こえるよ。それで、次はどうするんだ?」

「私が身体を動かしますので、抵抗しないでください。あと、私の言葉を追い掛けるんです。『なんで?』はもう無しですよ」

 頷こうとしたが、出来なかった。不意に、身体が勝手に動いた。脚を開き、右の拳を脇へ引きつつ左の拳を胸の前で水平に構える。どうやら、身体の制御をすっかりヌメリに乗っ取られてしまったようだ。

「さあ、私に続けて言ってください」

 訳も分からず、浩はヌメリの言葉を追った。ここまでやって、今さら四の五の言うのは無駄でしかない。

「武装完了!」

 この声は、はっきりと自分の耳に届いた。どうやら、外へ発する声と、ヌメリに語りかける声の切り替えができるようだ。身体は勝手に動き続けた。左の拳が肘を中心に顔の前で四分円を描いてから脇へ引き込まれ、空気を切って右の拳が天を突く、そして浩は言われるがまま名乗りを上げた。

「バクテリオン!」

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