斬撃 (前編)

長身の、スーツで素足の男は柔らかな仕草で手にした刀を構えた。


両手持ちの上段の構え。自然で無駄な力みのない、だが力強い構えだ。

対する本物川は同じく両手持ちの青眼の構え。

しかし対峙した敵--「斬撃」に対し勝てるイメージを抱けずにいるようだ。


その理由はミノルにも分かった。漫画などではよく目にする「隙がない」ということの意味を、今こそミノルは体得した。


『剣にも戦闘についても俺は素人だが、そんな俺にでも分かる。あいつは無茶苦茶強い。あいつには……剣では勝てない。そうだろ? 』

「ああ。奴が本物の概念だった頃、十一回の模擬論戦の機会があったが、私はことごとく負けた。斬撃に特化した偽非概念となった今……奴の刃の冴えは私のそれを歯牙にも掛けていない」

『どうするんだ? 斬られて終わりか? 俺も。お前も。……この街も』


生温い風が重たく辺りのものを舐めて吹き抜ける。

本物川は玉のような汗を額に浮かべ少し深く息をして、早鐘のように鼓動を刻む心臓を落ち着けようとしているようだった。


「ミノル……頼みがある」


小さな声でとても苦しそうに、本物川はミノルに懇願した。



---------------



これは夢だ。


霊魂のような、実体のない存在の自分。もう一つの愛しい魂。

柔らかな雰囲気から冷たく暗い雰囲気へ。

二度目だったので、ミノルはその不思議な感覚に身を委ねながらも、どこか冷静に状況を把握できていた。

だが、以前に視たシーンとは微妙に違うシーンのようだ。

愛しい魂は何か別の、不吉な黒い魂から干渉を受けている。害になる良くない干渉だ。

ミノルはそれを止めさせようとするが、愛しい魂はそれを拒絶する。触れればミノルもまた、悪しき干渉の感染を受けるからだ。

ミノルは叫び、嘆いた。

愛しい魂は柔らかく明滅しながら見る見る黒ずんで、力を失くしてゆく。

その傍で不吉な黒い魂は笑った。


怒り。悲しみ。憎悪。愛。


全てが入り混じる灼けた鉄のような感情が、叫びとなって辺りにこだました。



---------------


「おおッ!!! 」


飛び起きたミノルは、自分が汗だくなのを知った。


息が荒い。胸にはまだ、さっきまでの憤りの残滓が燻る。やはり夢だった。

ミノルはふと、最近よく見るこの妙な夢の原因に思い至った。


「本物川。起きてるか? 」

……。


返事はない。

概念も眠るのか、それとも人間に憑依してるからそうなるのか、答えの出ない疑問を抱きながら時計を確認すると午前九時半を少し過ぎた所。

「マジか……? やっべぇ! 」

アルバイトに完全に遅刻する時刻だった。



---------------



スーパーマーケット・ヨツバの事務所に、アルバイトを終えて帰りかけていたミノルは呼び出された。


呼び出したのは直接の上司の平田である。

「今日はすみませんでした」

ミノルは遅刻のことだと思い、謝罪した。きちっと七三分けにした頭に黒縁の眼鏡をかけた三十半ばの痩せた男は、ミノルに椅子を勧めた。


「ああ、珍しいな遅刻なんて。初めてだろう」

「ええ、多分」

「そういうこともある。次から気を付けてな」

「はい。ご迷惑をお掛けしました」

「で、君の今日のレジ、マイナス三千二百十一円出てるんだ」

「……え? 」


ミノルは狼狽えた。

このスーパーで働き始めて三ヶ月余り。入ったレジから現金の過不足を出したことはなかった。


「二回数えたが間違いない。三千二百十一円、って額に何か憶えはない?」

「すいません、特に……」

「ダブルカウントは? 」

「してます」

「小銭の授受にカルトンは? 」

「はい。教わった通りに」


レジのトレーニングは平田に直接受けたのだ。


「うん。監視カメラの画像見たけどルール通りの運用してくれてるみたいだったね。なんで差異出たんだろうな」

「……すいません」

「うーん。岸君は今まで差異は全然なかったし、勤務態度も真面目で一生懸命だからな。クビだとかレジから外すとかって話ではないんだ。僕としては、君の仕事を信用してる。とにかくダブルカウントとカルトンの使用、額面は声に出して読み上げて、何か不審な事があったらすぐサービスコール。いいね? 」

「はい。申し訳ありませんでした」

「うん。もう少し調べてみるよ。何か分かったら報せる。今日はもういいよ」

「ありがとうございます。申し訳ありませんでした。……お疲れ様でした」


頭を下げて事務所を退出する。

時計を見ると午後二時五十六分。

三時からの会報委員の集まりには遅刻が確定している時間だった。



---------------



『ミノル、代わるか? 私が屋根伝いに走った方が……』

「自転車を置いて行けない。それに変に目立つのは俺にもお前にも不都合だ。自分で頑張って漕ぐよ」


会報委員長である憧れの加野リョウコに遅刻する旨のメールを入れ、ミノルは学校までの道程を懸命に自転車で走っていた。


『すまない。ミノル。私のせいだろう』

「何が? 」

『君が遅刻するほど寝坊したのも、就労の作業工程に誤処理が生じたのも、私というイレギュラーが君の日常に割込んだこと……その結果君に蓄積しているストレスが原因じゃないのか? 』

「……どうかな」

『加野リョウコは君の意中の異性で、彼女との約束に対して社会的マナー違反である遅刻をすることは、君にとっては恥辱であるはずだ』

「まあな」

『私が君に入り込んで、とんでもない事態に巻き込んだりしなければ……』

「本物川」

『なに? 』


大学の校舎が見えてきた。どうやら最小限の遅刻で済みそうだ。


「お前が俺に取り憑いたのは、お前にとっちゃ不可抗力だったんだ。別にお前を責める気はねえよ。レジ差異だって俺のミスだし、遅刻はその結果だしな」

『しかし……』

「それにお前がいなきゃ、俺はあの殴打にやられて死んでたし、この星ヶ谷の街は燃焼にやられて焼け野原だったんだ」

『……』

「思うところがなんにもないっつったら嘘になるけど、感謝してるし、今後もできるだけ手伝うさ」

『……ミノル』

「重隔離偽非概念。あいつらは野放しにはできねえ。それは俺たちにとって共通の思い……いや、誓い、だからな」


ラストスパート。ミノルはペダルを漕ぐ足に一層の力を込めた。


---------------



広澤メイコは会報に使う用紙の束を運んでいた。


A4コピー紙二箱が平たい樹脂の紐で括られたそれに、彼女は一人悪戦苦闘していた。

印刷室までの道はまだ半ばである。

紐を解いて一箱ずつ運べばいいかも知れないが、とすると一旦はこの路上に用紙一箱を一旦放置することになる。万一その間に、かつかつの予算からようやく購入した用紙の半分に何かあれば彼女の立場がない。


最初から無理せず一箱で出発すべきだったのだが、リョウコ先輩の前でカッコ付けて安請け合いしたのだ。彼女はそれを後悔し始めていた。

そもそも非力で病気がちな自分である。それが板に付いたからか、見た目も幸が薄そうだと自覚している。分不相応な荷物を、はぁはぁ言いながら運ぶ自分は、他人から見たらさぞ滑稽で惨めなことだろう、とネガティブな考えがメイコの心中に夕立の前の雨雲のようにもくもくと広がる。


腕の筋肉は悲鳴を上げ、握力は両手とも限界だ。

大体にして、自分は貧乏くじの星回りなのだ。誰もやりたがらない係は、いつも自分に回ってくる。

小学校の時の生き物係、中学校の時の保険係、高校の文化祭実行委員、そして大学サークルの会報委員。

断り切れず、決まらない会合の押し付けあいの空気に負け、なんとなく引き受けてしまう自分。

きっと自分は、一生こうして貧乏くじに四苦八苦しながら生きてゆくのだろう。

メイコはそう思うと目の前が暗くなったように感じた。


それでもなんとか引き受けた荷物を運び切ろうと、紐を持つ手を持ち直そうとした瞬間、


「あっ! 」


指から紐はずり落ち、箱は重力に引かれて落下した。

スローモーションで緩く回転しながら落ちてゆくコピー紙の箱。角から落ちれば何十枚も紙がダメになる。


極端に遅くなった時の流れの中でメイコは絶望していた。

自分のダメさ加減に。引き受けておいて引き受けたことに後ろ向きで、ミスをする自分の不甲斐なさに。今後とも似たようなことを繰り返すだろう自分の将来に。


ダメになった分は自腹で弁済しよう。一体幾らくらいかかるだろう?ああ、今月はネットのし過ぎで規定容量超過分の料金の払いがあって苦しいのに。母は月末近くにまた米を送って来てくれるだろうか。母の米の宅配便があればなんとか凌げるだろうが、ないとなると今月を黒字決済にするのはかなり厳しい。母にお米をそれとなく催促するか。いや、それもどこかみっともない。どうしよう--。


そこまで実時間のコンマ四秒でメイコが考えた時。


「おっと! 」


男の子の声を合図に、時の流れは唐突に元に戻った。


コピー紙の箱は地面すれすれでその紐を誰かの手にキャッチされて、ダメージを免れている。

驚いて振り返ると、いつの間にかメイコのすぐ背後に、同じサークルの岸ミノルが立っていた。用紙の箱を救う為、メイコに寄り添うような近距離で。


「セーフ! 」


岸はそう言って、顔をくしゃくしゃにして笑った。メイコは咄嗟に可愛い、と感じてその愛敬ある笑顔から目が離せなかった。

だが次の瞬間、ふいに服が触れ合うほどの距離に同じ世代の男の子が立っていることを意識して、慌てて後ずさろうとした。そこに校舎沿いの、一段高くなった歩道の段差があった。


「きゃあ⁉︎ 」


足を取られたメイコはバランスを崩して転倒のモーションに入る。

彼女は本日二度目のスロー時間の中で、本日二度目の絶望をしていた。


「よっと! 」


時間の流れを元に戻したのはまたも男の子の声、そしてその左手だった。

力強くメイコの左腕を掴み、倒れないように支える手。

見れば岸の表情は真剣な、険しいものに変わっており、さっきとは打って変わって若者らしい凛々しさが表に出ていた。


「大丈夫か? 」


メイコは段差に気をつけながら足の位置を取り直すと


「あ……ありがとうございます」


小さな声でやっとそれだけのお礼を言った。


岸はメイコがしっかり立ったのを確認してから彼女の腕から手を離した。メイコの右腕の強く握られた部分は、手を離されてなお、少し、じぃん、と余韻が残った。


「いいって。こっちこそ遅れて悪かった。その分今から働くからさ。これ、印刷室までだろ? 」

「う、うん」


慣れない男の子との遣り取りにどぎまぎしながらメイコは普通に振る舞おうと全力で努力した。


「よし、一緒に行こうぜ。んで何をすればいいか教えてよ。俺は今日が初めての会報委員活動なんだ」

「あ……うん。分かった。私は、広澤メイコ。すくすく子供会の」


同じ一年生だが、違う子供会で活動していると、意外と接点は少ない。だが週一の部会では同席して話し合いをしたり研修を受けたりしている。メイコは勢い初めて会ったような挨拶をしてしまったことを後悔した。


「知ってるよ。でもまあ改めて自己紹介ってのもありか。青空子供会の岸ミノル。今日からよろしくお願いします」


岸はそう言って深々とお辞儀した。


「こ、こちらこそ。よろしく……お願いします」


岸に負けないように深々と頭を下げながら、メイコは今回の役回りだけは貧乏くじではなく、当たりくじかもしれない、と思っていた。



---------------



『物理媒体への情報の転写と、その複製か。なるほど。具象世界ならではの手段だな』


本物川はミノルの会報委員としての一連の作業に対して、そう感想を述べた。


文化会の印刷室は、中にコピー機が並ぶ一棟の小屋として独立している。

コピー機本体に差し込むソケット式のカウンターの四角いユニットが起動キーを兼ねていて、使用者はそれを総務課から借りて、使い終わったらカウンターの印刷数と部活やサークルの名前、代表者の名前をログに記載して返すのだ。

借り物であるカウンターを挿しっぱなしで放置はできないので、誰かが印刷中の機械を見ておく必要があるのだが、今はミノルがその役割だった。印刷小屋の中は事務机に頬杖をつきながらパイプ椅子に腰掛けるミノル以外には誰もいない。


「概念の世界に印刷の概念はないのかよ」


規則的な機械音とともに、会報の原稿を吐き出し続けるコピー機をぼんやり眺めながら、ミノルは本物川に尋ねた。


『私は接したことがない』

「燃焼の時、燃焼の概念があるから火が燃える、とか言ってたろ。印刷の概念があるから印刷できるんじゃないのか? 」

『だろうな』

「だろうな、って……」

『概念の世界も広い。こっちに来て思ったが、恐らく概念の世界自体も幾つもの層に分かれているのだ。具象世界との意味的な距離に応じて』

「この世界と直接に関わる概念が住む場所は、お前が住んでた世界とは層が違うのか。同じ概念の世界でも? 」

『例えば月というこの星の衛星。君と同じ具象世界の場所ではあるが、君は行ったことがないだろう』

「殴打、は具象世界固有の概念じゃないんだ」

『概念同士でも殴打しあうことはある』

「……そもそもお前はなんの概念なんだ? 警察? 」

『我々本物の概念は一義的な論理構成ではない』

「どういうこと? 」

『本物の概念には様々な要素が複雑に絡み合いながら共存しているのだ。丁度君たち人間のように。そのバランスを崩し、何か特異な一義に偏り、その行使のみが存在理由になってしまったような概念が--』

「偽非概念、か」

『そうだ』

「いろんな概念を共存させている……だからお前も殴打を使えたのか」

『論戦の訓練は受けている。殴打は基本的な論戦法の一つ。しかし我々本物の概念は様々な概念を内包してはいるが、同じ概念でも単一の概念に特化した概念……偽非概念のそれには及ばないことが多い。例えば元々の私の殴打は、偽非概念の殴打より弱かった。偽非概念の殴打は存在のリソースの殆どを殴打のみに割いているからだ』

「よく勝てたな」

『踏み込み、跳躍、慣性、体重とそれに伴う運動エネルギー……具象世界ならではの追加要素の力を上手く上乗せできたからな』

「燃焼と戦った時のお前の殴打、強くなってなかったか? 」

『殴打を倒した結果だ。偽非概念として特化された殴打に触れて、理解し、取り込むことで私の殴打は飛躍的に強化された』

「倒した相手の能力を吸収できる、ってこと? じゃ、燃焼も? 」

『偽非概念本人ほどではないが、この世界の戦いにおいて有力な武器となる程度には理解した』

「なんかどっかのゲームのキャラみたいだな」


コピー機が止まった。そしてそれはすぐに紙切れを示す警告の電子音を鳴らした。


「特異な一義に偏って、その行使のみが存在理由となってしまった概念……か」


ミノルは用紙トレイに紙を補充しながら独り言のように呟いた。


「犯罪者ってのはどんな世界でも……そういうものかもな」



---------------



「本当にいいのに。まだ普通に人通りもあるし」


加野リョウコはそう言って申し訳なさそうな顔をした。

日もとっぷりと暮れた夜の街。

大学から北星ヶ谷駅に向かう道すがらである。駅向こうのアパートに暮らす加野を、ミノルが送ると申し出たことに対しての弁だった。

加野は人通りはある、と言ったが、大通りから一本入ったこの道を今歩いているのは、見渡す限り加野とミノルの二人だけだった。


「気にしないでください。駅ビルの百均にも寄りたいんで。駅向こうまでは送ります」


ミノルは答えたが、百均うんぬんの下りは嘘だった。

加野は徒歩、ミノルは自転車を押しながらの同道である。

駅ビルは既に見えて来ており、視界の中で徐々にそのシルエットは大きくなりつつあった。


「でも本当にありがとうね、ミノル君。会報委員手伝ってくれて。メイコちゃんも嬉しそうだったよ」

「いえ。約束の時間に遅刻してすいませんでした」

「珍しいよね、ミノル君が遅刻なんて。何があったの?」


一瞬の逡巡を経て、ミノルは正直に話す決意をした。


「バイト先で、俺の入ったレジから差異が出ちゃって……」

「あちゃー、やっちゃったね。怒られた? 」

「いえ。いっそガーッて怒られた方が気が楽なんですが。いつも頑張ってくれてるから信用してる、今後気を付けるように、と。なんというか……期待を裏切ってしまった感じで。気持ちのやり場がなくて……へこんでます。正直」

「あー……さらっと許されたのが逆に辛いんだ。真面目だねぇ」


加野はミノルを見ながらクスクスと口元を押さえて笑った。ミノルはそんな加野の様子にどきりとしたことを意識してしまい、つ、と視線を彼女から反らした。反らした視線の先に、増築中の駅ビル新館の壁面、工事用のパイプ組みの足場と、部材落下防止のメッシュ生地の幕が目に入る。


「なるほどねぇ。バイトでミスしてそれが原因で遅刻しちゃったのか」

「……はい」


答えながらミノルは消えてしまいたい気持ちになった。


「散々だね。じゃあなんか美味しいものでも食べて、元気出さないと。ご飯を奢る約束、お店はどこがいい? 」

「え⁉︎  あ、いいですよ。先輩にはお世話になってますし、恩返しのほんの一端です。逆によく憶えてましたね。大丈夫です。お気になさらないでください」

「こら。私を約束を守らないいい加減な先輩にさせたいのか。ダメです。お店を言いなさい。ここは気持ちよく奢られるのがあなたの後輩としての……」


加野がそこまで言いかけた瞬間、ミノルは彼女に飛びかかった。加野を抱きしめ、転がるように倒れ込む。余りにも予想外のミノルの行動に、加野がひっ、と息を飲む。

直後、寸前まで加野とミノルが立っていた場所に大きな音を立てて、鉄骨が突き刺さった。

危険を察知した本物川がミノルの身体を動かし、二人を救ったのだ。


「本物川⁉︎ 」

『ミノル、まだだ! 』


見上げれば似たような鉄骨が三、四本、くるくると回転しながらミノルと加野がしゃがみ込む場所を目掛けて殺到する。加野を抱えて再度避難する時間は既にない。

ミノルは自分の身体に、殴打を含め数種の概念が疾駆したのを感じた。

「きゃぁぁぁぁっ!!! 」

事態が飲み込めた加野が絶望の悲鳴を上げる。


げいん!


突き上げた拳を頂点に、すっくと立ったミノルの背中を、加野は信じられない思いで見つめた。

ミノルの拳で弾かれた鉄骨は次々と別の鉄骨に当たり、それらを周囲に弾き飛ばして、加野とミノルの居るエリアから完全に排除した。逐次落下したそれらが、ガンゴンと身がすくむような大音響を辺りに響き渡らせる。内一本は、閉店した洋品店のシャッターに当たり、それを大きく引き裂いた。たちまちけたたましい防犯ブザーが鳴り響く。

その鳴り響くブザーの中、ミノルは振り向いて鹿野の無事を確かめた。


「先輩、大丈夫ですか? 」

「え……ええ」

「すいません急に。でも他に手段がなくて」

「ううん、いいの。あ、ありがとう。助けてくれて」


ミノルの身体を操る本物川は、きっ、と駅ビル新館の上層階を睨んだ。


「偽非概念、か? 」


ミノルは加野に聞こえないよう声低く本物川に確認する。


『ああ。落ちてきた鉄骨を見てみろ』


鉄骨は切断されていた。斜めに、非常に鋭利にだ。断面は磨いた鏡のように滑らかで街の灯りを反射してさえいる。


「切断の概念? 」

『いや。もっとタチが悪い。恐らく……』


本物川は珍しく言い淀んだ。答えを得ているが、それを認めたくないといった様子だった。


『とにかくここを離れよう。加野リョウコを巻き込んでしまう』

「分かった」


ミノルは加野を助け起こすと、この場を離れるように促した。


「多分警察が来ます。俺がうまいこと説明しとくんで、先輩はこのまま帰ってください。ここにいたら、また危ない目に合うかもしれない」

「ミノル君は……平気なの? さっき……あの柱みたいの、殴ってたよね……手は、大丈夫なの? 」

「大丈夫です。多分、火事場の馬鹿力って奴で」

「そんな……それにしたって……」

「とにかく先輩はここを離れて。あとは俺に任せてください」

「でも……! 」

「エヒトフルスがいいです」

「え? 」

「ご飯食べるお店ですよ。南星ヶ谷のレストラン・エヒトフルス。高くはないですけど、お店の雰囲気が良くて美味しいんです。割り勘でいいんで、良ければメイコちゃんも誘って、会報委員の壮行会にしましょう」

「ミノル君……」

「その時、話はいくらでもできます。だからお願いです。今は……ここを離れてください」

「……分かった。約束よ。だから、危ないことや無茶なことはしないで。絶対に」

「分かりました。約束します」


加野は更に何か言いかけたが、小さく首を振ると線路をくぐる高架下の道の方へ駆けて行った。

それを見届けたミノルは深呼吸を一つして、自分の全てを内なるもう一人の人格、本物川へと明け渡す。

駆け出したミノルの身体は、足元から柔らかな光を放つ。光はやがて全身を包み、光がまた足元から消えてゆくと、ミノルの姿は全く違う人物へと変わっていた。

ゴシックロリータな衣装をはためかせて夜の街を駆ける、一人の美少女へと。

金髪ツインテールの、凛々しい面持ちの概念の行使者へと。

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