8月編
第44話 ドアの先に祈りを
誰でもいい。
人を殺したい。
そう、殺せるなら誰でもいい。
下らない世の中だ。
俺には将来への希望も、夢もありはしない。
彼女はいない。仕事は昨日辞めた。
このまま生きていて何になる?
どうせ、ダラダラと意味のない生活を送るだけだ。つまり、20代半ばになった俺に残っているのは空しさ、そう空しさしかない。
つまりは楽になりたかった。全てをむちゃくちゃにして楽になりたい。
そもそも、人を殺すのに御大層な動機はいらない。なあ、そうだろう?
夜。
俺は一人歩く。
周りは都会の街並み。
コンビニの光、チェーン店の光、通り過ぎる車の光。歩いている女が持っているスマホの光、光、光。つまりは、夜に光があふれているのが都会だ。
こんなに明るいと、うっとおしく感じる。
俺はメイン通りから二本奥の裏路地へ入る。
世界に本来の夜が帰ってきた。
静かだ。
薄暗い暗闇の中に、ポツリポツリとあるのは街灯の白い光だけだ。
そうだ。夜っていうのはこれくらいが丁度いい。
深夜の1時。
このくらいの時間になると、流石に人が少ない。いや、今のところ裏通りには人はいない。
俺は、右のポケットに入れているナイフを握りしめる。
俺の計画はこうだ。
いや、計画と言える程のモノじゃあない。ただ、人通りが少ない道でノコノコと歩いているアホを殺す。
とりあえず、俺の仕業とバレるまでは殺しまくってやる。
目標としては一日一人、殺す。
ああ、一応財布とか持っていれば札だけ抜いてやるか。何せ生活費が寂しい身分だ。人を殺して、その金で飲み食いする、女を買う。最高じゃあないか。警察に捕まれば死刑だ。楽しまなければ損だろう。
__ジャリジャリ
足を動かすと、音が響く。
ああ、静かな夜だ。
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
__ジャリジャリ
__ジャリジャリ
世界には俺一人しかいない、と思えるほど静かな夜だ。本当に俺しか人がいないなら、人殺しをする必要もないのだが。
下らない想像をしながら、夜を歩く。
しかし、人がいないな。
いくら裏通りと言っても、そろそろ誰か通りかかってもいいはず。
飲み会帰りのサラリーマン。
夜の仕事をしている女。
ちょっとコンビニに買い物に行くヤツ。
いくらでも通りそうなものなのに、…………来ない。
クソ。まったく、ついてない。
あと少し粘ってみて、それでも誰も来ないなら今日はやめておくか……って。
そんなことを考えながら歩いているとき、気づいた。
俺の20メートルくらい先に自動販売機が1台、光っている。
その光の前には女が一人立っている。
はは。やっぱり今日はついている、な。
女の周りに人はいない。
長身の女だ。スタイルがいい。顔も、少し遠くてわかりずらいが……美人。美人だ。
よし、よし。
人を殺すのは今日が初めてだが、俺の初めてがあんな女なら最高だろう。
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
ゆっくり近づきながら、どうやってあの女を殺すかを考える。
通り過ぎると見せかけて、腹にナイフを刺してやるか。
それだけじゃあ死なないだろうから、俺に顔を向けてきたとこで胸をめった刺しだ。
やることは簡単だ。これで死ぬだろう。
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
__ジャリジャリ __ジャリジャリ
__ピ。ガタン
「ん?」
女は自動販売機でジュースを買っているようだ。
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
「は?」
おいおい。……なんだ、買い過ぎじゃあないか? 女は一人だ。それとも近くに誰かいるのか?
俺は警戒しながら女に近づく。
__ピ。ガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタンガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタンガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタンガタン__ピ。ガタン__ピ。ガタン
……この女おかしいんじゃないか? 女は買っていた種類のジュースが売り切れになると、何のためらいもなく隣のボタンを押している。
自販機の前にはジュースが散乱している。
不意に女が身をかがめた。そして、地面に転がっているジュースの缶を掴む。
__プシュ。ゴクゴクゴク。
女は缶の蓋を開けたかと思うと、一息でジュースを飲みほした。
__カラン。
女は飲んだジュースの缶を自動販売機の横のあるゴミ箱へ投げ入れる。
__カラン。
__カラン。
__カラン。
__カラン。
__カラン。
__カラン。
辺りに甘い匂いが漂ってくる。ジュースの甘い匂い、缶コーヒーの甘い匂いが。
地面に散らばっていたジュースは全て空になって、ゴミ箱に叩きこまれた。
……この女は、狂ってる。間違いない。
まあ、いい。
狂っていようが、人は人だ。
最初の練習には良い相手だろう。
もう女は目の前だ。自動販売機の前から動かない。
いや、女は財布を取り出して札を自動販売機に入れようとする。
はぁ? まだ飲むつもりかよ?
俺はさっさと女を殺すことにした。
千円札が、自動販売機へ飲み込まれようとするのと同時に、俺のナイフは女の腹を刺す。
ナイフは女の腹に、深く、入った。
直ぐにナイフを抜く。
さあ、こっちを向、け?
__ピ。ガタン
「え?」
それは俺の口から出た言葉だった。
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
ウソだろ? 女の腹には確かに俺のナイフが? ああ?
女の腹から、黒い液体が勢いよく出てきた。
ナイフが胃袋でも突き刺したか。そりゃあ、あれだけ飲んでるから中身が出てきても不思議じゃないが。
__ピ。ガタン
女はナイフで刺されても、自分の腹からさっき飲んでいたジュースがブチ撒かれていても、無視。
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
__ピ。ガタン
「おいおいおい」
女はまた財布から札を取り出そうとする。
すると、やっと異常に気づいたのか。女は自分の腹を見て不思議そうな顔をした。
そして、俺の方を見る。
「うわ!?」
くそったれ。女がこっちを向いたせいで、腹から出てくる液体が俺の顔にかかりやがった。
俺はすぐに後ろへ離れる。
顔にかかった液体をぬぐおうとすると……顔を触った手に違和感。
「は?」
目が合った。
いや、俺の顔に目玉が。は? いや、いやいや。なんだこれ?
顔をぬぐった手の中には確かに、1個の目玉がある。
「はあ? え、ウソだろウソだろ?」
この大きさ、まさか人間の?
女を見る。液体をブチ撒けている女の腹、を。
俺が刺した腹の傷から、黒い液体に交じって何かが出ている。
よく見ると、赤い赤い何かが、いや、あれは指?
人間の親指のようなモノが腹の傷口から覗いている。
「どうか、しました?」
目の前の女が口を開く。
その拍子に、親指が零れ落ちた。
どんどん流れてくる。ああ、また目玉が、今度は小指が。赤いどろどろとした肉が。
腹から流れ出てくる液体は、いつの間にか赤く、赤黒く染まって。
__俺は逃げ出した。
全力で走る。走る走る走る走る。
「はぁーはぁーはぁー」
いつの間にか、住んでいるボロアパートに着いていた。
さっきのは何だったんだ一体?
夢? 悪夢でも見たのか?
俺は確かに、あの女をナイフで刺した。
そうしたら女の腹から……。
いや、待て待て待て。
おかしいだろう?
…………もしかして、俺は狂ったのか?
女の腹からあんなものが出てくるなんて、おかしい。
実際は、俺は女を殺していて、罪悪感からあんな幻覚を見たのではないか?
あり得る話だ。
きっと、そうだ。
__カタン。
__カタンカタン。
__カタンカタンカタン。
俺は自分の部屋に入ろうとアパートの階段を上る。
俺の住んでいるアパートは2階建てで、俺の部屋は二階の奥の部屋だ。
部屋の前に来て、カギを取り出そうとポケットへ手を入れる。
右手に、ぬるっとした感触。
……そう言えば、俺はあの目玉をずっと握りしめていて。
いや、いや、待て。さっきのは幻覚だろう? そのはずだ。
この手の中の、潰れた目玉も幻で。
__カタン。
だから。あれも、あの階段を上がってくる女も、幻覚だ。
おかしい。おかしい。おかしい。だって俺は確かにあの女の腹を刺した。ナイフで刺した。深く深く、刺した。動けるはずないし、歩ける筈がない。
__カタンカタン。
早く、早くカギを。部屋の鍵を開けなくては。
早く早く早く早く早く。ああああああ!? なんで、手がこんなに震える?
鍵穴にカギが入らない。何だ何だ何で?
__カタンカタンカタン
やっと、カギは入った。
急いでカギを回す。
__ガチャ。
部屋のドアを開ける、よし。部屋まで入ればこの悪夢もお終いだ、すぐに寝て朝になればまたいつもと変わらない日常が来……。
俺は部屋に入った。
悪夢は終わり。
ドアを閉めようとした。
だが、ドアの間から、手が。
白い手が。
どんなに力を入れても、白い手が挟まって、ドアは閉まらない。
どんなに白い手を叩いても、蹴っても白い手は、悪夢は覚めない。
ドアの先は暗い。
闇だ。
闇から白い手が伸びている。
白い手が、あの女の手が俺の部屋のドアをどんどん開けていく。
ああ、俺はきっと悪夢を見ている。
全く、くだらない悪夢だ。
俺はゆっくりと開いていくドアの先を見続けながら、そう考えていた。
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