燃焼 (前編)

燃え盛る炎。


北星ヶ谷の二丁目、三丁目、五丁目に散発的に生じたそれは夏の夜空を赤々と焦がし、周囲は瞬く間に熱気と喧騒に包まれた。遠くから幾つも重なったサイレンの音。悲鳴。怒声。焼けた柱が強度を失い軋んで家ごと倒れる音。

本物川は高い電柱の上にすっくと立って、その光景を見下ろしていた。


『ひでえ……』

「生じた火災を順に消しても事態は終息しない。火災の原因を断たなければ」

『分かるのか? 』

「もちろん」


本物川は眼を閉じて意識を集中した。

ミノルには--人間にはない感覚が澄み渡り、周囲に波紋のように拡がって行く。

それは音や光ではなく心や精神を持つものの、意識そのものを「視る」感覚のようだった。

嘆き、苦痛、恐怖、怒り、呆然、不安、焦燥。

街に散在する無数の、青白く生温い意識の数々を本物川は軽やかにスルーしながら感覚の円を、街そのものを舐めるように拡げてゆく。


「……いた」


本物川の中にいるミノルにも本物川の感覚を通じてそれが分かった。明らかに回りの人間の意識とは色や力強さが違う。

真っ赤に渦を巻く高温のエネルギーの塊……。

暇つぶしに散歩でもするようにぷらぷらと夜の街を歩き回りながら、手近なものに次々と炎を吹き付けて回っている。


「燃焼、だ」



---------------



安らかな空気のどこか。


だがどこだか全く憶えがない。

違う。ここは「場所」ですらない。

ミノルはその不思議な感覚に戸惑いながらも、その優しく和やかな雰囲気そのものには満足を覚えていた。


ふと周囲に意識を向けると、すぐ側にもう一人、誰かいるのが分かった。

いや。それもまた所謂「人」ではない。魂のような、心そのもののような、ふんわりとした誰か。

ミノルはその誰かが好きだった。

その誰かがいるから、今ここはこんなにも心地よいのだ。

隣の魂が穏やかに明滅する。ミノルはそれに応えて同じリズムで明滅した。そう、ミノルも今は肉体を持たない光というか波というか、とにかく魂みたいなものだけの存在だった。

ミノルは更に隣の魂との濃密な接触を欲して、意識の手をそちらへ伸ばした。だが相手の魂は伸ばした手の分だけ遠ざかり、ミノルのそれに触れようとする試みは失敗した。

更に手を伸ばす。また遠ざかる。

何度かそれを繰り返した後、急に周囲の空気が変わった。

暗く息苦しい雰囲気。冷たい風。

ミノルは切実な思いで愛しい魂に手を伸ばした。名前を叫んだ気もする。

だが自分とともにあるべきその魂は急速に遠ざかると、暗転した世界の果てに音もなく消え去っていった。それが永遠の離別だと分かって、ミノルは血を吐くような悲鳴を上げた。


「うわっ! 」


自宅のアパートで叫びながら目を覚ましたミノルは、自分の身体と周りの布団や床を思わず手でまさぐって確かめた。霊魂のような存在だった感覚、暗闇の雲の中に飲まれ、無と同化してゆくような感覚が、まだ身体の芯に残っている。時計は五時を少し過ぎたところ。窓の外は白んではいるがまだ暗い。嫌な汗をウェットティッシュで拭って、ミノルは大きく溜息をついた。


「夢、か」


布団から抜け出すとジャージ姿だった。洗濯物は部屋干しされ、整髪料が落ちていることから入浴したことも疑いない。ゴミ箱にはコンビニ弁当の食べがらが捨てられており、切らしていたはずの烏龍茶は飲みさしの二リットルのペットボトルが冷蔵庫に入っていた。


「疲れてんのかな……変な夢を立て続けに」


きちんと充電されているスマホでニュースを検索する。

神社の倒壊も、神主の謎の死も、検索には掛からなかった。


「……だよなあ。パンチの怪人に襲われて、美少女に変身してそれと戦うなんて。あるわけねえわな」

『今後はな』

「……ん? 」

『奴は昨夜の戦いで、もう完全に無意味化した。今後あの殴打と戦う心配は無用だ』


沈黙がミノルの部屋を満たした。

ちゅんちゅんとスズメの鳴く声。

原付きのエンジン音が近づき、遠ざかっていく。


「……ん? 」


スマホのニュース検索結果の画面に照らされて身じろぎもしないまま、ミノルはもう一度繰り返した。


「……ん? 」



---------------



「あいつは片付いたんだ。もう元の世界に帰れよ」

『この世界に逃走した偽非概念は殴打だけじゃない。奴を含め全部で四十二の重隔離偽非概念がこちらに来ているはずだ。それらを無意味化するまでは、帰るわけには行かない』


混乱の夜は明け、見掛け上はいつもと変わらぬ朝が来た。

時刻は8時20分。大学に向かう道を自転車で走るミノルの、ペダルを漕ぐ足取りは重い。


「重隔離偽非概念? 」

『……君にも分かるように、順を追って説明しよう』


ミノルの胸中に相反して、抜けるような青空の爽やか極まる朝である。


早起きな蝉の鳴き声。挨拶を交わしながら行き交う地域の人々。交通安全ボランティアの老人と、彼らに導かれて道路を横断する集団登校の子どもたち。

ミノルはこの街の朝が好きだった。

埼玉の中堅都市の端っこの、古き良き下町の佇まい。決して都会育ちとは言えないミノルの肌身に丁度良いのどかさ加減だった。


『先に言っておくが、私の使う用語の名称や用法は、君の世界の--この世界の辞書的な意味や用法とは必ずしも合致しない』

「どういうことだよ」

『私の世界にしかない事象を、この世界の表現で正確に表すことができないからだ』

「大体なんでお前はこの世界の言葉がペラペラなんだ? 」

『君の記憶中枢と言語野を間借りして常時参照させて貰いながら会話している』

「便利なもんだな」

『ここまでできるようになるまで苦労した。全てが初めてで、手探りだったからな』

「……で? 」

『だからこれから私がする説明は、君の記憶中枢にある様々な言葉や概念の中から、比較的語弊が少ないだろう用語を選んで無理矢理に私の世界の事象を説明することになる。それを前提で聞いてくれ』

「断る権利はないんだろ」

『君にとっても重要なことのはずだ』


校門を抜け、左に折れて駐輪場の屋根の下に自転車を停める。止まり木のスチールパイプにワイヤーロックを掛けると、ミノルは自分の学部の教室が集中する6号館に向けて歩き出した。


『昔むかし、肉体を持たない色々な概念が住む概念の世界がありました』

「お前……ちょっと俺の頭を悪く見積もり過ぎじゃねえか? 」

『概念の世界にも悪い奴がいます。他の概念と相容れず、ただただ自分の概念を押し付け無理強いし、他の概念の害になって概念世界の調和を乱す、偽非概念です』

「犯罪者、みたいなもんか」

『概念世界の住人たちは偽非概念を取り締まり、程度の酷いそれらは厳重に隔離して、平和を保っていました。その行使者が、本物の強い概念たちです』

「警察官や衛兵みたいな立場だな」

『さて。そんなある日、重隔離偽非概念たちが閉じこめられている永久論理閉鎖区画に異常事態が起こります』

「異常事態? 」

『隔離されていた一人の天才偽非概念が論理閉鎖区画のその内側で、一つの演算式を完成させたのです。それは--』

その時、ぽん、とミノルの肩を叩くものがあった。

「よ。岸くん。朝から独り言?ビリー・ミリガンごっこ? 」


同じ学部で同じサークルの銭谷ケンジである。

茶髪に派手なTシャツ、やれたジーンズに革のポーチ。下がるチェーンは財布に繋がっているのだろうか。

ミノルは曖昧に笑って誤魔化した。


「社会福祉概論か。銭谷も一限から真面目だな」

「お互いな。学費の分は身につけるもの身につけないと、親に申し訳ない」


女性とは大した縁のないミノルから見て、整った顔立ちで今風な銭谷に彼女がいないのを知り合った当初は不思議に思ったものだが、今ではその理由がなんとなく理解できた。

この男の、今時なやや不良っぽい出で立ちにどこか古風で律儀な性格、という取り合わせが災いしているのだ。

所謂チャラい女性はその意外に真面目な立ち振る舞いに息苦しさを感じるだろうし、古風で真面目な女性はその見た目のセンスで敬遠するのだろう。


『説明がまだ終わってない』

「後にしろ。俺の社会的地位が抹殺されたらお前も困るだろ」


銭谷に気付かれないように注意しながら、ミノルは頭の内側から話しかけてくる本物川を制した。

そのまま高くもないテンションで、銭谷から振られたサッカーの話題に興じる。

級友と交わす取り留めのない日常の会話。当たり前であるはずのそんななんでもない行いが、今のミノルには乾ききった喉を潤す冷たい水のように、切実に必要なものとして急速に染み渡っていった。



---------------



「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様でーす」


サークルの部会が終わり、ミノルは荷物を片付けて帰ろうとしていた。


「ミノル君」


そんなミノルを、誰かが呼び止めた。

振り向けば、アースカラーの服に肩までの髪、黒目がちな大きな瞳の小柄な女性が立っていた。

2年生の加野リョウコである。

ミノルも銭谷も加野も、地域の子供会支援サークル「ミラクルキッズ」に所属する。子供が親しみやすいよう、活動中は先輩後輩関係なく下の名前で呼ぶ、というのがサークルでのルールだった。


「リョウコ先輩。なんです? 」

「会報委員の件、考えてくれた? 」


北星ヶ谷近郊の四つの地域の子供会を支援するボランティアサークル「ミラクルキッズ」は現役の学生だけでも総勢八十余名の大所帯である。創設から三十周年を数えるこのサークルは、その創設当初から会員向けに四子供会の活動報告や最新の子供会事情、児童関連のニュースなどを纏めた「わらべ」という月刊の会報を連綿と発行し続けている。会報製作は有志の会報委員によってなされるが、今年の一年にはまだ一名しかそのなり手がおらず、副部長でありまた会報委員長を兼任する加野からミノルに声が掛かっていたのだ。


「あー。俺、バイトが割と忙しくて……うち、兄弟が多くて仕送り少ないんで、がっつり働かないと生活苦しいんですよ」

「そこをなんとか! お願い! メイコちゃんだけじゃ大変過ぎるし……『わらべ』を私たちの代で途切れさせたくないのよ」


ミノルは迷った。

銭谷ではないが、大学ではきちんと勉強もしたい。読みたい本もあるし、一人暮らしの生活は暮らしそれだけで意外なほどリソースを喰う。バイトとサークルの通常の活動の準備と、更に会報の原稿や校正、編集……。

オーバーワークではないだろうか。

だが正直に言ってしまえばこの先輩のことは好きだった。女性として意識している。いや。なるべく表に出さないようにしているが、恋心を抱いていると言っていい。

理性と情愛の間に板挟みになったミノルは眉を寄せて唸った。


「ね! 今度、ごはん奢るから」


困った顔の美人の先輩のその一言で、ミノルの心の天秤は片側に大きく傾いた。


「分かりました……いいですよ」


我ながらなんてチョロいんだ、と自分に呆れながらも、ミノルは喜んで謝辞を述べる加野の姿にささやかな幸せを感じていた。



---------------



『さっきは面白かった。男と女、恋愛感情か。肉体に準拠する概念に触れるのは新鮮で、私にとっては良い経験になる』

「……俺にもうプライバシーはないのかよ」


自宅のアパートで洗濯をしながら、ミノルはなんとかこの本物川を頭の中から追い出す方法はないものか、と深い溜息をついた。

とっぷり日も暮れて夜の帳は滞りなく北星ヶ谷の街を押し包み、付けっ放しのテレビではお笑い芸人が海外の絶叫マシンに乗る様子が虚しく垂れ流されている。


『昨晩、殴打と戦った時。好きな姿を思い浮かべろ、と言われてなぜあの加野リョウコを思い浮かべなかったんだ? 』

「そこは我ながらGJだと思うわ。もしそんなことになってたらリョウコ先輩にめちゃくちゃ迷惑が--」


掛かる、と言い切る前に目の前が真っ暗になった。ミノルの身体の自由は奪われて、本物川がゴシックな服装のツインテールの美少女の姿で、ミノルの部屋に現出した。


『あ! こら! 勝手に……』

「ふむ……この姿は女性のようだが、やはり加野リョウコとは違う」


本物川はユニットバスの鏡で変身後の自分の姿を確認していた。その眼を通して、ミノルにも初めて変身した自分の姿の全貌が見えた。

中学生の頃ハマっていた美少女バトル漫画の登場キャラクターである。


「では誰なのだ? これは」

『漫画の登場人物だ。実在の誰かじゃない』

「書物の絵画の人物? 君は同じ血肉を持つ生殖も可能な実在の女性より、紙媒体に印刷されたインクの象形であるところの架空の人物の方が好きなのか? 」

『咄嗟のことだったから……よく憶えてねえよ』

「架空のキャラクター、か。肉体自体も加野リョウコより大分未成熟なようだが」


本物川は美少女の自分の身体の胸や尻を揉んだり引っ張ったりして確かめだした。

その感触が本物川の触覚越しにミノルにも伝わって、ミノルは本物川の中で赤面した。


『やめろよ! 俺が悪かった! 謝るから、なんかもう誰か他の姿になってくれ! 』

「それは無理だ。君の中で私は、この姿、『本物川』という名前で定義された。概念そのものである私は、この世界の拠り所である君の定義を外れては存在できない」

『再定義すればいいだろ』

「君はこの世に生まれ直すことができるのか? 」

『そこは概念なんだから、ふわっと柔軟になって対処しろよ』

「朝も言ったろう。私の使う用語は、必ずしもこの世界の辞書的な意味とは合致しない、と。分かりやすく説明するとだ。例えば水の中に魚がいたとして--」


そこまで言いかけた本物川は言葉を切ると、何かに気付いて弾かれたように窓に向かい、一気にそのガラスを全開にした。


『おい、そのかっこで窓から顔出すなよ』

「静かに! 」


本物川は耳を澄ませるような仕草をした。


「感じないか? 」

『……何を? 』

「奴らの内の一体が、また具象化した」

『奴らって……まさか、おわっ⁉︎ 』


本物川はアパートの二階の窓から宙に身を躍らせると、一度アスファルトの生活道路に着地し、更に跳躍して塀から立ち並ぶ住宅の屋根へと上がり、屋根伝いに矢のように疾走した。

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