残されし裏切者(ダブルクロス) ~土方治の調査記録

ω

0. Grand Opening

 体の下から広がっていく血を、ぼんやりと眺めていた。

 ほんの少し前までは、焼けるような痛みに悲鳴を上げていたような気がする。気が付けばうつぶせに倒れて、と湧き出続ける血だまりを眺めていた。今も痛みが消えたわけではなく、穴の開いた胸元が鼓動に合わせて強く痛んでいたが、心臓の弱まるのに伴って痛みも鈍く、全身からは力がまったく抜けきって、声も出ない。そもそも肺腑のどこかが致命的に傷つけられているのだろう。口から喉までが血で塞がれている。日が照っているのにひどく寒く、力は入らないのにがたがたと体が震えていた。

(死ぬ……)

 ぼやけた頭を占めているのは、その単語だけだ。

 なぜ、こんなにも血が出ているのか、なぜ倒れているのか、いつから倒れているのか。全く分からず思い出すこともできない。時間の感覚もなく、体の感覚もない。

 ただ死を待つだけだ。

 恐怖を感じるような頭さえ、残されていなかった。

(死ぬ……)

 実感はなく、言葉だけが繰り返される。

 けれど、間違いはないように思われる。

(死……)

 不意に目の前が翳り、血だまりが波しぶきを上げた。

 誰かの顔が目の前にある。こちらを覗き込んで、必死の形相をしているように思われる。視界がすっかりぼやけて、だれなのか分からない。明瞭に見えていたとしても、思い出せなかったかも知れない。

 ただそれは、とても深く青い瞳をしていて、

「なあ、なあ、あんた、しっかりしてくれ。どうして、こんな、大丈夫かよ、なあ……」

 知らない誰かに対するような声音に、何故かひどく傷つけられた。

 ……同時に、深く安堵してもいた。

 あるべきものがあるべきところに収まって、全てがなかったことになる。

 それがどれほど素晴らしく、どんなに残酷なことか、よく知っていた。

(これで、ようやく、)


 ――冷めやらぬ銃口が、後頭部に押し当てられる音。



 ◇ ◆ ◇



 揺れたのは、電車と自分の両方だった。

 びくつきながら目を覚まし、抱えていた鞄をどうにか落とさずに済んだ土方ひじかたおさむは、慌てて周囲を見回した。

 とは言え、車内は彼が寝こける前と大した差があるわけではない。

 窓の外を淡々と流れる風景、居眠りをする女性、本を読む老人、スマートフォンを横にして持つサラリーマン――両手で吊り革を掴む壮年の男性の胡乱な眼差しに曖昧で笑みで返すと、土方は気まずく座席に座りなおす。土方から目をそらし、飽きるほど見ているであろう窓上の広告へ視線を戻したかれの向こう、ドアの上の表示を見やると、目的地まではあと二駅ほどだった。どうやら、乗り過ごさずに済んだらしい。

 やれやれ、と息をつき、土方は恐る恐る胸元に手を置いた。

 白いカッターシャツに血の染みはついていない。銃弾が貫いた痕も、失血からくるひどい倦怠感もない。手のひらはじっとりと汗ばんでいたが、まじまじと見てみても赤く染まってはいなかった。

 ――数年前に銃刀法が改正され、銃を所持する資格を持った人間が増えてきた日本ではあるが、電車でうたた寝をできる程度にはまだ気の抜けるお国柄だ。

 土方もそのお国柄に甘え、移動時間を睡眠に充てることはそれなりにあったが、さすがに夢を見るのは久しぶりだった。しかも、過去に起こったことをそのまま見るのは。

(しばらく、思い出しもしていなかったんだが)

 鈍い胸の痛みは気のせいとするにはやや強いが、古傷の類はそこには残っていない。

 拳銃で撃たれたのは十年も前の話だったし、二発目の銃弾に脳みそを撃ち抜かれたあと、

 振り返って窓を見つめると、ぐっすり眠っていたとは思えない顔色の悪い男の顔が、うっすらと映っている。

 焦げ茶の髪には普段通り直しがたい癖がついている。貧相な割に肌は浅黒く、夢見がよくなかったせいか顔からはすっかり血の気が引いていた。やつれているようにも見える。最近、あまり寝ていないからかも知れない。

(……これから新しい仕事だってのに、ずいぶん情けない面構えだな)

 自嘲して、土方はなんとなく片頬を歪めて見せた。単に引き攣っているように見えて、なんとなく決まらない。

 そうこうしているうちに窓に向かって日差しが差し、虚像は消えてしまった。

 電車の動きが緩やかになり、車内アナウンスが到着を告げる。思い出したようにスマートフォンを取り出し、時刻を確かめる。一瞬ひやりとしたが、電車の運行に遅れはなく、ちょうどいい時間だった。これならば、問題なく合流できそうだ。

 鞄を抱え直すと、土方は座席から立ち上がった。

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