7. 襲撃
カーテンの開け放たれた窓から傾いた夕陽が差し込み、教室の中に紅い陰影を作り出している。
整然と並んだ椅子や机に座るものはおらず、鞄一つかかっていない。黒板は綺麗に掃除されてチョークの跡すらなく、粉受に黒板消しが二つ置かれているだけだ。
ぐるりと、人気のない教室を見回す。どれが自分の席なのか、どうも思い出せないでいた。果たしてここが自分が普段通っている教室なのかも、分からない。
余所者の気分で、足を踏み出す。手近な机に手をついて、もう一歩。
床を踏みしめるたびに、ここは自分の居場所ではないという感覚がじわじわと湧き上がってきた。何とも言えない居心地の悪さが、靴底を通じて這い登ってくるかのようだ。
息苦しさにため息をつき、踵を返す。走り出すほどではないにせよ、早々にこの場所から立ち去りたかった。足元の覚束ないような気がして、机の間を縫うように身体を前に進ませながら、次の机へと手を伸ばす。
びしゃり。
濡れたものに触れる感触に、ぎょっとして手を引き戻した。
――掌に、何か透明な液体が付着している。
水ではない。わずか粘性を持っているそれは、手を傾けるとどろりと床に垂れ落ちた。
じゅっ、と焼けつくような音が、床から上がる。煙が立ち上るのに身を竦め、わずかによろめくと、掌から液体がぼたぼたと垂れ落ちた。何かの薬品が、机に垂れていたのか、誰が、いつ、こぼしてそのままにしておいたのか、どうして。
混乱するままに掌を服になすりつける。服が焦げ付き、煙を上げる。
そこで初めて、思い違いをしていたことに気が付いた。
机が濡れていたのではない。手から液体が浸み出しているのだ。わけも分からず、喉の奥からひゅっと高い音が鳴る。
「――――そう、その力」
叫び声を上げようとしたその時、押しとどめるように声が耳に届いた。
「その力。あなたが望むならば、人間の記憶を、感情を操り、あなたの思うがままにすることさえできる」
口をつぐみ、振り返る。
いつの間にか窓の傍に、女が佇んでいた。差し込む夕日に照らされ、顔はよく見えない。
「……」
目を眇めてその顔をよく見ようとする。黒く長い髪、飾り気のないスーツ。紅の引かれた口元が、淡く微笑んでいるように見える。どこか信用の置けない、作られた笑み。
……知らない女だ。
(いや)
違う。
「ええ、少しの間、安定しないかも知れません。でもすぐに、すべて思うままになる。欲しいものも手に入る」
歌うように語る女の言葉は、まるで現実味を帯びていない。確かに、覚えがあった。彼女が誰かを知っている。だが、喉元に引っかかって名前が出てこない。
「どうして……」
「何故、自分にそんな力が備わったか、知りたいですか?」
漏れたつぶやきと女の問い返す言葉には齟齬があった。けれど、それも確かに知りたいことではある。
恐る恐るに頷くと、女は艶然と頬笑み、人差し指を唇の前にそっと立てて見せた。
「……残念ながら、それはあなたにまだ明かすことはできません。
けれど、これもプランの一部――――そう、この言葉の意味も、きっと分かります」
赤い唇がその言葉を紡いだ瞬間、彼女が何者であるかを理解する。
――その喋り方は、知っている。
「あんたは――」
◇ ◆ ◇
「プランッ……なっ……!?」
身を裂かれるような激痛は一瞬だった。
痛いと叫ぶ間もなく、傷口が急速に、ビデオを巻き戻すかのように塞がっていく。人間離れした治癒能力。《リザレクト》は、オーヴァードの特徴の一つだ。
土方は慌てて身を伏せ、周囲を見回した。
古びた家屋の内壁は今や穴だらけになり、明らかに街灯ではない白い光が差し込んでいる。断続的に銃声が鳴り、おびただしい量の銃弾が頭上を飛び交っていた。
何が起こっているのか一瞬分からず、呆然とする。つい先ほどまで、確かに夕陽差し込む教室に――
(夢……)
ここは『夜行』セルのアジトだ。ルネを伴って調査に出向いたと思ったら、タヌキの姿をした砂川紺三郎を見つけ、それから――このありさまだ。
どうやら衝撃で気を喪っていたらしい。何秒か、何分かは分からないが、そう長い時間ではないだろう。まだ家屋は原形を保っているし、誰も突入してきていない。
「土方さん!」
ルネは土方と同じように、張り付くように床に伏せていた。咄嗟に避けられなかったのはルネも同じだったのだろう。穴だらけの服には血の跡が生々しく残っている。
土方と違うのは、身体の下にタヌキと刀を庇っていることだ。腹を横にして倒れているタヌキ……砂川は、ピクリとも動かない。まるで死んでいるかのような……
「……おい、タヌキ!」
「習性だ! 放っておけ!」
「土方さん! まずいです、防衛隊です!」
這ってこちらに近づきながら、ルネが泡を喰った調子で叫ぶ。銃声で互いの声が聞こえづらくなっている――とはいえ、爆発物を放り込まれないだけまだマシだろう。住宅街のど真ん中であることが幸いした。だが、状況は最悪に近い。
「防衛隊だと……」
「無線が飛び交っています。目標は『夜行』セルだと!」
眩暈を感じて、土方は額を押さえた。尋常な対応ではない。
たとえ独自に事件を調査し、神々廻と『夜行』セルに繋がりがあることが割れていても、アジトにいきなり銃弾を叩き込むことはふつうはしない。『夜行』セルの構成員がすべて揃っているとも限らないし、非オーヴァードが巻き込まれる可能性を考慮していない。とにかく、まずい状況には違いない。
「支部長、無線に連絡して、攻撃をやめさせることは?」
ブラックドッグ・シンドロームは電子機器の操作に優れる。無線を傍受したのもその能力を使ってのことだろう。こちらから無線に割り込むことも、難しくはないはずだ。
「それはできますが、彼がいると話が拗れる……」
ルネは言いながら、身体の下のタヌキを示した。
防衛隊の実行部隊であるストレンジャーズは、総体としてオーヴァード排斥主義だ。真逆の思想を持つFHを、今は目立った活動をしていないから、などという理由で見逃したりはしないだろう。その上『夜行』セルには、ジャーム化事件の容疑もかかっている。
「おい、タヌキ! 前みたいに逃げられないのか!」
「紺三郎だ! いくらなんでも銃撃が厚すぎる!
砂川はようやく死んだふりをやめ、ルネの下で体躯を丸めていた。
確かに前回、砂川は刀を振るうことであの場から逃走していた。言いぶりからして、空間と空間を繋ぐゲートを作るバロールのエフェクトの類なのだろうが、使えないでは話にならない。
「俺が盾になるって言うのは?」
伏せたまま、とんでもないことを言い出したのはルネである。
前にルネが神々廻のことを庇っていたように、極めて治癒能力の高いオーヴァードにとって、負荷の高いエフェクトを使う攻撃要員を他のものが
「……このタヌキを連中に突き出す方がまだマシな案だ」
「薄情者! 俺は犯人ではないと言ってるだろうが!」
床に四足をついて、噛みつくように砂川が吠えた。タヌキが流暢に人語で喋る違和感に改めて眩暈を覚えながら、土方は歯噛みする。
「暫定で信じただけだ! 第一、この
目の前に
気づけば部屋の中に、拳大の大きさの光球が無数に浮かんでいる。光球に当たった銃弾は音もなく消滅し、あるいは力を喪って床に落ちた。
「神々廻さ――ぁだっ!?」
ルネの頭の上に、ふわりと小さな足が現れる。
足先から腿、腰、胸。立体映像のように順繰りに、少女の姿が薄闇の中に形づくられていく。赤い着物がひらりと揺らめいた。
「“
果たして、現れたのは神々廻あゆかだった。
銃弾の行き交う中、光球に銃弾を受けさせて逸らし、涼しい顔でルネの頭の上に立っている。
「愚か者が。外で名を呼ぶな、というたはずじゃ」
「おい……」
「文句は後じゃ。紺三郎、狗狸丸!」
「応!」
神々廻の声に吠えて応じたタヌキの姿が、ルネの下から這い出た途端、たちまち蓬髪の大男へと姿を変える。
砂川は刀を引っ掴んで鞘を放り投げると、大上段に刀を構えた。放り投げられた鞘は床に落ちることなく、闇に溶けて消えている。
「……狭い!」
「いいから早うせい、長くは持たんぞ!」
「分かっとる!」
神々廻に忌々しげに怒鳴り返しながら、砂川は刀を縦一文字に振り下ろした。
切っ先が虚空を裂き、古びた家屋の中に街灯の光が差し込んでくる。離れた空間と空間とを繋ぎ、道となる門を作りだす、バロール・シンドロームの
「“
身を起こし、土方は声を上げた。
砂川の開いたゲートをいち早くくぐりかけていた神々廻が、ゆっくりとこちらを振り返る。その笑みはいなくなった時のように、諧謔や諦念のこもったものではなかった。扇がすぐに、その口元を覆い隠す。
「委細、承知しておる。そちらもせいぜい無事でおれ」
「――」
頷く土方に笑い返すと、神々廻は身を翻してゲートの中に飛び込んで行った。小さな背を幻影が包み込み、見知らぬ女へと姿を変える。
「お前らは残るのか?」
こちらを振り返り、砂川が問いかけてくる。土方は嘆息して、再び床に身を伏せた。
「この場を収める。さっさと行け」
「ここが跡形なくなる前に頼むぞ!」
叫んだ砂川が飛びこむと、すぐにゲートは閉ざされ、神々廻の設置していた光も消えて、元の暗闇が戻ってくる。とはいえ、サーチライトの光が壁の穴から差し込んできているので、最初よりはずっと明るいが。
「……支部長、防衛隊に連絡を入れろ」
銃声がいつの間にか止まっているのに気がついて、土方は呻いた。
「うかうかしてると突入してくる。無駄に《リザレクト》するのは避けたい」
「り、了解です! ええと……」
後ろ頭をさすりながら身を起こし、ルネは周囲に視線を巡らせた。
残されし裏切者(ダブルクロス) ~土方治の調査記録 ω @irahara
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