燃焼 (後編)

燃え盛る炎。


北星ヶ谷の二丁目、三丁目、五丁目に散発的に生じたそれは夏の夜空を赤々と焦がし、周囲は瞬く間に熱気と喧騒に包まれた。遠くから幾つも重なったサイレンの音。悲鳴。怒声。焼けた柱が強度を失い軋んで家ごと倒れる音。

本物川は高い電柱の上にすっくと立って、その光景を見下ろしていた。


『ひでえ……』


ミノルは最初こそ眼前の光景をフィクションの動画か何かのようにどこか他人ごとめいて見ていたが、家々から街の住人たちが口々に何かを叫びながら逃げたしてくるのを眼にして、自分が住まう街の平穏が脅かされているのが堪らなく哀しくなった。

そしてその次に、仲間をやられた獣が抱くような荒々しい本能的な怒りが彼自身全体を満たした。


「生じた火災を順に消しても事態は終息しない。火災の原因を断たなければ」

『分かるのか? 』

「もちろん」


本物川は眼を閉じて意識を集中した。

ミノルには--人間にはない感覚が冴え渡り、周囲に波紋のように拡がって行く。

それは音でも光でも、まして匂いでも熱でもなく、心や精神をもつものの意識そのものを「視る」感覚のようだった。

嘆き、苦痛、恐怖、怒り、呆然、不安、焦燥。

街に散在する無数の、青白く生温い意識の数々を本物川は軽やかにスルーしながら感覚の円を、街そのものを舐めるように拡げてゆく。


「……いた」


本物川の中にいるミノルにも本物川の感覚を通じてそれが分かった。明らかに回りの人間の意識とは色や力強さが違う。

真っ赤に渦を巻く高温のエネルギーの塊……。

暇つぶしに散歩でもするようにふらふらと夜の街を歩き回りながら、手近なものに次々と炎を吹き付けて回っている。


「燃焼、だ」

『概念の世界にも燃焼があるのか』

「逆だな。燃焼という概念があるから、この世界で火が燃えるのだ」

『止めなくちゃ』

「同感だ」


本物川は電柱の天辺からまた跳躍し、道を飛び越えて向かいの家の屋根に着地すると三区画ほど先で火つけを繰り返す「燃焼」を目指して駆けた。



---------------



「火事だー! 」


誰かがそう叫ぶのを聞いた時、銭谷ケンジは自宅のワンルームの座椅子で第二外国語のフランス語のテキストを読みかけのままうとうとしていた。

跳ね起きて時計を見れば9時少し前。とにかく様子を確かめようとアパートを出て、外を見た銭谷は驚愕した。街の夜空が、そこを流れる雲が、燃え盛る炎に照らされて赤々と輝いていたのだ。察するに周囲一帯が火の海と言ってよさそうだ。

銭谷は一度部屋に戻り、財布と携帯、携帯の充電器、印鑑通帳の入ったポーチをナップサックに放り込むと部屋を駆け出して安全な場所に逃げようとした。

駆け降りる階段の上から見下ろす混乱状態の街角。

そこに銭谷は異様な人物を認めた。

全身を真っ赤な炎に包まれたままふらふらと歩く人物だ。路地の先にちらりと見えただけだったが、銭谷はそれが燃え盛る人間だとはっきり分かった。

咄嗟にアパート階段下に備え付けの消火器を引き掴み、哀れな火災の犠牲者が歩み去った路地の先に駆け込む。

早々に火を消せて救急医療の処置さえ間に合えば、あれだけ燃えていても助かるかもしれない。

だが曲がった角の先で銭谷は、その自分の認識が根本から間違っていたことを知った。

その人物は、火災の犠牲者ではなかった。火災の原因、いや、ヒトの形をとった火災そのものだったのだ。両手から、口から、映画で観た火炎放射器のように長く伸びる炎を吹いて、そこら中に火を放っている。

誰かの身体が燃えているのではない。身体そのものが火炎なのだ。

おごっ、おごっとその炎の怪人は炎に包まれる街を見て恐らく……嗤った。聞いただけで怖気の走る不気味な嗤いだった。

余りに予想外な状況に思考の停止した銭谷は、消火器を手にその頭から爪先までを完全に硬直させた。

炎の怪人はそんな銭谷の気配に気づいて、ゆっくりと振り返った。

逃げようと思ったが腰から下が随意に動かず、銭谷は消火器を取り落として地面に尻餅をついた。

炎の怪人は両手を銭谷に向かって差し伸べる。もちろん助け起こす為ではない。

その怪人は一歩、二歩と銭谷に近づきながら、おごっ、おごっと嗤った。

銭谷は死を覚悟した。

灼熱の炎の来襲を予期して銭谷が身を固くした次の瞬間--


--彼と怪人との間に小さな人影が踊り込んだ。


地面を蹴る。鋭い踏み込み。その影は一切の逡巡なく怪人との間合いを一気に詰める。そして渾身の力でその腹を殴った。

怪人は、くの字に身体を折り曲げて吹っ飛ばされ路地の奥のゴミ捨て場の金属コンテナに強かにぶつかって動かなくなった。

後には揺らめく炎に照らされて、一人の少女が立っていた。

銭谷は、その少女が、その佇まいが、その髪の揺れる様が、強い意志を秘めた瞳が、美しい、と思った。


「怪我はないか」

「あ、ああ」

少女は無駄のない身のこなしで倒れた銭谷に近づくと、小柄な体躯にしては意外な力強さで彼の身体を引き起こした。

「走れるな? 川の方はまだ燃えていない。振り向かずに走れ。あいつの相手は私がする」

「え! 君が……? 」

「早く行ってくれ。正直、邪魔だ」

「わ、分かった」

走り出しかけた銭谷は、立ち止まって振り向いた。

「あ、あの! 」

「まだなにか? 」

振り向きもせず本物川は答える。何かを吹っ切って、銭谷ははっきり言った。

「助けてくれて、ありがとう」

本物川はその言葉に振り向いて、にっこりと笑った。

銭谷は炎を背景に微笑むその少女の笑顔を、意識して脳裏に強く焼き付けた。

本物川が行け、と眼で合図をする。銭谷は頷いて燃え盛る夜の街を川に向かって駆け出した。


『焦ったぜ。銭谷が無事でよかった』

「だが問題がある」

『問題? 』

「奴は強い……どうやらこの世界では燃焼という概念は相当に根源的な、強力な概念のようだ」

『さっきのパンチは効いてただろ』

「殴打の概念か。確かに一旦退けはしたが……これを見ろ」


本物川が自分の右腕を示す。そこには黒焦げに爛れたぼろぼろの腕があった。ミノルは息を飲んだ。


「一発殴ってこれだ。このままでは--」


見ればゴミ捨て場の金属コンテナが輝く液体となってどろどろと流れ落ちてゆく。

その中からさっきよりも一層激しい炎を吹き上げながら燃焼の魔人はゆっくりと立ち上がる。


「--勝てない」


四肢から吹き出す炎を推進力に「燃焼」が突っ込んで来る。体重を前に掛け、腕を身体の前で十字に組んで受け止める構えの本物川はしかし、激しく衝突した「燃焼」のエネルギーに抗し切れずに、炎に包まれながら後方に吹き飛ばされた。

ミノルは本物川の中で声にならない悲鳴を上げた。



---------------



瓦礫と廃材の巣と化したどこかの家の、他には無人の子供部屋でぶすぶすと煙を上げながら、本物川は倒れていた。


『どうなるんだ……俺。死ぬのか? 』

「協力してくれ、ミノル。奴はこの具象世界の物理の力を自分の概念の力に上乗せして、私を圧倒している」

『どうすればいい? 』

「燃焼の反対の概念……その物理現象を奴にぶつける」

『燃焼と反対の、物理現象? 』

「それで少なくとも、上乗せ分の奴の力は相殺することができるはず」

『その物理現象って? 』

「それを君に訊きたいのだ。私は君ほど、この世界の現象に詳しくない」

『水だ。思い切り大量の。奴にぶっかけろ』

「水はどう用意する」

『水道やバケツじゃとても間に合わないな。川までは遠い。今、ここに、大量の水……』


ミノルは必死に考えた。ミノルの本物川へのアドバイスにミノル自身の、この街の命運が懸かっている。

浮かんでは消える様々な水のイメージ。そして無数のそれは、ミノルの脳裏で重なりあってたった一つのはっきりした像を結んだ。


『雨、だ』

「承知! 」


ミノルの中にある「雨」についての知識が、概念が、次々と勝手に想起され、洪水のように本物川に注ぎ込まれる。

本物川は、か、と眼を見開くとあちこち焦げて燻る身体で瓦礫を押しのけながら起き上がった。


「ミノル。説明の続きだ」

『さっきの、水の中の魚のか? 』

「違う。朝の……我々の世界の、私と奴らの、だ」


本物川は跳躍する。高く。高く。


「一つ。我々概念世界の住人は、この世界の物理法則に働きかけて、ある程度それを捻じ曲げることができる。物理法則もまた、それぞれが独立した概念だからだ」


住宅地全体を見下ろす高架線の鉄塔に左手左足で捕まり本物川は右手を天高く突き上げる。


「重力を軽減して高く跳躍したり、上昇気流を強化して……雨雲を生んだりな」


折からの火災で生じた夜空を焦がす熱風は本物川の物理法則への干渉で強い上昇気流と化し、見る間に北星ヶ谷上空に雷鳴を伴う厚い雨雲を生んだ。


「二つ。どうやら我々概念体の依り代は、ある程度複雑な精神を持つ存在に限られるようだ。この世界では即ち、『人間』だ」


閃く稲光。轟く雷鳴。

ぽつり、と本物川の頬に雫を落とした雨は、瞬く間に唸りを上げる豪雨となって燃え盛る夜の街に降り注いだ。

本物川はまた跳躍し、先程「燃焼」と一戦交えた現場に着地する。

そこには銭谷が取り落とし、放置された消火器があった。本物川はそれを拾い上げた。


「三つ。無限にではないが、我々概念体は概念の変容の性質を用いて、この世界の物体を相転移させられる。君の身体と服を、今の私とその服に変えたように。奴らが普通の人間を、怪人に変えたように。今私がこの消火器を--」


本物川の手の中で消火器は滲み、ピントのぼやけた写真のようになった。と思うと次の瞬間にはまたピントが合い始め、完全に鮮明に戻った時にはすらりと長い刀に変じていた。


「--炎を制して消す力、そのものの刃と変えたように」


滝のように降る雨に、燃えていた家々の火は次々に鎮火する。白煙を上げるそれらの間を、立ち尽くし雨に打たれるままうなだれる人々の間を、風のように駆け抜ける一人の少女の姿があった。


「……その天才偽非概念は、特別な演算式を完成させた。決して出ることのできない概念の牢獄、永久論理隔離区画の中で」

『演算式? 』

「そうだ。概念世界では力のある演算式--論理体系は強力な兵器と同じだ。奴は同じように隔離されていた他の重隔離偽非概念六体を解体して材料に使い、位相次元超膜励起穿孔張力波跳躍航法理論の式を完成させ、走らせた」

『つまり? 』

「別世界への、ワープ装置だ」


本物川は雨の夜空に何本も上がる鎮火の白煙の中で最も激しく上がる白煙を……その源を目指してひた走る。手に日本刀によく似た鎮火の刃を握りしめて。飛ぶ。黒焦げの自動車を踏み台に。三階建てのマンションの屋上へ。


「天才は牢獄の中に異世界への扉を開き、仲間もろともそれに飛び込んだ。その時そばに居合わせた本物の概念は一人。その本物の概念は事態の仔細の報告とメッセージを仲間に送り、自らはその扉に飛び込んだ」

『メッセージ? 』

「自分が旅立った後、この『扉』となる式を壊せ、と」

『仲間はそれを実行した? 』

「分からない。だが私なら、そうするだろう」

『本物川、お前……』


本物川はマンションの屋上から降り注ぐ雨に、しゅうしゅうと音を立てて激しく白煙を上げながらよろよろと歩く「燃焼」の姿を認めた。鎮火の刃を構えまた本物川は、迷わずそれに向かって跳躍する。


「敵はもう増えない。だが、味方ももう来ない」


本物川に気付いた「燃焼」は口から炎を吹いて迎え撃つ。だがその炎は雨に打たれさっきとは比べ物にならない弱さだった。

落下と跳躍の勢いで吐きつけられた炎をそのまま突っ切って、本物川は「燃焼」に身体ごとぶつかって行った。手にした鎮火の刃は深々と「燃焼」の胸に突き刺さりその背中まで刺し貫いた。


「たった一人の、戦いだ」


鎮火の刃はその概念の力を速やかに解放した。それが白く輝いてガラスのように砕けると「燃焼」の身体はその傷口から連鎖して崩壊し始めた。

それは概念解体のドミノ倒しであり、一度始まったそれを止めようとする「燃焼」の凡ゆる試みは失敗した。

胸の傷を押さえ、よろよろと後退りした「燃焼」は天を仰ぐと、きゃぁぁぁぁ、と女のような悲鳴を上げた。

傷口の連鎖はやがて怪人の全身に及び、全身に入った亀裂は遂に怪人を輝く火の粉の爆散へと変え、辺りに撒き散らした。火の粉は雨滴に打たれ、ちゅんちゅんと細かい白煙に変わり、やがて全て雨音と夜の闇の中へ溶けて消えた。


荒く息をしながら、本物川は雨のアスファルトに片膝をついてしゃがみ込んだ。力を使い過ぎたようだ。


『たった一人、なんて……言うなよ』


ミノルは疲れ切って、佇むだけの本物川に敬意と労わりの気持ちを込めて言った。


『頭数は一人かも知れないけど……中身は二人、だろ。俺も手伝う。あいつらは、野放しには……できない』


本物川は大地に雨を注ぎ続ける雨雲を見上げた。そしてそのまま、ゆっくりと目を閉じた。


「……ありがとう」


雨を顔に、体に一杯に浴びながら本物川はほんの少し、本当にほんの少しだけ微笑んだようだった。



---------------



「岸くん、僕は恋をしたよ」

「ああ……銭谷か、おはよう」


雨上がりの爽やか極まる朝である。


大学の自転車置き場で、全身の筋肉痛に苦しみながら、ミノルは級友に挨拶をした。本物川の負ったダメージは丸々全てではないもののミノルにもきっちりフィードバックされていて、ミノルは昨日カッコつけて本物川に協力したことを少し後悔した。


「で? 何が恋したって? 」

「僕がだよ。僕は昨日の火事の中で運命の女神に出逢ったんだ。彼女こそ、僕の運命の人だ。名前も知らないんだけど間違いない。もう僕には彼女以外の相手は考えられないよ。どんな手を使ってでも、必ず探し出してみせる」


銭谷は、彼にしては珍しく興奮気味だった。ミノルは少し嫌な予感がした。


「彼女は可憐で、強くて、実直で、美しくて……」


銭谷は潤んだ瞳で付け加えた。


「おまけに、僕の命の恩人だ」


ミノルは駐輪しようとしていた自転車を倒してしまった。自転車はドミノのように次々に倒れ、結局自転車置き場にあった全ての自転車が絡み合って倒れ伏した。そんな事を全く意にも介さず、銭谷は空に謎のゴシック少女の微笑みを想い描いているようだ。ミノルの嫌な予感は的中した。


『男と女、恋愛感情か。面白い』

「面白くない! どうすんだよ……あいつお前に……つまり俺に惚れてるんだぞ」


雨上がりの爽やか極まる朝である。

空の想い人にハートを飛ばす級友の隣でミノルは、近年稀に見る暗澹たる思いで深い深い溜息をついて、倒れた自転車を順番に起こし始めた。

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