概念戦士・本物川

木船田ヒロマル

殴打



目があってしまった。

変質者……というよりあからさまに異常な「怪人」と。



大学一年生の岸ミノルはバイトを終えて自転車で一人暮らしのアパートへの帰途にあった。

七月も半ば、うだるような暑さの熱帯夜である。さっき見た時計は9時を回っていた。コンビニに寄って夕飯を買い、風呂に湯を張って溜まるまでに洗濯物を……と、帰宅後の段取りにぼんやり思いを巡らせながら半端にスポーティなママチャリを漕ぐ。

住宅地と線路に挟まれたこの道は今だに古い水銀灯が広い間隔で並ぶ率直に言えば裏ぶれた陰気な道で、この時間帯ともなれば女子供は勿論、働き盛りの男性と言えどまず見かけない。たまに通る疲れた労働者をまばらに乗せたJRの通過音と、縄張りの守備に真摯な飼い犬の鳴き声と、自らの漕ぐ自転車の走行音だけが、いつもなら聞こえる音の全てだった。

だが今日に限っては違ったのだ。

彼の耳はその音を聞いた。

ずしん、ずしん、と重いもの同士がぶつかるような一定のリズムの音。

思わず自転車のブレーキを掛けて耳を澄ませたのは、彼がその音に異様な雰囲気を感じとったからだ。十八年そこそこの長いとは言えない人生を振り返っても憶えのない響き。自分のことを好奇心が強い方だと思ったことはなかったミノルだが、今回は未知の出来事への恐怖より新奇なイベントへの興味の方が打ち勝った。

住宅地は途切れ、左手は鬱蒼とした木の生い茂る高台の山肌。右手はフェンスと数メートルのコンクリの土手の下にJRの線路が見下ろせる。

音はどうやら左手の高台の森の中から聞こえるようだ。

ミノルは自転車を降り、その自転車を押しながら森の中に上がってゆく道がないものか探しつつ歩いた。程なく小さな朱色の鳥居と荒く傷んだコンクリの階段が森の中にぽっかりと口を開けているのを見つけた。

ごくり、と唾を飲み込む。

ずしん。

まだあの音は聞こえる。

どうやらここを上がったところが、音の発信源らしい。

ミノルは迷った。

もしかして自分は今、無用なトラブルに首を突っ込もうとしてはいないか。このまま再び自転車にまたがって唐揚げ弁当と烏龍茶を買って帰り、録画してあるバラエティーでも観ながら遅い夕飯を食べるのが常識的で賢い選択なのではないだろうか。

ずしん。

待て。何かとんでもない事態が起きていて、助けを必要とする誰かがいたらどうする。例えばそれを後から知って、後悔しないか。あの時あの場にいたのに無視して帰った自分を責め苛むことになりはしないか。

ずしん。

いや。そもそもとんでもないことってなんだよ。常識的に考えて、そうそう「とんでもないこと」がそんじょそこらにあるわけがない。きっと工事か何かを事情があって遅くまでやってるってだけだろう。なら--


「確かめりゃ、すっきりするわな」


がしゃん、と勢いよく自転車のスタンドを立てバイト先の制服の入ったバックパックをその籠に放り込んで、ミノルは微妙に一段一段の幅が広いその階段を登り始めた。

高台を覆う木々は下から見るより密に繁茂しており、階段とその周囲の空間はさながら黒い森に細く通されたトンネルのようである。

ずしん。

空気の響きだけでなく微細ながら地面の振動も伴って、あの音が聞こえる。階段を登るにつれ、確実に近づいている。

一瞬怖じ気づいたミノルだったが、なに、いざとなれば逃げればいいさ、とどこか呑気な理屈で自分を鼓舞して一層力強い足取りで階段を登った。

森は急に開けて、満点の星が広がる広場が唐突にミノルの前に現れた。

まず目に入ったのは廃材の小山だ。大き目の家一軒分くらいはあろう。屋根などはほぼそのままの形で、廃材の小山を覆うようにだらしなく瓦をずらしながら斜めに佇んでいた。

次に目に入ったのは左手の大きな石碑である。

天然の大きな岩に、そのまましめ縄を巻いたような何かの碑が、傘付き裸電球の街灯の頼りない灯に浮かび上がっている。

ずしん。

小屋ほどの大きさのその岩が、あの音を立てた。

いや、岩が鳴っているのではない。

よく見るとその岩の前に人影が一つ立っている。

その人影が、ゆら、と揺れる。

ずしん。

あの音が響く。

(あの人が、あの音を出してるのか……何やってんだ? )

ミノルは一歩踏み出し、岩と人影とを更に良く確かめようとした。

ぱきっ。

ミノルの踏んだ木の枝の折れる音は、意外な大きさで広場に響いた。

一定のリズムで鳴っていた重たい音が、止んだ。

人影は揺れたが、さっきまでとは明らかに様子が違う。

振り返ったのだ。そしてその人影が裸電球の灯りが作る縦長の三角形の中にのそりと入り込む。


目があってしまった。

変質者……というよりあからさまに異常な「怪人」と。


ちぢれた針金のように細い身体。

黒ずんだサヤエンドウのような異様な形状の頭。その頭の真ん中で、あまりにも丸く大きく光る二つの眼。身体とは明らかに不釣り合いに屈強な腕。

何よりその腕の先で黒光りする巨大な鉄球のような拳。

どこか夢を視るような心地で目の前の現実に頭を麻痺させながら、ミノルは唐突に理解した。

ここは神社だ。

あの廃材は神社の社。

あいつが、あの怪人が殴って潰したのだ。

そして今、あの岩を殴って、さっきまでの音を立てていたのだ。

いけない、何か--

「やばい」

ミノルが思わずそう漏らしたのと同時に、怪人は亀裂のような笑みを浮かべた。

次の瞬間、怪人は恐るべき速さで真っ直ぐミノルに突っ込んで来た。

逃げるか、躱すか、判断しあぐねたミノルの身体はただただ硬直する。

ミノルは生まれて初めて本気で「死」を覚悟した。

くえええ、と鳥のような叫びを上げながら怪人は拳を突き出した。その無慈悲なハンマーは動けないミノルの胸骨と肋骨を砕き、皮膚や内蔵を着ている服ごと引き潰しながらその背骨をも粉々に--しなかった。

ミノルの身体は、全く意図しない何かの力によって高々と夜の空に舞っていた。そしてそのまま放物線を描きながら落下する。

『死ぬ気か。間抜け』

あまりの出来事の連続に、完全にパニックに落ちいった彼の脳裏に「声」が響いた。

『ようやく回線が繋がったと思った途端に死なれちゃ困る』

ミノルは自分の身体が彼の支配を離れ、他の何ものかによって動かされていることを知った。その何ものかは、ミノルの身体を空中で綺麗に回転させると、猫のように柔らかく着地させた。


「だ、誰だ」

『詳しい話は後だ。当面の問題を先に解決しよう』


怪人は今度はボクサーのようなファイティンポーズを取った。そしてそのまま細かいステップでダッキングをしながら、ミノルとの距離を詰め始めた。


「なんなんだよアイツは! 」

『時間がないからざっくり言うぞ。あいつは偽非概念だ。殴打、という偽非概念がこの世界に現出したものだ』


「殴打」はミノルの周りを一定の距離で周りながら時に鋭く踏み込んで来て激烈なパンチを見舞って来た。しかし何ものかが操るミノルの身体は風に揺れる柳のようなしなやかな動きでそのパンチを尽く回避した。


「お前はなんなんだ! 」

『私は本物の概念だ。アレを追ってこの世界に来た。出口を出たら君の中だった』


一際鋭いパンチが、ミノルの左の頬を掠めた。巨大な質量が高速で至近を通過するその音に、ミノルは戦慄した。


「ど、どうすりゃいいんだ! 」

『身体をあけ渡せ。このままでは私も力を発揮できない。この身体を私にしばらく貸してくれ。安心しろ。ことが終われば返す』

「信用できるか! 」

『もっともだが、君に選択肢はないはず--』


「本物の概念」の言葉は遮られた。「本物の概念」のコントロールですら避けきれないパンチを、ミノルの身体が両手でがっちり受け止めたからだ。

だが不思議と骨も折れなければ、後ろに吹っ飛ばされもしなかった。


『変化を拒むな。本物の流れに身を委ねて同化しろ。やがて大きな水の塊に流れつく、一つの雫のように。君はその、束なった流れだ』

「流れて海に……同化する? 」

『……なるほど。この世界の住人のイメージは興味深い。川……か』


怪人は両手の塞がったミノルの顔を粉砕しようと、自由な方の拳を大きく振りかぶった。


『好きな姿を思い浮かべろ。それが私の現し身となる。君に名乗ろう。私の名前を。この世界での私の名は--』


空を切り裂く超重量の拳がミノルの顔目掛けて振り下ろされる。


『--本物川』


光。

力の奔流。

その炸裂。

全てが刹那に起きた。

怪人は吹き飛ばされて、しめ縄の岩に背中から叩きつけられた。

溢れた光が収まると、そこにはゴシックな服装のツインテールの美少女が立っていた。


『なんだ⁉︎ どうなったんだ⁉︎ なんだこれ⁉︎スカート⁉︎ 』

「私に訊くな。好きな姿、と聞いた瞬間に君が思い浮かべたイメージだ」

『あ! 身体! 俺の! ……入れ替わってる⁉︎ 』

「すごいな。この世界は。肉体と感覚、か。アレがここを逃走先に選んだのも合点が行く」

『早く返してくれ! 俺の身体! 元に戻せ! 』

「いいだろう。但し--」


「本物川」は跳躍した。

地を這うように。水平に。偽非概念「殴打」に向かって。

起き上がろうとする「殴打」に突っ込んだ本物川はその鳩尾に強烈な突きを見舞った。衝撃波に木々は震え、かん、と意外に甲高い音が高台全体に響き渡った。


「--当面の問題を、先に解決してからだ」


「殴打」のガラス玉のような無機質な眼が驚愕と苦痛とで飛び出さんばかりに見開かれている。裂けた割れ目のような口からは、何か透き通った液体がぶちまけられた。

「殴打」が打ち付けられたしめ縄の岩がびしり、と身じろぎする。

その岩に「殴打」との接点を中心に蜘蛛の巣のように亀裂が走る。

「殴打」が、えぐっ、と嗚咽のような声を漏らしたのをきっかけに、しめ縄の岩は粉々に砕け散った。

同時に「殴打」の姿はどろどろと滲み始めた。

べちゃり、と音を立てて地面に倒れたそれは、煮立ったシチューのようにぐつぐつと泡立ちながら、真っ黒な粘性高いの液体の水溜りになった。

そしてそこに、ミノルにも見覚えのある物体が浮かび上がって来た。

人の、頭蓋骨。肋骨。肩甲骨。


『……なんだよ、これ』

「……偽非概念に身体を乗っ取られた被害者だ。恐らく、この建造物の主人だろう」

『神社の神主さん……じゃあ、じゃあ俺は……! 俺は神主さんを……! 』

「君は悪くない。厳密にはカンヌシサンとやらを殺したのはさっきの偽非概念で、その偽非概念を無意味化したのは私だ」


本物川の鼻を通して脳裏に拡がる腐肉の臭い。

ミノルは本物川の中で、声にならない悲鳴を上げた。

そして本物川の眼でみた人間の頭蓋骨を意識に焼き付けながら、気を失った。

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