1. 再会
「――ちょっと待て!」
思いもよらない連絡に、土方は思わずスマートフォンの向こうに怒鳴り声を上げた。
周囲の視線が集中するのを感じて慌てて口元を押さえ、壁に向かって片手をつく。
『いやさ、本当に悪いと思ってるんだ』
少年のような高い声、全くそう思っていない口調で話すのは、“蜘蛛の糸”と呼ばれる馴染みの情報員だ。
オーヴァード、それに関わる人間たちは、自分と周囲の身の安全を図るためにこうした
だが、顔は知っていた。小柄で、髪を茶髪に染め、おおむねチェックのシャツにデニムといういかにもないでたちをした眼鏡の青年だ。本当ならば今、目の前にいるはずだった。
『でも知ってるだろ? 腕のいい情報員ってのは多忙でさ、君だって最近徹夜ばっかりだったって聞いてるぜ。僕もそうだ。この二日というもの、全く寝てないんだ』
「資料の受け渡しをすっぽかした挙句、次に会えるのが三日後ってのはどういう腕のよさなんだ?」
『だから、申し訳ないって言ってるじゃないか、“ありふれたブルー”』
それは土方のコードネームだ。土方は鼻の頭に皺を寄せて唸った。
「声から誠意が感じられない」
『そういう声なんだよ。僕が誠意を込めて謝っても、みんな口だけだって言うんだ。すごく困ってる』
すごく困っているのは俺だ――と、なおも言い募るのを、土方は何とか堪えた。言ってもどうしようもない。
“蜘蛛の糸”はここに来られない。手に入るはずだった情報も手に入らない。
つまり、ほぼ丸腰のまま行かなければならないということだ。頭が痛かった。
「……分かった、とにかく三日後だ。三日後には絶対にT市に来いよ。でなきゃ、次はお前のセーフハウスに乗り込んでやる」
『無駄に《リザレクト》したくなかったらやめた方がいいよん。それじゃ、待ち合わせがあるから失礼!』
もう一言文句を言う暇もなく、あっさりと通話は切れた。
憎々しげに画面を眺めながらも、土方は時間を確かめる。支部へ赴任する予定の時刻まで、あと一時間以上もあった。何のために早起きしたのか分からない。
歯噛みして、駅をぐるりと睥睨する。
早い時間帯なのもあって、人通りは疎らだが、早足で職場へと向かっているのだろう勤め人たちの姿もある。
昨日と同じ今日、今日と同じ明日。見ている世界が違っても、身分はそうそう変わらないような気もした。
(……まあ、いい。早く行けば行っただけ、真面目だと評価されるかも知れん)
全くよくはなかったが、とりあえず最大限前向きに考えて、土方は上着のポケットにスマートフォンを差し込んだ。…何にせよ、目的地へは向かうべきだ。
コンコースを真っ直ぐ北へ歩き、駅を出るとすぐに
T市にこの大規模で大仰な歩行者通路ができたのはほんの数年前だ。立ち並ぶビルの中を縫うように通るこの通路は、存在するだけで独特の景観を作り出す。
モノレールや多くの路線が乗り入れ、商業施設や行政機能が集中したこのT市は、周辺地域の中心的な役割を担っていた。人口も多く、流入と流出が同程度であることから、夜人口と昼人口もそれほど差はない。それなりの規模の都市。
(確かに、新任支部長の能力査定って言うのも不自然な話じゃない)
自前で調べていた土地の情報と、わずかばかり伝え聞いている支部の情報を突き合わせる。
ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク——UGNは、19年前に爆発的に世界中に広まった、とある「ウィルス」と「発症者」から人類を守ることを目的として作られた組織だ。
一般には公表されていないこのレガシー・ウィルスは、世界中の人間の多くが潜在的な感染者であると言われているが、そのほとんどは発症することなく一生を終える。
だが、ひとたび発症した者は「オーヴァード」と呼ばれ、様々な超能力を発現し、ふつうの人間とはまったく異なるものに変貌する。つけられた傷がたちどころに癒える超再生能力は、その一端に過ぎない。
UGNはオーヴァードを保護し、その存在を隠蔽し、普通の人間たちに昨日と、昨日の昨日と、それよりもずっと前と同じ日常が今日も続いているかのように見せかけている。そのために世界中に、支部と呼ばれる網の目を張っていた。土方が向かっているのも、その支部の一つだ。
各支部は地域に根ざしたものが多く、支部の頭、支部長もころころとすげ替えられるものではない。
UGNの手が回りきらない小都市に、幼いといっていいほどの少年少女たちが支部長として配属されることもあるが、T市ぐらいの規模になれば構成員は数十人にも上り、彼らを管理するためにそれなりの経験が求められる。……子供の頃から訓練を受けてきたものも多いUGNでは、土方の半分ほどの年齢の子供が、驚くほどの経験と能力を持っていることもあるが。
翻って見ると、土方と同年代らしい新たな支部長は明らかに経験がないようだ。
年齢は二十七、八だが、オーヴァードになってまだ日が浅く、以前に支部を持ったこともない。赴任した後も定常の報告はつつがなく行われているようだが、支部長の能力を改めて確認したい、と上が考えるのも無理はないだろう。――表向きは、そうだ。
が、今回の調査の本当の目的は支部長ではなく、その経験浅い彼、あるいは彼女を迎え入れた支部員たちの方だった。
何せ辞めた前の支部長というのは、
FHは、オーヴァードによる犯罪を組織的に行う国際テロ組織である。当然のことながらUGNとは激しく対立しており、この日本でも日々、二つの組織による暗闘が行われている。セル、と呼ばれる、横のつながりのほとんどない小さなグループに分かれたFHの本来の目的はいまだ謎に包まれているが、UGNにとっては放っておけない存在であることは間違いがない。
UGN支部長の、FHへの寝返り。
支部のカラーにもよるが、おおむね支部長と支部員というのは戦友であり、ある種絆で結ばれている。その支部員たちを置いてひとりだけ、というのは確かに引っかかった。
前支部長に人望がなかったと見るべきか、それともいつでも使える手駒をいざという時のために敵陣に残したと見るか。日本支部は、恐らく後者を疑っている。
(だからこそ、支部員の情報を“
土方は、今頃別の顧客と顔を合わせているだろう情報員に、再び恨みがましい思いを向けた。
“蜘蛛の糸”はUGNの情報班に所属しており、UGNの中に広く深い情報網を持っている。表向きにT支部メンバーの深い情報を掘り出すことを避けた土方は、馴染みの彼に情報の直接提供を依頼したのだ。まさか、それが仇になるとは思わなかった。内偵に行くというのに、支部員の名前一つ知らない。……これは、リスクヘッジを怠った自分の責任でもあるのだが。
何となく足取りが重くなるのを感じて、土方は立ち止まった。
スクランブル交差点の歩行者用信号は全て赤。人通りは、先程よりは少し増えている。信号が青に変わると同時に、足早に歩きだす人々が――不意に、倒れた。
「――あ」
土方は声を上げて、辺りを見回す。交差点の車は全て止まり、周囲の人間はすっかり脱力して座り込み、あるいは倒れ込んでいる。
(……《ワーディング》!)
思い至ると同時に、土方はすぐさま走り出した。
どこかほど近い場所で、オーヴァードが能力を使っている。FHか、UGNか、それ以外。
「クソッ、先に誰かいてくれよ――」
毒づいて、土方は気配を辿りながら、倒れる人の間を駆け抜けていった。
大通りから路地へ入り、右へ左へ曲がりながら走り続ける。あっという間に息が上がる自分の運動不足を呪いつつ、地響きのような音が耳に届くに至って、方向が合っていることは確信する。気配の主のところまで、あと十メートル、五メートル――
――まず目に入ったのは、鮮やかな緋色の光。
そしてねじくれた二対の角を持った、巨大な異形。
土方はよろけながらも立ち止まり、異形に対して向き直った。
ウィルスに感染し、発症した人間のうち実に五割が、体の変質に耐え切れずに正気を失い、暴走すると言われている。ジャーム化と呼ばれるこの現象は、UGNがオーヴァードを隠匿する理由の一つである。
黒く染め上げられた太い四肢。爛々と光る黄色く濁った瞳。その顔には人間だったころの面影がわずかに残っていたが、体と同じように厚く獣の毛に覆われている。腕が土方の胴ほどもあり、膝を曲げて前屈しているのにも関わらず、見上げるほどの体高があった。
土方の姿を認めた
と――
ジャームの鼻先に、緋色の光球が現れる。
初めに見たあの光。
「――おぬしの相手はわしじゃ! よそ見をするでないわ!」
異形の巨躯の向こうから聞こえてきた幼い少女の声に、身構えていた土方は一瞬、呆気に取られた。ジャームが低く唸りながら、ゆっくりと背後を振り返る。
向かい側に仁王立ちしていたのは、聞こえてきた声通り小柄な少女だった。
年の頃は、恐らく十にも満たないのではないだろうか。濡れ羽色の前髪を行儀よく切りそろえ、後ろ髪は飾り紐で結わえている。身に纏っているのは場違いにも艶やかな、赤い着物。
少女は形の良い眉を釣り上げ、手に持つ扇をびしりとジャームへ向ける。
土方は息を整えながら、一瞬状況を忘れて呆然と少女を見つめた。こちらの視線に気が付いたのか、少女は土方を一瞥し、にやりと笑ってみせる。ジャームへ向かって、低く抑えた声音で笑いかけ、
「――よそ見をするなと言うたはずじゃ」
ジャームの背後で、
破裂したような音とともに異形の背から首にかけての肉がごっそりと消え、赤黒い血がしぶく。天を仰ぎ、ジャームが苦悶の声を上げた。
だが、この程度ではオーヴァードというものは仕留めきれない。
抉れた部分からぼこぼこと肉が盛り上がり、動画を逆再生するかのように、瞬時に傷が再生していく。そして傷が治りきらぬままに、ジャームは猛然と少女へ向かって突進した。角と同じようにねじれ切った黒い
だが少女は笑みを崩さず、避けるそぶりも見せなかった。多少の傷で死ぬことがないのは彼女も同じだ。しかも恐らく、ジャームよりもずっと傷つけられることに慣れている。気にもしていない。
鉤爪はそのまま振り下ろされ、あやまたず少女を切り裂く――はずだった。
「なっ!?」
余裕に満ちていた少女の表情が、一転して驚愕に変わる。
いつの間にか少女の眼前に男が立って、彼女を庇っていた。
肩から腰にかけてを袈裟懸けに切り裂かれ、血を噴き出しながら、それでも体勢は崩さない。少女の方とは言えば全く予想外だったようで、手に持った扇を男へ向け、な、な、と言葉にならない声を繰り返している。
「――“
構わずに声を上げた男の声に答えるように、ジャームを炎が包み込んだ。吼える異形のその体に、ふっと小さな影が差す。
見上げれば、そこにもう一人、――黒いセーラー服に身を纏った少女が、噴き上がる火焔に導かれるように降りてくるところだった。
「さようなら」
燃え上がる炎とは対照的な、醒めた表情。
別れを告げる言葉とともに、黒い異形は業火の中に消えた。
◇ ◆ ◇
阿呆か――
ジャームが完全に灰になったのを確認した途端に大声を上げたのは、扇を持った方の少女である。怒りの表情を向けられたのは、彼女を庇った男だ。
黒い髪、青い瞳、彫りの深い白い顔は、明らかに日本人ではない。彼もオーヴァードであるのだろう。傷はすでに治り切り、服の残骸で血を拭きとっていた。
「口を酸っぱくして言っておるじゃろうが! おぬしは後衛で、接近戦はからっきし、しかも支部長なんじゃぞ!?
そのおぬしが、何でのこのこ前に出てきてわしを庇うんじゃ!」
「それはまあ、
「名前で呼ぶでない!」
キョトンとした顔で言った男の広い額を、飛び上がった少女、神々廻の扇がしたたかに打ち付ける。
……確かに、今のは素人臭すぎる発言だ。しかしどうやら彼が、T市支部の支部長で間違いないらしい。
扇で打たれた支部長は、困ったように笑って頬をかくだけだ。
――その顔に、なんとなく見覚えのあるような気がして、土方は眉をひそめる。
支部の資料は件の手渡し失敗のせいで手に入れられておらず、支部長の顔もまだ見ていないはずだ。
だとするなら、いったいどこで見たのか。
「支部長が貴女を庇ったおかげで、ジャームに動揺が生まれ、隙ができました。とどめを刺せたのは支部長のお陰です」
携帯電話でどこかに連絡を取っていた少女――恐らく、“
「支部に連絡しました。清掃班は二分後に到着します。――それと、服の替えも頼んでおきました」
「ああ、ありがとう、“
「いえ」
残骸と化した服を示して笑う支部長に対して、少女はにこりともしない。こういうタイプの若い少女に、土方は心当たりがある。典型的なチルドレン。
「――ところで」
支部長の視線がこちらを向いた瞬間、土方はぎくりとした。
たれ目がちの青い目が、笑みの形に細められている。既視感は消えることがなく、土方は硬直した。
「貴方が、日本支部からの増員という――?」
「恐らくそうじゃろ。《ワーディング》を感知して、ここまで走ってきおったのじゃからな」
男の問いに答えたのは、何故か土方ではなく神々廻だった。
土方は沈黙したまま、黙って男の目を見返す。……絶対に、どこかで見覚えがある。だがどこで。
「ええと……?」
「……ああ、そうだ。“ありふれたブルー”だ」
胡乱な表情になる支部長に、土方は慌てて首肯する。ああ、よかった、と男は笑って、土方に右手を差し出した。
「T市支部にようこそ。俺はルネ=レスピーギ。歓迎します。どうぞよろしく」
――
思考が、停止する。
目の前に血だまりが広がり、胸に鋭い痛みが蘇ってくる。
(何で、分からなかったんだ……?)
彼だ、間違いない。
見覚えがあるはずだった。何故なら、自分は彼とずっと――
「――あ、痛っ!?」
思考を遮ったのは、こちらに手を差し出したままのルネの悲鳴だった。
「本名を! 外で名乗るなと! 言ったじゃろうが! 何度言ったら分かるんじゃ!」
「痛い! 痛い痛い痛い! すいません! つい!」
どうやら、頭ではなく届きやすい尻を叩くことにしたらしい。容赦なく振り下ろされる神々廻の扇から、ルネが悲鳴を上げて逃げ惑う。それを不満げな顔で、“
「“
「規律を緩ませているのはこやつじゃろう、言って聞かせて分からぬなら、こうするしかない――」
「……」
“
「――多少やりすぎだったかも知らん」
「明かにやり過ぎです。支部長も、黙ってやられていないで下さい」
「いや、ごめん。ただ、神々廻さんの言うことももっともだから――
ええと、すみません、みっともないところを見せてしまって」
眉を下げ、ルネは困ったような笑顔をこちらに向けた。土方は再びぎくりとするのを抑えて、いや、と首を振る。動揺から回復し、“ありふれたブルー”の仕事へ戻ろうと試みる。それができる。
「俺は支部長の能力を調査して、日本支部にそのまま報告するだけだ」
表向きは、そういうことになっていた。
ああ、そうだった、しまったなあ、と気の抜けた声を上げるルネを見て、土方はこっそりと胸元を押さえた。治ったはずの胸の傷は、痛みが強くなるばかりだ。押し殺して、息を吐く。
「……今のジャームは、散発的なものか? それとも何か、ここの支部で当たっている事件があるのか」
「それは、まだ不明です。支部でも調査中で」
「またその話か」
呆れ顔で神々廻が口を挟んでくる。扇を閉じて、ルネの方を無遠慮に差し、
「おぬしの気にし過ぎじゃと言うたじゃろう。そもそもじゃ、こんな――」
「――“
ルネにコードネームで呼ばれ、神々廻は言葉を止める。ルネは笑みを消し、真剣な顔で神々廻を見つめた。
「分からないことに対して、分かったことにするほど危険なことはない。そう教えてくれたのは貴女でしょう」
「ム……」
神々廻は鼻白み、扇を広げた。どうも、情けないばかりの支部長ではないようだ。仕事の頭で考えて、土方は唇を歪める。
「支部長、それはつまり――」
「詳しい話は、戻ってからにしましょう。ここで話すのは少し不用心だし、このままだと風邪をひいちまいそうだから」
ルネは土方に微笑みかけると、周囲に視線を向けた。耳を澄ませると、調子のそろった足音が聞こえてくる。――どうやら、清掃局が到着したようだ。
「もう一回。T市支部へようこそ、“ありふれたブルー” 俺たちは、貴方を歓迎します」
支部長の言葉に、神々廻と“
……俺は、お前らの中から
とは、まさか言うわけにもいかず、土方は首をすくめて応えるに留めた。
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