第3話

 俺が去年通っていた大学に今年から通う妹は、去年の俺と同じように、アパートを借りて一人暮らしをしている。

 妹の借りているアパートは、去年俺が借りていたアパートと同じで、大学から徒歩七分程度の場所に建っていた。

 しかし、日本の夏は何故こうも暑いのか。海外に行ったことがないので比較対象がないのだが、とにかく暑い。幽霊が出ると言い張るアパートに着いた頃には、俺も妹も汗だくになっており、本当に幽霊がいるのなら涼ませて欲しいと、俺は割りと本気で思っていた。

 最も、そのアパートで幽霊が出たことなんて、一度もないのだが。

 アパートは四階建てで、妹の部屋は三○三号室。電子錠になっており、勝手知ったるなんとやらで、俺は電子錠に番号を入力し、部屋の鍵を開けた。

「あれ、お兄ちゃん。私お兄ちゃんに番号教えたっけ?」

「何かあったら大変だって、お前の分だけじゃなくて、家族用の番号作っただろ?」

「あ、そっか」

 妹が納得したので、早速俺たちは部屋に入る。部屋は1Kの七畳で、床はフローリングとなっている。

「しかし、相変わらず物少ないな」

 妹の部屋においてあるのは、机と洋服棚に、たたんである布団、それとケトル。それのみだった。

「それで? 幽霊っていうのは、その、何だ? 何が起こるんだ?」

 詳しくは部屋に着いてからと言われ、我が愛しの妹からは、それ以上の情報を俺はもらっていない。

 俺の疑問に答えるように妹が指さしたのは、ケトルだった。見覚えのあるそのケトルは、俺が大学祝で妹にプレゼントしたものだった。

「これが、どうかしたのか?」

「このケトル、沸騰し終わっても沸騰し続けるんだよ」

「……壊れてるだけなんじゃないのか?」

「それだけじゃなくて、勝手に切れる時があるのっ!」

「ケトルが?」

「うん」

「お前に? 手荒く扱ったから、キレたんじゃないか?」

「ちーがーうーっ! そっちのキレるじゃないっ! 沸騰してないのに、勝手に切れちゃうってことっ!」

 ぽかぽかと妹に叩かれ、終いには髪まで引っ張られながら、俺はなんとなく状況が読めてきた。

 なるほど。妹は、ケトルの故障を幽霊の仕業だと思っているわけか。残念過ぎる。でもそこが可愛い。

 俺は妹に向き直り、一+一の答えがわからない生徒に答えが二であることを説明する先生のように、なるべく丁寧に口を開いた。

「いいか。ケトルには水が沸騰していることを確認するセンサーがついている。そのセンサーが『沸騰してない』と感じれば沸騰し続けて、『沸騰している』と感じれば勝手に切れるんだ。だからこれは幽霊じゃなくて、ケトルの仕様の問題だな」

「なるほど。流石お兄ちゃん」

 妹が納得したように、大きく頷いた。

「なら、幽霊の正体はケトルのセンサーだったということで。新しいのに買い換えるのを、俺はオススメするよ」

「でも、これお兄ちゃんが買ってくれたやつだから、このまま使いたいんだけどなぁ」

 悲しげにケトルを撫でる妹を見て、俺の目頭が熱くなった。

 やばい、お兄ちゃん泣きそう……。

「そうか。まぁ連続して使ったりしなければ、大丈夫だと思うぞ。でも本当に危なくなる前に、買い替えような」

「うん!」

 頷く妹を見て、俺の顔が自然と笑顔になる。

「じゃあ、幽霊騒動はこれで解決したってことで」

「ちょっと待ってお兄ちゃん! 話はまだ終わってないんだよっ!」

 話はこれからだとでも言わんばかりに、帰ろうとした俺を、妹が呼び止める。

「なんだ。まだあるのか?」

「うん。あのね、五月ぐらいから、ベランダに下着を干しておくと、なくなる下着があるの」

「は?」

「だから、下着がなくなるのっ!」

 妹の台詞に、俺の脳が一瞬フリーズする。

 下着が、なくなる?

 妹の下着が、なくなる?

 俺の妹の下着が、なくなる?

「……お前、何でそれを先に言わないんだ? 普通に窃盗事件じゃねーか!」

 何処のどいつだ、そんなことする奴はっ!

 見つけ出して、八つ裂きにしてやるっ!

 怒り心頭の俺を、妹がなだめる。

「で、でも、ちょっと変なんだよ」

「変? 何が?」

「男物の下着だけが、なくなるんだよ」

 どうしたものかといった表情の妹を見て、俺はこう思った。

 ……ああ、やはり、やはりそうなってしまうか。

 そう。俺が妹に彼氏がいると知っていたのは、妹の部屋から男物の下着が干されているのを、見てしまったからだ。

 あの時の気持ちと言ったら、何と表現していいのかわからない。腸どころか全身が煮えくり返りすぎて、溶岩にでもなってしまった気分だった。

 出来ればその話は、妹としたくなかった。というか、妹の口から彼氏がいるような発言は聞きたくなかった。聞く前に、何とかして別れさせたかった。

 でも、もう見て見ぬふりは出来ない。

 震える声で、俺は妹に問いかけた。

「お、お前、お、男物の下着って、どどど、どうしてそんなもん、も、持ってるんだよ!」

 その問に、妹はあっけらかんと、こう言った。

「何言ってるの、お兄ちゃん。女の一人暮らしは危険だから、洗濯物を干す時には男物を混ぜろって言ったのは、お兄ちゃんでしょ?」

 ……おや?

「……つまり、男物の下着は、お前の彼氏のものではない、ということなんだな?」

「うん。そうだよ」

「じゃあ、彼氏がいないっていうのは?」

「喫茶店でも言ったじゃん。彼氏なんて、私いないよ」

 YES! YES! YES!

 心のなかでガッツポーズをしていると、妹が心配そうに俺の顔を見上げていた。

「それで、下着取られるの、どうしよう。取られる度買いに行くの、面倒なんだけど……」

「それについては心配ない。明日からは、そういうことはなくなる」

 俺は力一杯、自信を持って断言した。

「え? そうなの?」

「ああ、だから心配しなくていいぞ」

 妹は少しだけ考えるように小首をかしげた後、納得したように頷いた。

「お兄ちゃんがそう言うなら、きっとそうなんだね。あ、そういえばお兄ちゃんの相談事は、何だったの?」

 おっと、妹の彼氏が気になりすぎて、すっかり忘れていた。

 俺は妹に、『音』と遠くから直接見られていることを伝える。

 それを聞いた妹は、俺を安心させるように、ニッコリと微笑んだ。

「それについては、後数日でなんとかなると思うよ。お兄ちゃん」

「そうなのか?」

「うん! だからお兄ちゃんは、気にしなくていいよっ!」

 んー、いまいち納得出来ないが、妹が言うのなら、きっとそうなのだろう!

 流石は俺の妹! 完璧だなっ!

「じゃあ問題は全て解決したみたいだし、俺はもう帰るな」

「うん。帰り道、気をつけてね!」

 妹に見送られ、俺は妹の部屋を後にした。

「あら、あの人――」

「もう引っ越したって――」

 アパートの階段を降りている途中、そんな声が聞こえたが、俺は気にしないことにした。

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