願望――誰かのために
碧が月の部屋に布団を敷き舞華が水桶と手拭を用意し、日向はそれが整ったのを見て、月をそっと布団の上に降ろした。
途端、月の体が光り、狩衣が消え元の制服姿に戻った。浅く上下する胸の辺りに折り紙で折られた狩衣が、いつの間にか現れ、それを日向が拾い上げる。
月の制服を見て、ふと一真は今頃学校では大騒ぎだろうなとぼんやりと思った。携帯は幸か不幸か電源を切りっ放しにしてある為、どこからも連絡はない。再びつけるのは怖い。
その場で立ち尽くすしかない一真の前で、月の手が微かに痙攣するように動いた。続いて、その手が持ち上がり、何かを掴もうとするように持ち上がる。
「う、うぅ、ぐっ」眠り、意識のない筈の月の顔に苦悶の表情が浮かぶ。
「月?」
一真は他の三人がどう思っているかも考えずに、その横に膝をつき手を握り返した。肌は一真の掌の中で冷たく、握ると怯えるように震え、一真は思わず手を引っ込めそうになった。一真や一真よりも気の強い未来ですらも怯えてしまうような物の怪を前にしても、気丈に戦っていた面影は、今や触れただけで壊れてしまいそうな砂細工のように儚ない。
いや、もしかしたらあの猛々しい姿すらも彼女の心の中にある恐怖を紛らわす為の物だったのかもしれない。その可能性は十分にある。母を解放したと思った時のあの月の安堵感を思えば。その後にいとも簡単に物の怪に捕らわれた事を考えてみれば。
引っ込めかけた一真の手に、しなやかで細長い指が覆いかぶさり留めた。驚く一真の後ろで碧が呟く。
「彼女を守るつもりがあるのなら、手を離さないで」
暗緑色の真剣その物の鋭い瞳は、一真の心に試練を与えていた。お前は本当に彼女を守る気があるのか、と。一真はそれにどうにか応えられるよう、真面目な顔を作ってみせた。
中学の時、担任の先生に「面接したら見縊られそうな顔だな」と評された事を不意に思い出す。いかにも頼りげなく見えてしまうかららしい。だからこそ、一真は自分の必死な気持ちを一割でも伝えようと碧の顔を思わず睨んでしまった。
「なんで睨むの?」と怪訝な顔をされるかと思ったが、意外な事に碧は突然小さく噴き出した。
目元が笑っている。馬鹿にしているという風ではなかった。しばらく顔を逸らしてから、最初よりも幾分か和らげた表情で答える。
「守るつもりがあるのはわかった」でも、と碧はそこで再び口元を緩ませて付け加えた。
「もう少し肩の力抜いた方がいいと思う」
ぽかんと一真は口を開けたまま、碧の横顔を見つめ、それから傍に立っている日向と舞香の顔を見た。
舞香は月の事が心配なのか、姉の言った事は耳に入っていない様子でおろおろとしている。対する日向は月の容態によっぽど自信があるのか、一真の間抜け面を笑っていた。
「アハハ! 一真君、鯉みたいー! ぱくぱくー」
「あぁ、どうしようー! 月がー!!」
その両極端な反応がなんとも滑稽で、碧の助言通りというか、自然と肩の力が抜ける。そしてふと見ると、月の手と自分の手ががっしりと、固結びされた紐のようにがっしりと、強固に結ばれている事に気づいた。
「え、あ……これ?」
「さぁ、さぁ、私達はそろそろお暇しましょう」
ここは、あなた方の家じゃないのですか? 一真は心内で激しく聞いた。取り乱す舞香の肩を抑えて、唐紙の向こうに行こうとしている。部屋を出て行こうとしている。何の為に?
口をそれこそ鯉のようにパクパクパクパクと開け閉めしながら、一真は去りゆく姉妹を引き留めようとしたが、言葉が出てこない。二人を無理に留めようとすれば、月と握っているこの手を離さないといけない。だけど、それをすれば月を守るという決意を放棄する事になるわけで……。
「一真、さっきは本当にごめんなさい」
去りかけた碧がふと立ち止まって謝った。そして、一瞬躊躇った後、意を決したようにこう付け足す。
「こんかいの怪異。関わっているのは物の怪だけではないようね」
「それはどういう……」
一真が問い返した時には唐紙は既に閉じ、少女の二つの影は向こうに去っていた。残されたのは一真と月とそして日向の三人。何故、日向は行かないのかと思ったが、考えてみれば日向は月の式神だ。一緒にいるのは当然だろう。
碧の言葉の意味を問おうと日向の方を向こうとした一真の耳に再び、月の呻き声が聞こえた。
「うっく、ううぅ」
どうしたらいいのか分からず、一真は月の手を握ったまま、日向に助けを求めた。医学的な事は全く知らないし、そもそも月のこの症状は医学的な物に当てはめていいのかも分からない。
「放っておけば、治まるのだけどねー」
日向はいかにも助けを求められたからやりますという感じに頭を掻きながら言った。人差し指と中指をピッと合わせ、それから素早く胸の前で九字を斬り、その指先を月の額の上に当て、そっと撫でた。
「心中の邪気は外に出でて、無と化す」
指先に何か黒い霧のような物が浮かび上がる。あの女の物の怪が絶え間なく出していた霧みたいだ。
ふうっと日向は息を吹きかけた。口から出たのは赤い火のような吐息だった。黒い霧が一瞬にして飛び去り散っていく。すると月の顔に浮かんでいた苦悶と咽喉から漏れ出ていた剣呑な響きが取り除かれる。同時に月の瞼がそっと開かれた。
漆黒の瞳がまず天井を見た。それから式神の日向を見た。そして、一真を見た。最後に自分の手を見――
「か、一真!?」
がばっと驚愕の勢いのまま、起き上がった月は、がはがはっと酸素を吸い過ぎて呼吸困難に陥り、胸をどんどんと叩いた。日向がそっとその後ろに回って背中を摩るとようやく落ち着く。少なくとも肺だけは。月自身は取り乱したままだった。
「ここは、一真、なんで、どこで、あんな、どうしたの、無茶をして!! そして、この手! 手!! 手!!!」
「落ち着け!! 何を言っているのかさっぱりわからん!! いや、大体言いたい事は察したけどさ!!」
元来、人に状況を説明するのが苦手――なのは、説明の大切な部分を抜いて話す癖があるからだが――な月の説明は更に混沌を深めていた。とりあえず手を握っている状態になっている事が一番の動揺だったらしい。
「あ、ここは神……社?」月は、はっと見まわして言った。
「そうだよ。やっと気づいたか」
一真は、呆れと安堵の混じりにそう答える。握る手の力が徐々に抜け、どちらからという事もなく離れる。
月はその手を何度も何度も擦りあわせ、顔を赤らめていた。咄嗟とはいえ、握り返してしまった一真も耳たぶまで夕日のような色に染まっていた。
「あ、あのだな」
「あ、あのね」
二人が同時に口を開き、気まずくなって黙り込む。
「さっきのはだな」「別にね、あの」
――沈黙。
こんなやり取りが一分近く続くと、マイペースな日向も流石にじれったくなったのか、さっさと事の次第を話し始めた。
月が日向と一真を残して先に行ってしまった後の事、月が気を失った後の事。等々。月と同じ顔なのに、説明はとても流暢だった。
「――で、月はその後、この部屋に運び込まれてきて寝かされて、自分から一真君の手を」
「え、握ったの?」月はあわわと再び顔を赤らめた。
「握ったのは俺。お前は手を差し出しただけだ」一真はぴしゃりと言った。が、自分から手を握ったのと自分から手を差し出したのは、五十歩百歩。
そんな大差ない事である事に気付いた。いや、気付かなかったことにしよう。一真は誤魔化すように咳払いした。
「そんな事はどうでも良くて、だな。月はもう大丈夫なのか?」
「あ、うん。大丈夫だと思う。後で碧に見て貰わないとわからないけど」
月は首を回して、どこか異常がないか調べるように視線を巡らした。碧に何を見てもらうのだろうと、一真は思ったが口には出さなかった。それよりも碧と言えば、彼女が言った事の方が気になった。
「なら、良かった。さっきは本気で心配したんだぞ? あの物の怪にお前が――」
言いかけて一真はハッと息を呑んだ。言葉を止めた時には、月の頬を水晶のように大きな涙が伝っていた。それが固く握った手の上で割れるように小さなしぶきを上げる。
「うん。ごめん……私のせいで一真に酷い思いをさせた」
静かに泣く月の小さな肩を抱いて、慰めてやりたい。しかし、一真の手は月の温もりに触れるか触れないかの位置で止まり、引っ込む。
駄目だ。こんな陳腐な慰めで、月の気持ちがどうして和らぐ? 一真は自分の無力さに思わず拳を握った。だが、それを感情のままに畳にぶつけるわけにもいかない。
「謝るなよ」
一真は十年前に叫んだ言葉を静かに繰り返す。だが、あの時のように軽々しく「つよくなる」等とは言えなかった。あの時となんら変わらない。自分は未熟なままだ。
「俺が勝手に飛び込んだ。それで危険な目に遭ったとしても、お前に責任なんかないだろ」
「一真」驚いたように月が目を瞬きさせた。下手な慰めよりかは、効果があったかもしれないが、これでは余りにも子供っぽい気がして、一真はすっと息を吸うと共に口を開いた。
「一真、あの……ありがとう」
一真は口を開いたまま、その言葉を聞いた。ありがとうの頭文字「あ」が咽喉からぽとりと出た。首を傾げた月に一真は「あ~~~~!!」とそれこそ、子供みたいな声を出した。先に言うつもりだったのに。だが、それをそのまま言っては本当に子供だ。お子様だ。
「いや、俺こそありがとう。俺が勝手に飛び込んだのに……お前は俺と未来を守ってくれた。そして日向も」
日向は自分に礼の言葉が向けられると思っていなかったのだろう。二人のやり取りをずっとにやにやにやにやと少々不気味な笑みで見守っていたのだが、それが驚きと照れの混じった戸惑いの表情に変わる。
「え、そんな私何もしてなーい」
「いや、お前がいなかったら、俺は月の所にいけなかったし。未来だって助けてくれただろ? 俺は何も出来なかった。偶然と周りの助けが無ければ何も出来なかった。刀真さんが来なかったら……だから、月。ごめん」
言い出したらきりがないし、これでは同情を得る為の泣き言でしかない。だが、何を言いたいのかが、見つからない。今言った事にしても否定して欲しくて言っているわけでもないが、自分が一番言いたかった事なのかもわからない。
情けなさで上手く合わせる事の出来なくなった顔を月の白い指が触れた。熱があるのか仄かに赤みの指すそれは桜のようで、浮かぶ汗は白露を思わせる。だが、その手に触れられている一真本人はそんな、趣ある事を感じている余裕もない。心臓が跳ね上がるような思いでその腕の先、月の顔を見た。
「謝らないで。一真は傍にいてくれた。私一人だったら心細かった。だからね、謝らないで」
月の無邪気な笑顔が広がり、一真の心で絡まった葛藤が懊悩が悪夢がもたらした雲が嘘のように晴れた。自分はこの少女を守りたいから、彼女を悲しませたくないから、悩んでいたのだということを一真は思い出した。
――強くなりたい
一真は打って変った澄んだ少年のような明るい心で強くそう願った。
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