5. 疑問
扉の開く音に反応して顔を上げたルネは、土方と志ほりを順繰りに見た後、すぐに怪訝な表情になった。
日は既に傾いて、赤い西日が向かいのビルのディスカウントショップの窓に反射し、支部長室の中にも差し込んでいる。
ルネがデスクから立ち上がるのと前後して、機械音とともにひとりでにブラインドが閉められると、やはりひとりでに、暗くなった支部長室の電灯に明かりが灯った。ルネ支部長はブラックドッグ・シンドローム。スイッチやボタンを操作するよりも、意識する方が機械の操作が早い。
「お疲れ様。あの……
支部の中では殊更に気をつけてコードネームを使うことはないのだが、ルネはおっかなびっくり辺りを見回しながらこちらに問いかけてきた。
もちろん、あれから姿を眩ませた神々廻は一緒に戻ってきてはいない。が、ルネは姿が見えないのを確認したうえで、神々廻がどこかに姿を隠しているのではないか、と警戒しているのだろう。関係性が窺える。
「“
一歩、支部長の方へ踏み出して、志ほりが淡々と報告する。ルネは言葉を聞いてポカンとした顔になり、土方の方へ目を向けてきた。土方は頷き返すに留め、志ほりの背に目を向ける。志ほりはちらりとこちらを振り返ったが、すぐにルネに視線を戻し、言葉を続けた。
「……“
「神々廻さんが……? 冗談じゃなくて?」
信じられないといった口調で、ルネは志ほりに問い返す。土方は唇を曲げ、腕を組んだ。
「冗談でこんなことは言わない。
レスピーギ支部長、防衛隊からの情報提供というのは?」
「あ、ああ……そうですね」
ルネはなんとか頷くと、デスクの方を振り返った。……本来であれば、土方たちが報告をするのが先だが、土方の方も気持ち、焦っている。神々廻についてしっくりきていない部分を、防衛隊からの情報が拭ってくれるのではないかという期待があった。
「――まず、防衛隊のデータだけ見てもジャームの数は明らかに異常です。
縄張り争いなんて言ってる場合じゃない。よくもまあ、これだけの数を防衛隊だけで秘密裏に処理していたもんだ」
デスク上の書類を手にとって、ルネは大きくため息をつく。
あの基地がどれほどオーヴァードを抱えているかは分からないが、確かに「表立った出動がほとんどない」と言われる非公式の部隊にしては迅速で広範な行動だ。……こうした瑣末な(というと語弊はあるものの)事件の対応に関する経験も人員も、UGNの方が多いはずなのだが。
「それと、もうひとつ……いや、その前に、神々廻さんがFHと繋がりがあったというのは、間違いないんですか?」
念を押すように聞いてくる。土方は首を竦めてみせ、
「……本人がそう言っていた。言わされていたようには感じなかったな」
ルネは眉根を寄せて、書類を一枚、こちらに差し出してきた。
「――」
載っていたのは、防衛隊で今まで処理したのだろうジャームのリストだった。ジャームを捕らえ、解剖し、ジャーム化の原因を探っている。
「……ひとつ聞きたいが、この支部ではこの調査はしていなかったのか? ジャーム化の……原因について」
志ほりの方をちらりと見てつけ加えながら、土方はルネに問いかけた。ルネは困ったような顔をして、視線を彷徨わせる。
「こちらの把握していたジャームの数は、通常の範囲を出ないものでした。俺は調査しようと言っていたんですが……」
「“
語尾を濁したルネを志ほりが継ぐ。
「……正確には、神々廻さんだけではないんですが、彼女が支部内では、影響力の強い人だったのは確かです」
「成る程」
呻くように言って、土方はリストに再び目を落とした。レネゲイドウィルスに感染した人間は、大きな怪我や精神的なショックによって発症し、その多くはジャーム化する。だが、このリストに載っているものたちがジャーム化した原因は、大半が怪我でもショックでもない。
「薬物――しかも、オーヴァードによって精製されたものか」
「防衛隊は、それがソラリス・シンドロームのオーヴァードが作った薬であると結論付けています」
“
土方は嘆息して、書類を覗き込もうとしている志ほりに、紙を手渡した。
(……掘れば掘るほど、怪しくなってくるな。だが……)
こう次々と情報が出てくると、仕向けられているような気さえする。
神々廻を陥れ、再び裏切者が出たと支部を混乱させる。そこに何か、目的があるのではないか、と。
が、それはただの感覚、感傷に過ぎない。
神々廻は実際FHと繋がりがあり、それを隠していた。ジャームの発生を取るに足らないことだと判じて調査を遅らせ、ジャーム化の原因を探ることにも反対していた。裏付けられる証拠が出て、黒である線が濃くなっただけだ。
(まだ、今日は無理はしてないんだがな)
土方は辺りをちらちらと見回した。ルネの座っていたデスク、閉じられたブラインド、応接用のソファ。どれも歪んだり、形を変えたりしている様子はない。
レネゲイド・ウィルスは、宿主の肉体だけではなく、肉体を通じて精神にも影響を及ぼす。衝動、と呼ばれるそれは、人間に自然に備わっている防衛本能や欲求、プログラムを過剰に刺激する。
土方はなかでも、妄想衝動を指摘されていた。現実と想像の区別がつかなくなり、論理が飛躍していても自分でそうと気がつかないことがある。今の神々廻に関する思考はまさにそれだ。
あのとき流していた彼女の涙が、あらぬ影響を与えているのかも知れない。別れた妻と連れだって出ていった娘は、見た目だって神々廻よりもずっと年下なのだが。
「……被害がこれ以上出る前に、なんとかしないと」
沈黙したままリストを見つめていた志ほりが、低く声を上げた。柳眉をつり上げ、怒りを燻らせた表情で顔を上げた。一歩、ルネへ詰め寄るようにまた足を進める。ルネは驚いたような顔で、わずかのけぞった。
「支部長、『夜行』セルに攻撃を仕掛けるべきです」
「『夜行』? ええと……」
「ジャーム事件を起こしているのは、“
「ちょっと待った、待ってくれ! 志ほりちゃん!」
声を荒げる志ほりに対して、目を白黒させたままルネが叫んだ。両手を上げて、『降参』のポーズをとって見せる。
「一回、落ち着いて話してくれ。……神々廻さんと繋がっていたのは、『夜行』セルなのか?」
「…………失礼しました。報告します」
志ほりは大きく息を吸って吐き出し、姿勢を正した。ポケットからスマートフォンを取り出して、メモを開く。
「“ありふれたブルー”には先程お伝えしたように」
と、前置きした通り、志ほりの報告は先刻聞いたものと大きく差があるわけではなかった。
『夜行』セルのメンバーである砂川紺三郎は、神々廻の手によって覚醒したオーヴァードであり、神々廻と同じ古代種であること。
神々廻は砂川にとっては育ての親のようなもので、ふたりはUGNが日本に発足するずっと前から知り合いであったこと。
そして、神々廻がこれを隠匿していたこと。
「……『夜行』セルは、長らく目的が分からず、目立った活動もないセルでした。
けれど、この時のために準備を重ね、UGNにも神々廻を送り込んでいたのではないかと考えられます」
「にわかには……信じがたい話だが」
デスク上のパソコンからUSBメモリを抜き取り、ルネはつぶやくように言う。土方は思わず憮然とした顔になり、ルネと志ほりの表情を追った。“蜘蛛の糸”のことを思い出したのだ。
あの情報屋がちゃんと仕事をしていれば、この情報を手に入れられずとも、手掛かりぐらいは得られていたかも知れない。……そうすれば、もっと振舞いようはあった。
「『夜行』セルってのは……」
苛立ちを抑えて、土方は口を開く。
「何も情報がないのか。活動をしていないという話だが、どうやって認知した?」
「ええと……」
土方からわずか目を逸らし、ルネはUSBメモリを手の中で弄んだ。視線を数秒彷徨わせたのち、青い瞳が再びこちらを捉える。
「『夜行』セルの活動が最後にあったのは、UGNの黎明、十数年前のことです。何度か、《ワーディング》を貼らずに、一般人の前でエフェクトを使った、という記録があります」
「エフェクトを――使った?」
微妙な表現だ。人間を殺したでも、何かを破壊したでもない。
「ええ、例えば、……サラマンダーが炎を噴きながら空を飛び回る、エグザイルが腕や足を伸ばして街を練り歩く、モルフェウスが地面から龍の像を引き出し、また跡形もなく消し去る、唐傘が笑い出す……とか、とか」
「…………」
押し黙る。
確かに、そんなオーヴァードの存在を知らしめるような行為は、UGNとしては放ってはおけないだろう。だが――
「これらの行為で死人や怪我人は出ていません。とはいえ放っておくわけにもいかないので、UGNが目撃者に記憶処理を行って、表向きにはなかったことになりました。
で、何度か対処しているうちに、活動が見られなくなった、ということのようです。俺がここに来る、ずいぶん前の話ですが」
「……ぽんぽこだ」
「はい?」
「いや、何でもない。昔と今で、ずいぶんギャップがあると思っただけだ」
「けれど、“
口を挟んだ志ほりは、落ち着いたのか考え直したのか、若干語気は抑えられていた。
「それに、オーヴァードが急に行動の方針を翻すのは、珍しい話じゃない」
確かに、ジャーム化することで目的の変わらないまま行動が歪む――というのは、ない話ではない。
ただ、やはり違和感は残る。砂川か、あるいは『夜行』セルのメンバーの誰かがジャーム化していたとして、神々廻が果たしてそれに協力するかどうか。
「……考えていても埒があく話じゃない」
ルネは首を傾げ、低く唸った。
「ただ、すぐに攻撃というわけにはいかないな。神々廻さんがどこにいるかは分からないのか? 少しでも話を聞きたい」
「支部長、“
「そうかあ……」
(……ん?)
志ほりにたしなめられ、肩を落とすルネに、土方はふと引っかかりを覚える。
神々廻は、FHと繋がっていた自分を支部長は許さないだろう、と言っていた。だが、ルネの態度はとてもそうとは見えない。
志ほりとは違って、神々廻に対する怒りや憎しみの色はなく、隠している風でもない。
「……土方さんは、どうすればいいと思います?」
ルネがこちらに水を向けてきた。土方は違和感を飲み込み、志ほりの方を見る。彼女は既に、煮え切らない支部長に苛立ちを感じているようだ。ルネが慎重なのは、今に始まったことではないはずだが。
「セルにいきなり攻撃を仕掛けるのは、俺も反対だ」
息を吐き、土方はルネに向き直る。ルネは既にほっとした顔をしていた。
「疑いが確定していないのもあるが、……連中が戦力をどれほど抱えてるか、正確には分からないんだろう?」
「そうですね。古いデータばかりなので、今も同じメンバーである可能性は低い」
「なら、防衛隊に協力を要請すれば……」
志ほりの言葉に土方は首を横に振る。
「連中が協力してくれる保証はなし、協力を得られても大事だ。ジャーム化の薬品なんていくらでも遠隔でばらまけるし、セルを攻撃している間に街に被害が出るなんてこともある」
「……それこそ、大きな被害がいつ出るか分からないのでは?」
「そこで、気になるのが連中の目的だ」
土方は軽く手を振って、ルネと志ほりを順繰りに見た。
「こっそりジャームを増やして、今は秘密裏に処理できていて被害もほとんど出ていない。被害を出すのが目的なら焦れているだろうし、そうじゃないならまるで分からん。
この数のジャームを、一体ずつちまちま、UGNや防衛隊に処理させているのは何故だ?」
「それは……」
「支部長がさっき言った通り、考えても分からない。
――だから、することは決まっている。支部長が言った通り、話を聞きに行けばいい。ただし、“
「なっ……」
志ほりが、目を見開いて絶句した。
UGNがFHに話を聞く。確かに、あまり正気とは思えない提案だ。
「“
「ま、待ってください! 『夜行』セルとだって、我々は一度交戦しているんですよ! 正気の判断じゃない、危険すぎます!」
「“
「……防衛隊とFHでは、わけが違います」
「そうだな」
土方はむすっとした表情の志ほりににやりと笑ってみせると、ルネの方に目を向けた。
「どう思う? 支部長?」
俯いて考えていたルネは、土方の声に頷いて見せて、顔を上げる。
「いいと思います。ただ、戦ったふたりが行くと、話が拗れるかもしれない。
だから、『夜行』セルには俺が行きます」
「…………」
今度は、絶句するのは土方の番だった。
……今、自分が行くと言ったか? 支部長の自覚がないのか?
「待て、なんでそうなる? 支部長が前線に出るような規模の支部じゃないだろう!」
「この支部は、前の支部長のことがあって、志ほりちゃんのようにFHに過敏になってるエージェントが少なくありません。
支部は空けることになりますが、そっちをエージェントに任せます。俺よりもこの支部について把握しているエージェントは多いですが、『夜行』セルについては今の情報はほとんどない。適材適所で言えば、俺が行った方がいい」
……恐らく、土方と志ほりが言い合っている間に理由付けを考えていたのだろう。すらすらと述べ立てるルネに、土方は閉口する。
確かに、経験や能力を考えるとそういう考えもなくはない。ただし、ルネが、自分が支部長である一点を無視しているのを除けばだ。
危険すぎる、という言葉を、土方はどうにか飲み込んだ。危険すぎるのは誰が行っても同じだし、ルネは支部員を火中に放り込んで自分は待っている、というタイプではない。この提案自体がふいになる可能性がある。
「………………、分かった。待て、だが、俺も行く」
考えた末、土方はどうにかそれだけ言葉を吐き出した。でも、と言いかけるルネを手を上げて制し、大きくため息をつく。
「いくらなんでも、支部長がエージェント一人もつけずに動くわけにはいかんだろう。
交戦したと言っても俺の方は一瞬、直接仕掛けたわけじゃないし、そもそも俺は交渉調査専門で、この話を言いだしたのも俺だ。
――それに、FHへのわだかまりは少ない方のつもりだ。少なくとも、彼女よりは」
志ほりは憮然とした表情でいる。もはや、行く行かないの話であることは分かっているのだろう。土方はルネに向き直り、目線で返事を促した。
「……分かりました。お願いします」
「――」
土方は一瞬、頷き返すのを忘れて、ルネを見返した。胸元を押さえ、痛みのないのを確認する。
「志ほりちゃんは、支部の方をよろしく頼む。他のエージェントにも連絡しておくよ」
「……了解です」
志ほりが渋々頷くのを後目に、支部長は手の中で弄んでいたUSBメモリをポケットに入れ、デスクの方へ取って返した。
ぼんやりとその背中を見ながら、土方は多少浮かれているのを自覚していた。
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