破敵――その力、百の兵をひれ伏す
「え? おいおい! ちょっと、状況を見ろって! ほら! 周り見ろ! 怖いだろ?」
「陰の界だろ」一真があっさりと答えると男は言葉を失ったように、ぽかんと口を開けた。それからたっぷり十秒経ってから、男は急に真面目な顔になる。
「ふ、まぁいいんだ。お前が誰だろうと!」
いいのかよ、と突っ込む暇は与えられなかった。男が腕を肩からぐるっと回した。その動きに合わせて空中に炎の球が数個、浮かび上がる。
嫌な予感と共に、一真は横へと飛んだ。直後、炎の球が、彼が立った今いた場所に次々と着弾して、爆発する。破片と火の粉が辺り一面に撒き散らされる。しかし、一真は傷一つ負う事無かった。元いた位置から十メートル以上も離れた所まで跳躍したおかげで。
「え?」その事に一真自身がまず驚いた。咄嗟の行動でここまで飛んできたというのか?
「へ! 只者じゃないとは思っていたぜ」むしろ男の対応の方が冷静だった。再び腕を指揮者のように振り、今度は炎の鞭を空中に出現させる。
「あいつ馬鹿だな」
そう評したのは一真ではなかった。頭に直接響いた男の声によるもの。鞄のチャックを開けてみると懐剣の刃が黒に、その輪郭が淡い金色に輝いていた。一真はあんぐりと口を開けてそれを見た。
「おい、お前ぇ。陰陽師じゃねえよな?」
声の主はやはりこの剣のようだった。答えるだけの理性が追い付かず、またその余裕もない。
炎の鞭が空中で不規則な形を描き、上手から叩きつけるように襲いかかってきた。
一真は再び跳躍した。
炎の鞭がアスファルトの地面をいとも簡単に抉る。あんなものが当たったら、死ぬ。あの馬鹿、手加減する気もないのだろうか。
「違う。そういうのじゃない」一真はどうにかそう答えた。剣はふむと、品定めするかのように考える。
「なら、あの馬鹿を倒す手助けをしてやってもいいぞ」
尊大な調子で剣は言った。
「だけど、あいつ、人間だろ?」
一真は慌てて問い返した。うんと剣はあっさりと答えた。
「よくわかったな。あんだけ、ばしばし火の玉撃ってきてるのに」
物の怪の時に感じた独特の怖気みたいなのがないせいだろう。それに男のどこか間の抜けた言動のせいもあるか。
「いやよくわかってはいない。だけど、あいつの目的はお前なんだろ?」
「だろうな。あんな奴に振られた覚えはないが」
どこか飄々とした口調で剣は答える。一真の頭に日向が投げかけてきた言葉が浮かぶ。
――物の怪を利用して、特定の人物を呪う輩が世の中にはいるんだよ。陰陽師の中にはね
まさか、こいつが? 影女を操り、月の母を取り込み、月を苦しめて、追い詰めて。
こんなへらへらとした奴に……。
知らず知らずのうちに鞄の取っ手を握る力が強くなり、軋んだ音がなった。
剣が喜ぶような声をあげた。
「へぇ、お前中々面白い“心”しているじゃねえか」
「どういう意味――」
問いただそうとした一真の視線の先で、男が炎の鞭を振った。が、それは一真を狙った物ではない。鞭が空中で複雑な図形を描き、辺り一面が赤く照らされる。
「あちゃぁ。不味いな」剣が緊迫感に欠ける声で呟いた直後。
「なんだ、あれ……」
一真は青ざめた顔でそれを見た。
そこにいたのは羽の生えた蛇だった。
「騰蛇か。だが、模造品ってとこだな。本物はあいつが式にしている筈だし」剣が何かごちるが、一真の耳には届いていない。全長何メートルになるのか。首を上げた騰蛇はビルの二階にまで届く程の高さだった。全長はその数倍はあるだろう。広げた羽は人間をまるまる包み込める程の大きさがある。
しかも、その身体の全てが炎で出来ており、少し離れた所に立っていても、火傷しそうな程の熱気が伝わってくる。あの男は汗一つなく、あの得意げな顔でこちらを見ている。
「おい、お前。剣とか刀とか振った経験は? フェンシングとかでもいいぞ」
剣が打って変わって真面目な――しかしどこかこの状況を楽しんでいるかのような――口調で聞いた。
「つい、最近。護身の太刀ってのを借りて振った」
「あいつを知っているのか……まぁ、いいや。騰蛇自体は斬る事が出来るが、あいつの身体は炎だ。斬った破片がお前に当たったら大変だ」
「死ぬ?」
「あぁ」
あっさりと肯定されて、ますます一真は怖気づいた。なんだって、届け物をするだけで、生きるか死ぬかの戦いに巻き込まれなくてはいけないのだろう。
かといって逃げるという選択肢はここにはない。一真一人では元の世界には戻れないのだから。
それに目の前のあいつには聞かなくてはならない事がある。
「斬った破片を避ければ……」
「いや、面倒だな。術者を止めろ。騰蛇は奴から供給される霊力で動いている」
一真はちらっと術者と騰蛇を見比べた。騰蛇は主人を守るように立ち塞がっている。手っ取り早いのは、騰蛇を斬り倒し勢いにのって、術者を叩き伏せることだろうが、そんな離れ業は一真にはできそうもない。
「わかった」
素直に聞き、鞄から懐剣を抜いた。刹那、懐剣が金色の光に包まれ、気が付くと一本の細長い剣に変化していた。漆黒の刃の紋、柄に近い位置に幾筋もの呪文が刻まれており、それが金色の燐光を帯びていた。
「見つけたぁあ!」
男は今にも小躍りしかねない程に喜んで、一真が握る剣を指差した。騰蛇がそれに呼応するように叫び、咢をぱっくりと開け突っ込んでくる。
「うわっち!!」
慌てて飛び退る一真に剣が叱咤する。
「バカ! 逃げてちゃ倒せないだろうが」
「逃げるなってのは、無理があるだろ!!」
地面に置き去りにした鞄が炎の蛇に呑まれる。借り物だったのに。
一真は唇を噛みしめる。騰蛇から距離を取りつつ、一真は術者である男に気を配る。が、騰蛇の胴体と尾が邪魔だ。
「上はがら空きだな」
剣が言った。彼(?)が言わんとしている事が伝わり、一真は息を呑んだ。同時に相手にその考えが聞こえているのではないかと危惧する。剣はそれを読み取ったかのように付け加える。
「俺の声は使い手だった者にしか伝わらんぞ。さぁ、ウダウダと考えてないで、さっさと跳べ」
全く、これではどちらが使われているのかわかったものではない。
「飛べって鳥じゃないんだから」男と騰蛇に聞こえない程の小声で一真は愚痴った。
「そっちの飛ぶじゃない。いいから足に力を入れろ。俺が跳べと合図するからその瞬間、思いっきり蹴れ」
よくわからないまま、一真は足に力を加え始めた。体重を少しずつかけて――
「跳べぇええ!!」
剣の大声と共に一真は地面を蹴った。その身体が軽々と騰蛇の図体を通り越し、男を通り越し、
「バカ!! どこまで行くつもりだ!?」
男の背後、数メートル後ろの地面に一真は足から転がった。着地失敗。頭と背中を何度も何度も打ち付けながら転がる。
「痛っぇええええ」
「俺が霊力を送ってなかったら、そんな痛みでは済まなかったぞ」
剣が呆れながら言い、一真は言葉を返せなかった。別に反論しようと思えば出来たが、肺の空気が全部吐き出されてしまったのだ。
男が振り向いた。騰蛇はその背後にいる。チャンスだ。
一真は全身が軋むような痛みを無視し、立ち上がると前に向かって跳んだ。騰蛇を飛び越えた時と同じように。
目の前に着地してきた一真に驚き、男は後ろに跳ぼうと足を動かしたが身体が止まる。一真の左手が男の胸倉を掴んでいた。ガクンとブレーキが掛かったかのように男が仰け反る。
「へ?」男が間抜けな顔で一真を見た。右手には剣が握られている。
一真の顔は無表情だった。男が我に返り、左腕を振り切ろうと身体を動かすか動かさないかという所で。
その無が、破られる。
「面っ――――!!」
刃の表面が男の間抜け面に思いっきり叩きつけられる。
鍛えられた身体が宙を飛び、地面を転がり、騰蛇の目の前でようやく止まる。
主人が倒された事に怒ったのか騰蛇が巨大な咢をぱっくり空けながら迫ってきた。
「な」
術者が倒されたから消えるのではなかったのか?!
殴り掛かるのに全力を使った一真は反応が遅れた。すぐ傍にまで騰蛇が迫り、一真は目を見張る。
が、その牙が標的を焼く事は無かった。騰蛇はまるで時間が止まったかのように咢を開いたまま、飛びかかる姿勢のまま、静止していた。
茫然と身を守るように剣を構える一真の前で、それは形を崩しながら、地面に倒れて、一瞬にして灰塵となりはてる。
「ほらな、消えただろ?」
剣が得意げに笑い、一真はちらっと自分の手元を見下ろした。
「あぁ、確かにそうだけどさ……」
一真は倒した男に近づき、屈んだ。思った以上に強くぶっ叩いてしまった気がする。
男は気を失ってしまっている。よく、バトル物のアニメとかで、主人公が相手を殺さずに気絶させる場面があるが、実際にこうして気絶している相手を見るとすごく怖い。殺してしまってはいないか、後遺症とか残ってやしないか等々思っていると剣が笑った。
「クククク! 間抜けだなぁ。ま、あんだけでかい物召喚していれば、それだけ術者の動きは鈍くなるだろうけどなぁ。こんな素人に負けるとはホント間抜け」
「だ、大丈夫なのか? この人! 死んだりとか……」一真は思わず叫んで問う。
「ないない。術者ってのはな。大体が防護用の装備を身に着けている。こいつの場合は服じゃないな。服の中に護りを入れてやがるな」
ポケットをまさぐると、符がいくつも出てきた。そういえば月も戦う時は折り紙を取り出し、狩衣に変化させていた。
あれが、物の怪の攻撃からの防護服のような役割を果たすのだろうか。ふと思い出して、一真は自分の制服の胸ポケットから金の折鶴を取り出した。
「これも、そうか?」
「ん? そいつぁ」と剣は微かに驚きの声を漏らした。
月と再会するきっかけとなった物だ。陽の界と陰の界の狭間にある扉をくぐる事が出来る鍵。
「今の所、陽の界と陰の界を行き来するのにしか使ってないけど」
「いや、それは副次的な効果だな。霊具には大抵、その効果が付属すんだ。で、そいつの本当の能力は二つの世界を行き来する為のもんじゃぁない。誰に貰った?」
「春日月」
その答えに剣は黙り込んだ。何かいけない事でも言っただろうか。それとも、思案しているのか。ややあって、剣は口を――どこについているか知らないが――開いた。
「なるほどぉ。あの栃煌神社の陰陽少女ねぇ」
陰陽少女。一真は頭でその言葉を反芻させる。確かに彼女にぴったりな言葉だろう。
「知っているのか?」
「知っているも何も、そいつの父親が俺の使い手だったからな」
「そうなのか」
一真はさして驚かずにそう返す。護身の太刀と兄弟であるという事を聞いていたから、その可能性も考えていた。
それにしても、なぜそれが叔父の元に行ったのかが謎だった。叔父は剣を発見したとしか言っていない。どこで発見したか、とかは聞いていない。
今しがた、倒した術者の男を一真は見下ろした。
もしかして、彼は刀真が叔父から破敵の剣を取り返す為に送られた陰陽師なんじゃないか? が、詮索するのはよそう。叔父は返すと言っているのだから。
「なんでもいいや。だったら刀真さんの所まで送り届けるよ」
「いや、いい」
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