増殖武装バクテリオン

烏屋マイニ

第1話 排水口から来た少女

 歯ブラシと歯磨き粉のチューブを手に、麹谷浩こうじやひろは薄汚れたシンクの前で立ち尽くしていた。確かに、仕事の忙しさにかまけて、三ヶ月も掃除をサボったのは事実だ。しかし、よもや排水口から粘液状の汚水が、ごぼごぼと音を立てて湧き出す事態になろうとは思ってもみなかった。悪臭がないのは救いだが、それでも見た目はかなりグロい。こんなことになるなら、もっとマメに掃除をしておくべきだった、と後悔してる間にも薄茶色の粘液はどんどんかさを増し、ついには流し場をあふれ出た。

 浩は毒づきながら、シンクの前から大きく飛び退いた。朝っぱらから汚水に塗れるのは願い下げだ。彼は歯ブラシと歯磨き粉をひとまず電子レンジの上に置いて居室へ戻ると、ベッドに放り出してあった携帯電話スマートフォンを手に取り、勤め先へ電話した。

「おはようございます、店長。申し訳ないんですが、今日は遅刻させてもらえないでしょうか。実は、うちのキッチンの排水が壊れてしまって」

 電話の向こうから、店長が「あらまあ、大丈夫?」と心配そうに聞いてくる。浩はキッチンへ目を向けた。ワンルームなので居室とキッチンの間に仕切りはなく、キッチンの惨事がまともに目に入った。汚水はアメーバのように壁面を流れ下り、キッチンの床の上で、着々と勢力範囲を広げつつある。彼はキッチンに背を向け、とりあえず何も見なかったことにした。

「まあ、たぶん、なんとかなると思います。店の方は、大丈夫ですか?」

 店長は「今日はヒマだから」と笑って答え、ついでだから休みを取れと言ってきた。浩は礼を言って、彼女の好意に甘えることにした。電話を切ってホッとため息をつき、意を決し再びキッチンに目を向けたところで、彼は凍り付いた。粘液状の汚水は、いつの間にかキッチンの中央に寄り集まり、脈動する繭型の肉塊になっていたのだ。

「なんだ、こりゃ?」

 携帯電話をベッドへ放り投げ、浩は肉塊に歩み寄った。不意に、肉塊の表面にゴルフボール大の穴が空いた。その中に、人間そっくりの白い歯がぞろりと生え、穴の中から「あ、あ、あ、あ、あ、あ」と不気味な声が漏れ出た。浩はぎょっとして二、三歩後退った。その間にも肉塊は変化を続け、腕や脚や頭を生やし、ねじれて歪んだ前衛彫刻のような人体を形作った。グロテスクなヒトモドキは、キッチンの床の上をイモムシのようにのた打ち回りながら、パーツの位置を少しずつ修正し、ついには胎児のように身を丸めて横たわる少女になった。浩が呆然と見守っていると、彼女はぱちりと目蓋を開き、上半身を起こして白目の無い真っ黒な眼で浩を見る。

「お前は……何なんだ?」

 浩が恐る恐る尋ねると、少女はきょとんとして答えた。

「排水口のヌメリですが、何か?」

「いや、ヌメリは女の子になんてならないだろう」

「なれます」

 少女は立ち上がり、あまり膨らんでいない胸を張って言った。

「頑張れば、私たちはなんにでもなれるんです!」

 なにやら自己啓発セミナーみないなことを言っているが、続く説明によれば彼女はバイオフィルムと言う微生物の集合体で、群体のように個々の微生物が役割を分担し、人間に擬態しているのだと言う。信じがたい話だが、信じがたい生物が目の前にいるのに、それを嘘だと言い切る根拠もない。

「だからって、なんで女の子をチョイスした」

 背格好で言えば、ローティーンと呼ばれる年頃だ。

「これが一番、人間から敵意を受けにくい姿だからです。だって、可愛い女の子が嫌いな人間なんていませんよね?」

 確かに彼女は、はた目には褐色の肌の美少女に見える。自分を可愛いと言い張るだけのことはあった。ただし、その身体はつるりとしてセルロイドの人形じみていたし、白目の無い眼はグレイ型エイリアンのようだ。よくよく見れば、人間とは違うことがわかる。

「もう、なんでもいいや。とりあえず俺のを貸してやるから、服を着てくれ」

 ディティールは非人類でも、両腿に挟まれた部分は人類のそれとほとんど変わりない形をしていた。全裸で突っ立っていられるのは、あまりにも目の毒だ。浩は少女に背を向け、ついて来いと肩の上で手を振った。バクテリア少女はとてとて後をついて来て、鼻息も荒くこう言った。

「裸ワイシャツをご所望ですか。どんと来いです!」

 浩はベッドの上から、夜着にしていたスウェットをひっ掴むと、振り向きざまバクテリア少女に力一杯投げ付けた。少女はスウェットのパンツ部分を顔に貼り付けたまま、「うふふふ」と不気味に笑った。

「お兄さんのニオイがします」

 浩は背筋に粟立つものを感じ、慌ててスウェットをひったくると、タンスから真新しいTシャツを引っ張り出して、バクテリア少女に押し付けた。

「裸Tシャツもなかなかの破壊力ですよね」

 少女は何やら呟き、それに袖を通した。どっと疲労を感じた浩はベッドに座り込んだ。少女は隣にちょこんと腰を降ろす。浩が見ると、彼女は目を輝かせて言った。

「いよいよ、ですか?」

「なにが?」

「私を押し倒して、エッチなことをするんですよね?」

 浩は頭痛がしてきた。

「どうして俺が?」

「だって、飛び出す系の美少女は男のロマンですよ!」

 パソコンのモニター画面ならまだしも、排水口は願い下げたい。

「あ、そうか」バクテリア少女はポンと手を鳴らす。「なるほど、なるほど。そうですよね。もちろん、そう言う人がいることは知ってますとも。大丈夫、安心してください」

 バクテリア少女はベッドから飛び降りるなり、浩の真ん前に立って「うーん」といきみ始めた。頭髪に見せかけた房のような器官がじわじわと小さくなり、セミロングがショートカットに変る。そして、彼女は笑顔でTシャツの裾をまくり上げた。股間には見慣れたものが付いていた。

「私、美少年にだってなれますから!」

 バクテリア少年は「ぞうさん、ぞうさん」と歌いながら、下品な踊りを始めた。浩は、頭を抱えた。

「まさか、これも気に入らないんですか?」

 バクテリア少年はバクテリア少女に戻ると、腕を組んで考え込んだ。今度は何をする気だと警戒しながら眺めていると、彼女は猫耳と尻尾を生やし、期待を込めた目で浩を見つめてくる。

「折角だが、その気はない」

 バクテリア少女は「えー」と不満の声を上げ、耳と尻尾を引っ込めた。

「男なら、穴があったら入れたいって思いますよね、普通。あ、ひょっとして、穴なんてホントにあるのかって疑ってるんですか。私を見くびらないでください。下水に日々流れ込んでくる人間の遺伝情報を勉強して、解剖学的にもように、ばっちり擬態してるんですから。なんなら、見せてあげましょうか?」

 Tシャツの裾をまくり上げようとする少女の手を押さえ、浩はきっぱりとこう告げた。

「悪い。俺は、もっと大きい方が好みなんだ」

 バクテリア少女はショックを受けた様子で息を飲んだ。それからがくりと膝を折って、拳で床を殴った。

「私、がんばったんですよ。いっぱい分裂して仲間を増やして、この姿になるのにどれだけ苦労したかわかりますか。って言うか、出し入れするだけなら哺乳器官の大小なんて関係ないでしょ。それとも、お兄さんは原核生物を妊娠させられるくらい絶倫なんですか?」

 少女は口惜しそうに、何度も床を殴った。

「やめてくれ。下の階から文句が来る」

 ここはワンルームマンションの二階なのだ。

「わかりました」

 バクテリア少女は決然と立ち上がった。

「大きければいいんですね?」

 そう言う問題ではないのだが、浩が指摘する前に彼女は口を開け、大きく息を吸い込んだ。Tシャツの胸元がみるみる膨らんでくる。少女はぷくりと頬を膨らませたまま、ドヤ顔で浩を見た。浩はため息を吐き、少女の胸を横からひっ叩いた。案の定、それはゴム風船のような感触だった。少女の口から間抜けな音を立てて空気が漏れ、ニセモノの胸はあっという間にしぼんだ。部屋の中に沈黙が降りた。しばらく経って、バクテリア少女は「てへっ」と言って舌を出した。

「それで、お前さんは何を企んでる。なんだって、俺と――アレをしたがるんだ?」

 浩は眉間を押さえながら言った。バクテリア少女はそっぽを向いてぴーぷー口笛を吹いた。

「白状しろ」

「えーと、お米の研ぎ汁とか、カップ焼きそばのお湯とか、パスタの茹で汁とか、おいしいゴハンを毎日くれただけじゃなく、何日もキッチンをお掃除しないでくれた、やさしいお兄さんへの恩返し、かな?」

「なんで疑問形なんだ」

「えーと、えーと、それじゃあ……」

他の言い訳をでっち上げようと、思案を巡らせているのが見え見えだった。それでも浩が黙って見ていると、彼女はとうとうあきらめたのか、ぴしりと正座して、真っ直ぐに浩を見てから頭を下げた。

「どうか、力を貸してください」

「なんで?」

 浩が問うと、彼女は「実は」と顔を上げた。

「地球は狙われているんです!」

「よし、帰れ」

 浩はキッチンを指さした。

「あ、待って、冗談じゃないんです、本当なんです。大体、白状しろって言ったのはお兄さんですよ。とりあえず最後まで、広い心で聞いてください」

 バクテリア少女は浩の膝に取りすがった。浩は渋々頷き、彼女に続けるよう促した。

「そもそもの始まりは、五十年ほど前に某国で秘密裡に行われた、火星の地球化テラフォーミング計画です」

「よし、帰れ」

 浩は再びキッチンを指さした。

「だから、最後まで聞いてくださいって!」

 今度はバクテリア少女もめげなかった。

「そんな突拍子もない話を信じろと言われてもなあ」

「排水口からエロエロで可愛い女の子が出て来た時点で、じゅうぶん突拍子もないですよ。今さらなに言ってるんですか」

 言われてみればその通りだ。

「とにかく、計画が始まると七人の宇宙飛行士が火星に送り込まれ、彼らは火星を人間が住めるような星にするための任務に取り掛かりました。でも、それから数年で事故が起こり、発覚を恐れた彼らの母国は計画を中止し、宇宙飛行士たちを火星に置き去りにしてしまったんです。ところがどっこい、宇宙飛行士たちは生き延びました。そして今、彼らは自力で造り上げた宇宙船に乗って、地球へ帰って来たんです。自分たちを見捨てた、地球人へ復讐するために」

 どこかで聞いた話だ。

「やっぱり、そいつらって水に弱いのか?」

 浩が聞くと、少女はきょとんとして答えた。

「そんなことないですよ。でも、どうしてですか?」

「いや、気にするな」

 少女は訝しげに首を傾げてから話を続けた。

「彼らは、地球を火星のように生き物の住めない星にしようと企んでいます。でも、か弱いバクテリアの私じゃどうすることもできません。それで人間の協力者を探すため、この姿になったんです。お兄さん、お願いします。私と一緒に、火星からの侵略者と戦ってください」

 浩は考え込んだ。仮に彼女のいうことが本当だとして、二十八歳のごく当たり前の男でしかない彼に、何が出来ようか。いや、それよりも浩には、腑に落ちない点があった。

「その話とおまえさんは、どこでどう繋がってるんだ。今まで聞いた限りじゃ、おまえさんに宇宙飛行士たちを止める義理なんて、無いように思えるぞ?」

「実は、その」少女は目を泳がせた。「事故の原因と言うのが……私なんです」

「は?」

「私たちは、たまたま宇宙飛行士にくっ付いてきた雑菌だったんです。でも、火星との相性がよくって、ちょーっと増えすぎちゃって」

 バクテリア少女は、あははと乾いた声で笑った。

「ほら、火星って赤いでしょ。あれって赤さびのせいなんですけど、私たちの仲間には鉄還元菌ってヤツがいて、その赤さびをすることができたんです。だから、酸素がほとんど無くてもへっちゃらでした。他にも光合成ができる藍色細菌シアノバクテリアって言う仲間もいたからゴハンにも困らなかったし、ぶっちゃけ誰かに助けを借りなくても、私たちだけで勝手に生きられたんですよね。で、気が付いたら火星の地表の〇.一五パーセントくらいをバイオフィルムで覆いつくしてました」

 浩にはピンと来ない数字だった。

「甲子園球場が一七〇〇万個くらい入る広さです」

「いや、それもよくわからん」

「宇宙飛行士たちは、ユタ州くらいあるぞって言ってましたけど」

 浩はベッドの上のスマホを取って、ユタ州を検索した。アメリカ合衆国西部の州で、面積は九州より少し狭い程度。そんな広さの地面を排水口のヌメリが覆い尽くしていたとしたら、それはもはや脅威だ。

「その宇宙飛行士たちは、なんだって、そんなになるまで放ったらかしにしてたんだ?」

 浩の問いに、バクテリア少女は単純明快な答えをくれた。

「任務がたくさんあって、掃除する暇が無かったんでしょうね」

 同じ理由でキッチンの掃除をサボった浩としては、身につまされる話だ。

「そんなわけで、宇宙飛行士たちは自分たちに改造手術を施すと、サイボーグ清掃員スイーパーになって、私たちを猛烈に掃除し始めたんです」

「待て待て」浩は慌てて止めた。「なんでサイボーグになる必要がある」

 どうにも話がおかしくなってきた。

「宇宙服を着て、もぞもぞやってたら間に合わないからですよ。地球じゃ、核ミサイルで一気に焼き払ってしまおうって話も出てましたから。って言うか、実際そうなったんですけどね」

「まだ、宇宙飛行士がいるのにか?」

 浩はぎょっとした。バクテリア少女は肩をすくめた。無体な話だった。それは確かに、復讐したくもなるだろう。

「でも、核ミサイルが起こした爆発は、私たちの一部を火星の地面ごと宇宙へ吹き飛ばしました。火星の欠片のいくつかは地球へ向かう軌道に乗って、その内の一つがこの日本へたどり着き、私たちは下水道に潜り込んで、なんとか生き延びることが出来たんです」

 核ミサイルでも消毒出来ないとは、まったくしぶとい連中だ。

「問題は、清掃員が自分たちを見捨てた地球人だけじゃなく、その原因になった私たちバクテリアも目の敵にしてるって事なんです。彼らは地球を丸ごと消毒しようと企んでいます。そうすれば、生態系やらなんやかんやが破壊されて地球は死の星になり、彼らを見捨てた地球人と、その原因になった私たちを、まとめて始末できるからです」

「やけに、その清掃員とやらの企みに詳しいな?」

 すると、少女は肩をすくめて言った。

「だって、本人から直接聞きましたから」

 きょとんとする浩をよそに、彼女は続けた。

「つい最近、私たちがぬくぬく暮らす下水道に、清掃員の一人がやって来たんです。私も、がんばって戦ったんですけど、相手は核攻撃だって生き延びるサイボーグですから、ぜんぜん歯が立たなくて」

 自分も同じく核攻撃を生き延びた生物であることを、彼女はすっかり忘れているようだ。

「でも、追い詰められたところで、得意げに色んなことをペラペラしゃべりだしてくれたんで――」

 後の展開が見え見えだった。

「私たちは、その隙に逃げ出すことができました」

 ほらね、と浩は胸の内で呟いた。

「さあ、これで納得してくれましたか?」

 浩は、危うく頷くところだった。彼女はまだ、肝心なことを白状していない。

「それと、さっきから俺を誘惑してたことに、どんな関係があるんだ?」

「覚えてやがりましたか」

 バクテリア少女は、ちっと舌打ちした。危うくけむに巻かれるところだった。

「つまりですね、うまいこと籠絡ろうらくすれば地球の男どもを、戦闘力皆無な私たちに代わって、清掃員と命懸けで戦う兵隊に仕立て上げられるんじゃないか、と期待したワケですよ」

 さっきは「協力」と言ってなかったか?

「名付けて、人間の男なんてアレを握ってしまえば言いなりにできるんだぜ作戦」

 浩は確信した。この微生物どもは人類をなめている。

「あー、その目は疑ってますね。さっきも言いましたけど、私たちは徹底して人間の遺伝情報を勉強したんです。そして、一度まぐわったが最後、腹上死すること間違いなしって身体を作り上げました。これなら、みんなめろめろにできるでしょう。さあ、ふぁっくみーです、この野郎!」

 ヌメリ少女は片膝付いてどんと足を踏み鳴らすと、右手の中指を顔の前に突き立てた。

「いや、腹上死したら兵隊にならんだろう」

 浩の指摘に、ヌメリ少女は凍り付いた。

「死なないまでも、セックス漬けの男にどんな戦闘力を期待してるんだ。多分、足腰もろくすっぽ立たないぞ?」

 ヌメリ少女は「ちくしょう!」と叫んで床をどんどん叩いた。

「だから、それは止めろって」

「さっきから何なんですか。おっぱいが小さくて抱く気になれないだとか、気持ち良すぎたら使い物にならなくなるとかケチばかり付けて。私たちは地球のために必死なんですよ。ちょっとくらい助けてくれたっていいじゃないですか。バカッ!」

 ヌメリ少女は涙目で言った。

「悪かったよ」

 これ以上、床を叩かれても困るので、とりあえず謝った。

「それじゃあ、私とエッチしてめろめろの傀儡くぐつになってくれるんですね?」

「いや、それは……」

 不意にチャイムが連打された。浩が玄関に向かいドアを開けると、眉を吊り上げた若い女が立っている。

「さっきから、ドンドンうるさいんですけど?」

 どうやら、下の階の住人のようだ。

「申し訳ありません」

 浩は平謝りした。

「ちょっと、お兄さん。話は終わってませんよ」

 ヌメリ少女が追い掛けてくる。下階の女は、だぶだぶのTシャツ一枚姿の少女を見て、はっと息を飲んだ。

「ロリコン……犯罪?」

「いや、待て、落ち着け。そんなことはしていない」

 慌てて浩は言った。

「そうですよ。まだ、先っぽすら入れられてません。とんだ意気地なしですよ、こいつ」

 ヌメリ少女が余計な事を言った。

「まだってことは、これから?」

「違う。よく見ろ、こいつは人間じゃない!」

 女は何を言ってるんだとばかりに眉を寄せるが、ヌメリ少女をじっと見て「まあ」と言った。

「なあに、あなた。宇宙人?」

「火星には行ったことはありますけど、ちゃんとした地球の生き物です。あと、人じゃありません。微生物です」

 ヌメリ少女は、「えへん」と言って胸を張った。

「本人は、排水口のヌメリだと言ってましたがね」

 浩が補足する。

「それ、詳しく聞かせてもらえるかしら?」

 なぜか富子は目を輝かせて食い付いた。

「中で話しませんか?」

 玄関口で騒いでいると、他の住民が何事かと覗きにこないとも限らない。その時、ヌメリ少女を見られれば、さっきのようにあらぬ誤解を招くだろう。

「ええ、ぜひお邪魔させてちょうだい」

 女はヌメリ少女から目を離さずに言うと、勝手に靴を脱いで上がり込み、少女の手を取って奥へ向かった。

「バイオフィルムだとしたら、やっぱりシュードモナス属かしら。でも多糖類にしては、ずいぶんしっかりした構造ね。まるでコラーゲンだわ」

 ヌメリ少女の手の感触を確かめながら、女はぶつぶつ呟いた。それから、ふと少女に目を向けた。

「あなた、お名前は?」

「まだ無いです」

「あら。それじゃあ、ヌメリちゃんなんてどう?」

「素敵!」

 ヌメリ少女は笑顔で言った。玄関のドアを閉め、浩は「どこが?」と胸の内で呟き、首を捻った。

「お姉さんは?」

 ヌメリが聞いた。

「私は富子とみこよ。田中富子たなかとみこ。富栄養(ふえいよう)の富って字を書くの」

「わあ、美味しそうですね」

「でしょう?」

 二人はくすくす笑い合った。何がおかしいのか、浩にはまるで理解できなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る