第60話 今はもうない過去 神域

 ゆっくりと鳥居を潜る。……今私は、境界を越えた。

 周りの空気が、どろりとしたモノに変わる。暗いクライ泥の中に沈んでいくみたい。


 右足を参道に踏み出す。


 踏み出した足が、トプリと黒い闇に飲み込まれる。

 足が……沈んでいく。底無し沼に沈むように、踏み出した右足が沈んでいく。


 イメージに囚われてはいけない。


 よく見なくては、自分の足元を。足元の参道を……見る。


 大丈夫、私は此処にいる。大丈夫、きっと大丈夫。


 私の足は参道の石畳を踏みしめた。

 石畳は苔むしている。真っ暗な夜、不思議とその参道だけはよく見えた、見えるようになった。何もない闇の中に橋が掛かっているみたい。参道は奥の本殿まで続いている。


 参道を歩いていく。

 じゃりじゃり、という石を踏みしめる音だけが響く。

 誰も言葉を発しない。

 ここは神域だ。礼を失してはいけない、でも吞まれてもいけない。


「ねね、水野君。水野君は何をお願いする?」

 私は後ろから付いてくる水野君に、声を掛けた。


「は? え、お願い?」

「そうだよ、折角奥まで行くんだからお願いしないと」

「いや、何で僕ついて行ってるんだ? ……えっと此処ヤバくないか? 帰りたいんだけど」

 水野君もここの異常さは分かるのか、少し怯えている様子。

 

「だめだよ、付いてきて」

 もう、境界は離れた。たぶん水野君一人では帰れない。


「それと考えておいた方が良いよ、お願い事」

「願い事か……なあ、それって叶うのか?」

「たぶんね……叶うよ。でも一人につき、一つだけ」

「はあ、一人ひとつも叶うの? それって凄くないか?」

「うん、たぶんストックが無くなる迄は」

「……何だよそのストックって?」


 参道を歩いていく。

 奥に進むほど、明るくなってきた。

 光。ボンヤリとした、月明りのような光。でもそれは、この暗闇の中では眩しいほどの明るさで。


 参道の奥には石段があった。八段だけの低い石段。

 その石段を上ると……本殿。木でできた家、カミサマがいらっしゃる家。

 

 光はそこから溢れているあふれている


 いやもっと正確に言えば、本殿の扉の前に置いてある鏡から。

 新月の夜。月のない暗闇で、鏡がナニかを反射していた。

 

「何だアレ?」

 水野君が呟くようにして言った。

「神様……かな」


 __いえ、悪魔かも知れないわよ? くすくすくす。


  

 さあ、願い事をしよう。













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