4. 疑惑

 炎が意志を持つように蠢き、赤々と燃え上がりながらとぐろを巻いていた。

 自動販売機の硝子にひびが入ってしずくが落ち、近くに設置されたダストボックスに至ってはほとんど溶けてペットボトルと混ざり合い、どろりとアスファルトの上に落ちかかっている。

 “罪業浄機カサルティリオ”岸庭志ほりは、相変わらずの冷めた目で、自らの操る火焔を見据えていた。

 渦巻く熱の中心には、消え入りそうに揺らめく影がある。それが果たして何なのかは分からなかった。炎の壁に阻まれて何も見えない。

 ぜえぜえと息をつきながら、土方は炎の余波に当てられて生ぬるくなったビルの壁に寄りかかった。そのまま壁を滑るように座り込み、先に到着していた神々廻の横顔を見上げる。この位置でも熱気が吹き付け、熱いほどだ。

「……ジャームか?」

「分からぬ。わしが来た時は、既にこの状況であったゆえ」

 神々廻は熱風から顔を護るように扇を広げ、険しい表情で炎を見つめている。さすがにこの状態では彼女もうかつに加勢できないのだろう。周囲に緋色の光を舞わせているものの、志ほりの炎に当てられてどこか弱々しく見える。

 土方はよろよろと立ち上がり、志ほりの背に目を向けた。

 少女はほとんど炎に接するようにして立ち、微動だにしない。これだけ大きな火を操るには相当の集中が必要であるから、当然と言えば当然だ。こちらに気づいてさえいないかも知れない。

 だが、中で燃えているが何にせよ、これだけの火力なら燃え尽きるまでにそう時間はかからないだろう。話を聞くのはそれからでも遅くはない。

 志ほりが、炎へ向かってさらに一歩距離を詰めた。手早く焼きつくそうとでも言うのか、志ほりが手を翳すとともに、火はいっそう勢いを増し――

 突如、炎の壁が斜めに切り裂かれた。

 あれだけ燃え上がっていた炎が幻だったかのように瞬時に姿を消し、《ワーディング》の静寂が舞い戻ってくる。

「――!」

 志ほりが一転、猫のように素早くその場から飛びずさった。

 それに追いすがるように、炎の跡から黒い影が飛び出してくる。その手には、白々と輝く刀が握られていた。

「――は、ははは! なかなかの炎だったが、れと狗狸丸くりまるを灰にすることは叶わなかったようだな!」

 口から煤を吐き出しながら高らかに笑うのは、黒い蓬髪に浅黒い肌をした男だ。

 見覚えはない。だが、一見してジャームではない。今までとは違うケース。

「シッ」

 短い呼気をひとつつき、男は地面の上を舐めるように身を沈めると、やはり地面に触れるほどすれすれに両腕で刀を構えた。勢いのまま、志ほりに肉薄する。

 志ほりは身構えるが、避けようとはしない。

 ……土方の脳裏に、神々廻を庇ったルネの姿がふとよぎった。

「むっ……!?」

「なっ……!?」

 動揺の声が、男と志ほり、二人の口から同時に上がる。

 男の押し付けるような斬撃を、志ほりが紙一重で避けていた。不意に二人の間に風が吹き込み、志ほりに刀をのだ。

「何だ! この風は!」

 男が毒づき周囲を見回すのを見て、土方はわざとアピールするようにその場で両手を挙げて見せた。男は目を剥いて、こちらを睨みつけてくる。

「加勢か!」

「そうだよ」

 足を軽く踏み鳴らすと、男を中心として煙がふわりと舞い上がり、薬品のにおいが立ち上った。

 ソラリスシンドロームは薬品を体内で精製する。その中には、毒物やも含まれる。

「遅いッ!」

 だが、爆発が起こるよりも、男がこちらへ向かって踏み込む方がはやい。わずか燃え残った服を振り払いながら、一息に土方の方へ迫る。

 その行く手を遮るように、今度は緋色の光が踊った。

「させぬ!」

 神々廻が扇を構え、小さな光を次々と生み出してゆく。男は即座に足を止め、刀を低く構えた。

「――“吉里吉里舞きりきりまい”!」

 光を打ち払いながら、男は舌打ちした。周囲を再び志ほりの炎が渦巻きだすに至って、強く地を蹴り上げる。身の丈のおよそ二倍以上の高さまで飛び上がり、男はこちらを傲然と見下ろした。

ではこちらの不利! 今日は出直させてもらうぞ!」

 芝居がかった口調で言い放つと、虚空に向かって横薙ぎに刀を一閃する。

 瞬きの間に、その場から男の姿は消え失せた。

「…………」

 その場に、何とも言えない沈黙が落ちる。

 声を上げるきっかけが見つからないのもそうだが、先程の男が消えたふりをしてどこかへ隠れ、奇襲の機会を狙っている可能性もあった。

 土方はゆっくりと辺りを見回す。

 オフィスビルが立ち並ぶ狭い道路は、志ほりのエフェクトによって惨憺たる様相を呈していた。

 直接火が当たっていた路面に至っては、ぼろぼろと崩れて下の土が見えるまでになっていたる清掃局が『復元』すれば元通りになるとは言え、街中でかなり派手な立ち回りだ。

「……ありがとうございます。助かりました」

 最初に口を開いたのは志ほりだった。

 無愛想な面持ちは感謝しているようにはとても見えないが、恐らくルネに庇われた神々廻と同じようなことを考えているのだろう。避けていなければ、自分で反撃できた、と。しかも土方はルネと違って、敵を仕留め損ねている。

「いや、……支部長はどうした?」

「? 支部かと思います。調査中にFHのエージェントに遭遇し、戦闘を」

 土方は咳払いをした。

「……すまない、てっきり俺たちと同じように《ワーディング》に反応してきたのかと思ってな。――今の男は?」

砂川すながわ紺三郎こんざぶろう。市内に存在する『夜行』セルの構成員です」

 コードネームではなく本名。FHにはそう言ったエージェントもいないことはないらしいが、珍しい。しかも妙に古めかしい名前だ。知られている名が本名であるとは限らないが、何か引っかかる。

「目立った動きはないという話だったが……あいつが言っていた、三対二というのは?」

「不明です。――“吉里吉里舞きりきりまい”、あなたは何かご存じないですか?」

 神々廻からの返事はなかった。

 ぼんやりとうつむき、何かを考え込んでいる。

「“吉里吉里舞きりきりまい”?」

 眉根を寄せ、志ほりは怪訝な顔で問いかける。神々廻がハッとした顔で顔を挙げ、ようやくこちらを見た。

「お、おお、すまん。紺三郎のことか」

 ぎこちなく笑みを作り、神々廻は扇を広げる。どことない違和感。

「あれのことは、わしもよくは知らんのじゃ。仲間が隠れていたようには思わんかったがな」

「………」

 志ほりがすっと目を細めた。黒いプリーツスカートの裾にわずかついた煤を払い、神々廻の方へ一歩足を踏み出す。相変わらず、無表情に。

 不穏なものを感じて、土方は眉根を寄せた。

「……“罪業浄機カサルティリオ”?」

「“ありふれたブルー”。彼女は嘘をついている。“吉里吉里舞きりきりまい”は彼のことを知っているはず」

「なに?」

「砂川紺三郎は古代種。

「…………」

 神々廻は黙したまま、志ほりを見つめている。志ほりは神々廻を睨みつけ、さらに一歩、歩を進めた。

「先程の攻撃も、そもそもあなたであれば当てることはできたはず。

 何故、砂川との繋がりを隠し、彼の逃走を助けるような真似をしたのですか。彼は、ジャームの発生と何か関わりがあるのですか?」

「……」

「答えられないなら……!」

「待て、“罪業浄機カサルティリオ”」

 語気を強める志ほりの前に回り込み、土方は慌てて制止する。志ほりは眉根を寄せて、こちらを睨み上げた。

 恐らく、彼女は以前から神々廻を怪しみ、土方たちがジャーム事件の方を調べ始めたのを受けて独自に神々廻とFHの繋がりを調べていたのだろう。だが、やることがあまりにも性急過ぎる。

「――“ありふれたブルー”、どうして止めるんです。あなたは――」

「何にせよ、ここで決着をつける話じゃない。

 支部長はこのことを知っているのか? まずそっちに話を通すべきだろう」

「それは……」

「その必要はない」

 神々廻はため息交じりにそう言って、扇を広げた。疲れきった老人のような表情は、少女には相応しくはない。

「わしがFHふぁるす・はぁつと繋がりを持っておるのは事実。あの支部長はそれを許すまい。わしもあ奴に言い訳をするのはごめんじゃし、何を言うても“罪業浄機カサルティリオ”、お主はわしを信じまい?」

「……“吉里吉里舞きりきりまい”。ここで俺たちと戦うつもりか?」

 努めて抑えた口調で土方は問いかけた。神々廻は苦笑して、ゆるゆると首を横に振る。

「いやいや、UGNで内輪揉めをするつもりもない。ここは、そうじゃな」

 ぱちりと扇を閉じ、神々廻は口元を隠した。

 音もなく、神々廻の周囲に緋色の光がいくつも閃き、流れ出した。風に舞う花弁の如く、少女の姿を覆い隠す。

 ――これは、よくない。

 脳裏に閃く感覚に、土方は唇を引き結んだ。そう思っても、止め方が分からない。彼女を引き留める手立てが、自分にない。

「――逃げの一手じゃ」

「させない!」

 土方の脇をすり抜けるようにして、志ほりの炎が神々廻に押し寄せる。焔は神々廻の生み出した光を瞬く間に吹き散らし、波濤のように迫った。

 だが、その炎が神々廻に触れた時、その姿こそが幻のようにほどけ、光の粒になって消え失せる。

 志ほりは歯を食いしばり、慌てて周囲を見回すが、もう遅い。きらめく光の欠片も見えなくなり、炎だけが空間を舐めた。

「……業腹じゃのう。じゃが、もありなん。嘘偽りをもって接していれば、いずれ綻びが出るのは当然のこと」

 囁くような神々廻の声が、どこからともなく落ちかかってくる。自嘲するような言葉は、しかし彼女自身だけではなく他の誰かのことを指摘しているような気さえした。ぎくりとして、土方は胸を押さえる。

「……」

 姿だけ消してどこかに隠れている可能性を考えてか、神々廻の声が途切れた後も、志ほりは炎を操り、道路の上をくまなく這い回らせていた。

 が、しばらくして手応えのないことを確認したのだろう。腕を払って炎をかき消し、大きく息を吐く。

「……清掃局を呼んで、支部長に報告しましょう。“吉里吉里舞きりきりまい”と砂川を追わないと」

 こちらを見る志ほりの眼差しは険しい。と思っているのかも知れなかった。

 土方は嘆息し、答える代わりにポケットからスマートフォンを取り出す。

「――っと」

 通知画面にルネからの着信とメールが一件ずつ表示されているのに気がついて、土方はスマートフォンを取り落としそうになった。慌てて、メールの内容を確認する。

『防衛隊から情報提供あり。ありがとうございます。一度、支部へ戻って下さい』

「……思ったよりもお人好しらしいな。あの連中」

「“ありふれたブルー”?」

「ああ、悪い。今から清掃局に連絡する」

 『了解』とだけ返信し、土方は連絡先から清掃局を選んだ。スマートフォンを耳に当てながら、土方は改めて志ほりの焼いた道路の惨状を見回す。

 ……嘘偽りをもって接していれば、いずれ綻びが出るのは当然のこと。

 神々廻の言葉を思い出し、土方は眉根を寄せた。

(だが、を、どの面下げて今更明かせって言うんだ……?)

 自問自答に、明確な答えは返ってこなかった。

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