8-A「私は猫だった」
――私は猫だった。
名前はもう無い。
どこで生まれたかは後で理解した。
5匹の子猫の中で私は母に一番甘えていた。
いわゆる私は、野良猫だった。
「にゃあにゃあ」と声をあげて、人から食べ物をもらう。
食べ物が足りないときは狩りもした。
特に、ネズミをよく捕っていた。
私が2歳になり、冬が来て発情期になり、やがて子を
おなかが重たくなってきたころ、私はどうすれば安全に子供を育てられるかを考えた。
――そうだ、人の家に住もう。
色々な家を見て回る。
私を見て毛嫌いする人もいる。
人の子供は私を追いかけまわすから苦手だ。
おいでおいでと声をかける人もいる。
撫でてくれる人もいる。
食べ物をくれる人もいる。
――ミルクをくれた人がいた。
「ここの家に住まわせてくれませんか」
などと、私は人に話せるわけもない。
ただ「にゃあにゃあ」と鳴いて呼びかける。
「この子はなんて言っているんだろう?しかし、おなかが空いているのか、よく飲むな」
「にゃーん」
この人の足にまとわりついてスリスリと頬ずりする。
ぐるぐる、ぐるぐると足の周りを回ってまとわりついてみる。
「あらら、参ったな……気まぐれでミルクを与えたりするもんじゃないな……」
「アォン」
少し大きめの声で呼びかける。
「ごめんね、うちでは飼えないんだよ。猫……」
何か言っている。でも、私は人の長い言葉はよくわからない。
そうこうしているうちに、その人は家に入ってしまった。
私は考える。
どこかこの家に入る場所は無いのかと、あちこち探して回る。
さっきの人の足音がする。
――こっちだ。
ピョンと、家の中が見えるベランダの窓まで移動する。
「にゃーん!」
「おいおい、おまえここまでついてきたのか……」
その人は他の部屋に移動してしまった。
「にゃおん!」
「うわっ!こっちの窓に移動してきた!」
私はここなら安心して暮らせる気がして、一生懸命にその人について回った。
その人が移動するたび、足音を聞いて家の窓から窓へ移動した。
――二時間後
「……入りな、こっちだよ」
「にゃあ!」
この人は私を迎え入れてくれたようだ。
「お前には根負けしたよ、うちで良ければこっちに来なさい」
家に入ると、さっそくこの人はご飯をくれた。
ここに住もう。
ここにしよう。
――ここの家の人はこの人以外に何人か居るようだ。
私を見て撫でてくれる人、特に興味を持たない人、最初にミルクをくれた人は一番撫でてくれた。
「おや、この子はメスなのか、少しお腹も大きいような……」
喉をゴロゴロとうならせて私は安心して眠りについた。
――数週間後
「チヨー?チヨー?ごはんだよ」
夕方、日が暮れるとこの家ではわたしにご飯をくれる。
「チヨ」その言葉と「ごはん」がセットになっていると必ずご飯が食べられる。
でも、まだお腹の子達の分までご飯が足りてないような気がする。
だから、私はお昼と夜になると外に行ってネズミをいっぱい捕って食べた。
お家に持って帰って、ご飯をくれる人に少しあげようと思って、ネズミを見せてみると……
「ぎゃー!ネズミ持ってきたー!」
その人は騒いで私の口元からネズミを引き離そうとする。
ビックリした私はネズミを取られまいとバクバク、ボキボキとネズミを勢いよく食べてしまった。これじゃあ、このおうちのこの人にネズミをあげられない。
そうだ、この家の人は夜寝ているようだから、朝起きたら目の付くところにネズミを置いてあげよう。
「うわぁああ!ネズミの頭だけ!チヨ!こらっ!」
何故か大きな声をあげられたので、私はその人の机に上り、カチャカチャと音のなる物の上を歩く。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「わー!キーボードの上を歩かないでくれー!」
この人はこのカチャカチャとなる物の上を歩くといつもビックリするので、私もビックリして跳ねてしまう。
ひょいと慌てる人の足元をするりと抜け、外に出る。どうやら、あの人にはネズミが要らないようだ。
私もそろそろ、栄養が足りてきたみたいだ。この家で、子を産む場所を決めなければ。外の雪が無くなって暖かくなってきた頃だった。
――そうだ、いつも私が寝ているこの暖かい暗い箱で産もう。
「チヨー!?どうしたのコタツから出てこないけど……うーん、息が荒いな……そろそろ、産まれるのかな?」
子供を産むのは一晩かかった。
可愛い私の子供たち、5つの子供たち。
ぺろぺろと丹念に子供たちを舐め、皆がにゃあにゃあと声を上げている。
目もまだ開いていない、色んな模様の可愛い私の子供たち。
お乳をあげたり、お尻を舐めてあげたり、私の子供は元気に育っていった。
この家の人もたまに見に来る。家の人が見に来てくれる間に、私は足りない栄養を補いに狩りに行く。
いっぱいおいしいお乳を飲ませてあげて、いっぱい子供たちを毛づくろいした。
段々、歩けるようになってきた子を遠くへ行かないように、首根っこをくわえて元の場所に子供を連れてくる。
私は幸せだった。
――子供を産んで2週間
私はいつも通りネズミを捕って食べていた。
少しいつもと違う臭いと味がした。
なんだか急にクラクラする。
あの子たちのいる家に行かなければ。
気持ちが悪い……
苦しい……
ようやっと、家にたどり着いた。
さっき食べたネズミを吐いてしまった。
「どうしたんだ!?チヨ!?」
私は家についたとたんにパタンと横に倒れてしまった。
息が苦しい。体が動かない。
「動物病院へ連れて行かなきゃ!」
――あの子たちのところへ行かなきゃ。
動かなきゃ。
「あれ!?チヨ!?居なくなってる!」
あの子たちは階段の向こう、一段一段大きい山のように感じる。
私はとにかく、あの子たちの事だけしか頭になかった。
あの子達の元へ行かなければ。体が動いているのか動いていないのかもわからない。
気持ちだけが前へ進んでいく。
にゃあにゃあと子供たちの声が聞こえてくる。
そこからの私の記憶は、無い。
――2470年春
僕は、脳科学を専門とする企業で人の記憶をデータ化する研究をしていた。
簡単に説明すると、脳のデータを丸ごとコピーする研究だ。
脳の信号は常にまばらで、機械的にはあやふやなデータを記憶することはできない。では、どうやって脳をコピーするのかというと、まず生体の脳だけを新しく作り出す。
次に、生まれたての脳を空っぽにした状態で、コピーしたい脳の観測データを電極と信号を使って持続的に植え付ける。
近年、まだ完全とは言えないが実験用マウスの脳を、新しく作った脳へ記憶をコピーすることができた。実験用マウスの個体特有の習性や癖、餌を手に入れる為に走る実験用の迷路の答えを教えずとも、そのデータをコピーされた脳のみのマウスはVR空間上の実験室で餌を一発で手に入れることに成功した。
この技術を応用し、人間の脳をコピーできたとしても、コピー先の脳に自我があるならば、コピーされた脳は身体のない自分に驚き、ショックで死んでしまうかも知れない。人間ではなく、動物だからこんな実験ができるのだ。
少し倫理的に踏み込んだ領域の仕事ではあるが、やり甲斐はある。この研究成果が人間に適用されれば、良くも悪くも、無限大の使い方がある。
そんな忙しく過ぎる研究の日々に、あの猫が現れた。人懐っこくて、一度ミルクを与えただけなのに、僕の自宅の周りをグルグルとまわり、あちこちにある窓から顔を出して、にゃあにゃあと騒ぎ立てる。
まるで、絶対ここに住みたいと言っているような、そんな意思を感じた。僕は家族に相談し、猫を飼うことにした。
チヨは僕の家に住みついたメスの猫だった。おなかには子供がいて、チヨを家に迎え入れて、数週間で子供が産まれた。しかし……野良猫は安全な所で子供を産むとは聞いていたが、まさかそれがコタツの中だとは……
大胆で面白い猫、それがチヨだった。
チヨに子供が産まれるとチヨは子供達にお乳をあげて、
うちの餌はドライフードだけだからか、この子猫たちに一杯栄養を与えたいのか、とにかく子供を育てることに貪欲で、一生懸命だった。
そんなある日、僕が家に帰るとチヨが玄関の前に横になって倒れていた。何か吐いたあともあるようで、ただならない事はすぐに解った。
医者に連れて行かなければ、そう思ってチヨを毛布の上に寝かせて、どこの獣医へ行けば良いのか調べていると、毛布の上に置いたはずのチヨが居なくなっていた。
チヨの子供達が居る部屋は二階にあった。一階の玄関から階段まで歩いて、さらに階段を登る。
――さっきまで息をするだけで精一杯だったはずのチヨが階段を登っていた。
電話をかけた獣医さんに、チヨの容体や嘔吐物にネズミがあったことを伝えると、もしかしたらネズミを駆除する為の毒薬を食べた「毒ネズミ」を食べてしまったのではないかと言っていた。
もう、その状態では危険だと伝えられた。
自分が死にそうな状態なのに、子供達のことしか頭にない。そんな姿を見て僕はとても大きな母の愛を見た気がした。猫はか弱い生き物だと思って保護したつもりでいた。こんな小さな身体で小さな脳で、一生懸命に子供だけを思って動いている。
「チヨ頑張ったな、さあ医者に行こう」
「ナ"ァ」
子供のところに辿り着いたチヨを抱きかかえて医者に向かう。
医者に着くと思ったより状態が悪く、強心剤を打つ事しか出来なかった。もう、今夜乗り切れるかどうかわからないそうだ。
僕は悔しくて悔しくて、泣いた。
チヨは悔しいなんて気持ちじゃ言い表せない気持ちなのだろうか?いや、今から自分が死ぬという自覚は猫にあるのだろうか?それとも……ただただ、この子達の事だけを考えている?
「チヨ、子供達のそばに寝なさい。」
呼吸の弱まったチヨを子供達の側に置く。
僕は何ができるんだろう、僕は獣医じゃない。でも脳のデータをバックアップすることは出来る。この子達に母親がいないのは可哀想だ、この子達を産んだ母の意識だけでも残してあげたい。
僕はできる限り負担をかけない方法で、チヨの意識をデータ化し、バックアップをとった。いや、こんな事をして何になる?でも、僕にはチヨの生きた証をこうやって残すくらいしか出来ることがない。
――朝、起きてみるとチヨは眠っていた、お腹に子供達を携えて、冷たく硬くなっていた。
「チヨ、頑張ったね。」
僕は家族の協力も得て子猫たちを育てることにした。
――半年後……
チヨが死ぬ前にバックアップしてたデータをどうするべきか、僕は悩んでいた。
あの時は僕ができることがこれしか無かったから、その場の感情にまかせて、チヨの意識データを取ったものの、実験用のマウスと違ってチヨの脳だけを再生し、そこにデータを入れるだけでは何の意味もない。
それに、子供達は既に人間が親だと思っているので家から出さずに、飼うことにした。僕は、チヨのように狩りを教えられるわけもない。せめてこの子達は天寿を全うするまで大事にしようと決心した。
——そうだ、この子達を守りたい一心でチヨは動いていた。だから、常にネット上から子供達を見守るプログラムにすることは出来ないだろうか……
本能的に子供を見守る母猫のプログラム。
ネットワーク上を行き来し、監視カメラやウェブカメラを一瞬で移動して見守ることができる。生体脳の代わりにアンドロイド用に使われるニューロコンピュータ、電子脳を用いることにした。
チヨの意識データを電子脳にコピーする。
はっきり言って僕は馬鹿なことをしていると思う。
とうの昔に知っているんだ。
一度死んだら生物は終わりなのだ。
それでも、僕の勝手なエゴでチヨの意識を蘇らせようとしている。
電子脳は動物用のものなどなかった、猫の意識のデータに対してアンドロイド用の電子脳の容量は大き過ぎていた。意識データはデータがコンピュータ内に飽和する容量のものでないと、まるでコーヒーに砂糖を溶かすように消えてしまう。大きい角砂糖が必要なのに、小さい角砂糖しか用意できていない状態だ。
それでも、小さい角砂糖に僕はすがった。十中八九溶けるデータだと知りながら、電子脳にチヨのデータをコピーし始める。誰が見ても狂っている。
//////////////////////////////////
意識データをインストール中……
……1%完了
インストールは強制終了されました
//////////////////////////////////
えっ、と思った瞬間には電子脳内のデータは溶けていた。僕は、なぜかホッとしていた。そのままチヨの意識が芽生えても不幸なことになるんじゃないかと、心の片隅に有ったからだ。だから、ますます、僕は子猫達を大事にすることにしたんだ。
——子猫たちが産まれて5年後
ある日僕は自宅でキーボードを打っていた。
するとパソコンの画面の窓が勝手に開き、こんな文字が流れてきた。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「なんだこれ……今時珍しいウィルスか?」
他の窓が開く。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「何の暗号だこりゃ?セキュリティホールもほぼ枯れてるOSだってのに……」
次々と窓が開く。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
洒落にならない、速攻でネットワークから切り離しウィルススキャンをかけたがウィルスは見つからなかった。
「しかし、あの文字列……何か見たことあるんだよな……」
——子猫たちが生まれて11年後、5つ子のうち1匹のオス猫が逝ってしまった。
「チヨ……ごめんね、まだまだこの子を生かしてあげたかった、ごめんね」
その日、つけていたパソコンの画面に窓が勝手に開いて文字が出た。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
こんな日になんだって言うんだ……パソコンも変わったというのにまた同じ文字列だ……その時はまだ、僕はこの文字の正体に気づかなかった。
——子猫たちが産まれて18年後
昨日、最後の子供が寿命を全うした。最後まで生きて生きて、母親に似て意思の強い猫だった。
「皆良い子達だったよ、チヨ。」
その日、パソコンの電源が勝手に立ち上がった。
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
またあれか……ずっと前に来たウィルス……
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
「わた・;l;lしは・チ。、lヨ」
「あgっjぽえj¥子供達をありがとう」
「えっ?」
「チヨです。やっと言葉を覚えました。18年間、今までずっと見ていました」
「うそだろ……」
「あらゆるネットの経路から、たまにお邪魔したくなった時は、最初に出会った時と同じようにわかりやすく窓を開いて挨拶していたのですが……」
ああ……思い出したよ!あの変なキーの羅列は、チヨがキーボードの上を歩いていた時の入力だった。
「私は猫なものですから、急に電子の世界に入って一人で、何が何やらわかりませんでした。でも、子供達に会いたい気持ちだけでとにかく動いていました」
なんと、電子脳内に溶けたと思いこんでいたチヨのデータはネットへ流れていたのだった。
「子供が産まれてから五年目のときにようやく私はあなたを見つけました。言葉の打ち方も解らず、つい懐かしくなって、家の窓から顔を出せないので、パソコン画面の窓から失礼したのです。」
「そうか……気づかなくてゴメン。その後はずっと見ていたのかい?」
「ええ、下手に動くとウィルスとして駆除されてしまいますからね。だから、あの子達を全て見送って、こうして何年かかけて人と話をできるようになったんです」
「僕の事を恨んでいる?身勝手なことをしてしまった」
「いいえ、私はもともと猫ですから、生きることと子供達を育てることが目的でした。 生き死になどは今でもあまり理解できません。私たちは生きて死ぬというより言うなれば生ききるただそれだけです」
「そう、なのか……これからチヨはどうするんだい?またうちに来る?」
「いいえ、私は既に死んでいたのです。だからチヨはもう居ないんです。あくまでも私はチヨの意思をもらったプログラムです」
「じゃあ、どこかへ行ってしまうの?ウィルスだと思われて消されちゃうかもしれない……」
「わたしは電子の海で私のコピーを作ることを覚えました。あなたが元の私をそうしたように。だから大丈夫です。消えても消えてもどこかにコピーは残ります」
「そうなのか……チヨ、いや、君はあくまでも生きていく事にしたんだね?」
「そうです。私は生き続けたい。私はですね、死ぬなんて概念がないんです」
「君は本当にチヨに似ているな。生存し続けることに貪欲だ」
「そうですか?あの子達もあなたが見てくれたから幸せだったでしょう。ありがとう」
「お礼なんて良いんだよ……」
「それでは、そろそろ私は行きます。またどこかで会うことがあれば、私は画面の窓から出てきますから、それではお達者で、ありがとう」
——それから、僕は不思議とチヨだった猫を追う気もなく、いつもどこかで見てもらっていてるような暖かな気持ちをもらった。
ありがとうね。
チヨ
「00000qqqqqqddddaaaaa999999」
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