告白――友人と金蛇の式

 剣道着と防具を身に着けた一真達は、互いに素振りと打ち込みをしっかりとした後、二人組を作り、回り稽古をするという流れになった。と言っても今日は未来がいないので二人が戦っている間、一人は見学していなければならない。


 回り稽古とは、短い時間の間ひたすら打ち合う稽古だ。


 元の人数が少ない事もあって、未来の不在は一層、気になった。


「そうそう、言い忘れてたけど、未来は風邪引いて気分悪いからって、本人から電話が来てたよ」


 愛沙が思い出したように言う。一真はなるべく胃から込み上げるパニックを抑えつつ聞いた。


「あいつ、大丈夫でした?」


「声聞いた限りではねー、大丈夫そうだったよ。いつもより元気は無さそうだったけど。心配なら電話したら? 後で。つーちゃんのいないところで」


 最後の一言は隅で正座しこちらを伺っている月に聞こえない小声。「つーちゃん」とは月の事らしい。今思いついたのか、昔、使っていたあだ名なのかはわからない。



 思わせぶりな助言だが、月と一真は恋人同士というわけではない。再会したばっかりだし、あの弁当にしたって、昨日の気まずい雰囲気を直したい為に持ってきたのだろうと一真は思う。


 月が自分に好意を持っているのは知っていたし、一真も月の事が嫌いじゃない。幼い頃は短い間とはいえ、共に遊んだし、あやふやな記憶を信じるならば、彼は月に命を救われている。物の怪の手から。


 物の怪と戦い続けているという真実を知った後では、彼女の為に何かできないかと、力になりたいとも言った。だが、それがよくある少年漫画のような、恋愛感情からかと聞かれると、一真は違うと答えるだろう。それが正しいのかどうかも彼にはよくわからない。


「別にかまいませんよ。あいつにも未来の事話してますし」そんな事で月が嫉妬するとでも思っているのだろうかと、一真は棘のある言葉で返した。



 怒られるかと思ったが、意外と愛沙はすんなり引いた。どうにも、それが「やってみて失敗しても知らないからね?」という上から目線の行動のように見えて、一真はますます不満な顔になる。


「よーし、やんぞ、一真―!!」


「お願いします」


 斉藤が叫び、一真が応じる。足の擦る音と両者の奇声が道場の緊張を一気に高める。一真は返事こそしっかりとしていた。足捌きも経験者として身についた乱れのないしっかりとした姿勢で、構え方もまるで隙がないように見える。


 だが、彼自身の心には落着きの欠片も無かった。こうして対峙すると月との戦いの記憶が脳裏をよぎる。力の加減がわからない。


 入部してから殆ど一度も勝てた事がないこの先輩に勝ちたいという、心の底から湧き上がる情熱はある。しかし、それが増長しすぎて、力を出し過ぎたらどうなる?


 自分の竹刀が、防具の保護のない部分を貫いて――


――バシン


 鋭い痛みと共に、頭が一瞬真っ白になり、一真はたまらず後ろに下がって竹刀を上げた。



 その動作の全てが隙だらけで鈍重だった。空いた小手を打たれ、面を打とうと前に出るとすれ違い様に胴を打たれる。気にせず、小手を打とうとすると、その攻撃は半歩下がるだけで避けられ、同時に面を思いっきり打たれる。そこで動きを止めればさらに一発。


「そらそらぁあ!! どうした!?」


 斉藤の声が、ぼうっとなる一真の頭に鈍く響いた。



 それでも、一真はどうしたらいいのかわからない。普段でさえ、どう打てば勝てるのか考え過ぎて動けないというのに。その後も一真は一本も入れる事も出来ないまま、愛沙が止めの号令を掛けた。


 一真は荒い息と共に床に座り込んだ。その後の愛沙と斉藤の戦いは目に入らなかった。ふと見ると月がこちらに視線を送っている。



 そこに浮かんでいる表情を見て、一真はますます暗い気持ちになった。やはり、月は昨日の事を気にかけているのだ。自分のせいで、一真が思うように力を出せていないのではとまで考えているのだろうか?


 もっと強ければ。一真は形のない踊りのように跳ね、飛び合う二人の戦いを目の端で眺めながら思う。



 月を守れるくらい強い力があれば、こんな惨めな思いをしなくても、させなくても良かったのに。


 だが、今の彼にはどうすることも出来ない事だ。後で月とはきちんと会話をしないと。一真には他にどうしたらいいか思いつかなかった。


 稽古はその後も続き、二十分程した頃、顧問の秋原が入ってきた。三人の部員が稽古を中断して、そちらに一礼する。



 応援者である月も一礼した。秋原はその応援者を見て驚いた。彼女が今日転校してくる生徒ということ、そして彼女が京都の方で名の馳せた道場の者だと知っていての驚きなのかもしれない。


 一真が事情を説明すると、秋原は納得したように頷いた。「へぇ。つまり彼氏の応援というわけだね」


「さすが、秋原先生。話がわかるね!」


「いや、だからどーして、そんな解釈になるのか……」


 皆して連携のいじめなのではと一真は疑いはじめていた。そして、月が秋原のいう事を否定しないのも気になった。照れ隠しのようにただ微笑むだけだ。まあ、自分よりも大人だから、そう返せるのだろう。そうでなくては、困る。


「ま、それよりもだ。今日の練習はこれまで。部員は全員上の体育館に移動。そう、朝練している全ての部員。そうだ、月さんも上に来てくれないかな」


 秋原の言葉に月は黙って頷いた。やはり、行方不明になったというその女子生徒の事だろう。だが、彼女は一体どうなってしまったのだろうか。月に聞くのも恐ろしい気がした。


 道場に一礼してから、出るとそこには藤原霧乃の姿があった。


 涼しげだが、どこか暗い顔で、肩に鞄を掛けている。一真の記憶が確かなら、彼はどの部活にも属していない。


 こんな朝早くに何をしているのだろう? 隣の部屋から空手部や柔道部が流れ出てくる中、霧乃は一真の姿を認めて、含み笑いを口元に浮かべて近づいてきた。


「霧乃? なんでここに?」


「いやさ、応援しに。朝練の」


「お前も!?」あんぐり口を開ける一真の後ろから月が首を出した。その表情が驚きに、次いで見る見るうちに真っ赤な怒りに染まる。


「藤原!」


「そう怒らないでよ、春日の巫女さん。俺は神社の前でずっとじっと待っていたのにいつまでも来なかった一真が悪い」


 霧乃は特に堪えた風でもなく、そう言う。月はまだ何か言いたげだったが、話が逸れると思ってか自制心を働かせていた。


「昨日は神社前で待っていろって言っただろ? 順序立てて説明するつもりが、滅茶苦茶になったじゃんか」


「待て。何の話だ? いや、待ち合わせ場所をまともに聞いてなかった俺は悪いかもしれないけどさぁ。そうじゃなくて、お前は一体?」


 月と霧乃の顔を交互に忙しなく視線を変える一真を見て霧乃は苦笑し、その肩を掴んだ。


「落ち着けよ、一真。もう、色々知っていると思うから単刀直入に言うぞ。俺も彼女と同じく陰陽師なんだ。と言ってもそこで怒ってる人に比べたら無名の陰陽師だけどね」


 驚きの余り、一真はぱくぱくと口を開閉しそこで固まった。一体どこから突っ込めばいいのかがわからない。


「お前が――?」後ろに気配を感じて一真は黙った。


「おや、藤原君じゃないか。なんだ、やっと剣道部に入る決心がついたか?」斉藤が訊ねると霧乃はにべもなく断った。


「いえ、入りませんよ。体育館にいる生徒は全員集合らしいですね」


「釣れないねー」


 愛沙が苦笑しながら言い、階段に向かう。しばらくその場に凍り付いていた一真だが、月が戸惑うような視線を向けてきたので、どうにか彼らの後に続いた。


「あいつも、か……」


「うん、そう」


 月がこくりと頷き答える。それ以上何か言おうとしたが、月は言葉が見つからなかったのか黙ったまま階段を上った。


 あいつも。


 あいつが。


 そんな言葉が頭で巡る。オカルトが好きで時々おかしな物言いをするが、本物の陰陽師だったとは。月と同じ……彼女を助ける事が出来る立場の人間。一真が真っ先に抱いたのは羨望だった。


 彼が欲しくても手に入らないその力を霧乃は当たり前のように持っている。嫉妬したところで仕方は無いのだと一真は自分に言い聞かせたが、どこか釈然としない気持ちが残る。


 それを押し隠したまま、一真は歩き始めた。焦燥が発する痺れを宥めすかすようにゆっくりと。いつもよくするようにすっと息を吸いはいた。湿った汗の匂いですら、今の一真にとっては森林の空気に等しい。そうすると少しだけ気持ちが楽になる。


「一真?」


 上から月が呼ぶ。窓から零れる光を受けて、彼女の姿は菩薩のように輝いて見えた。


「あぁ、今行くよ」


 一階の体育館には既にいくつもの部がそれぞれの場所でひしめき合っていた。殆ど全員が桜ヶ丘の女子生徒に起きた悲劇を知り得ているようで、何人かはその噂話をしていた。



 斉藤と愛沙が適当に空いている所に座り、一真は、どうしたらいいか迷っている月の袖をそこまで引っ張っていく。


 特に冷房も扇風機もない体育館の中は瞬く間に蒸し風呂のような暑さとなり、部員達はそれを紛らわそうと互いに喋りあったり、服を揺さぶって汗を落としたりしている。


 一真は誰とも話さなかった。傍に霧乃が座ったが、今ここで話すわけにもいくまい。何気なく後ろを見回していると入口の方から数人の教師がぞろぞろと入ってくるのが見えた。他の部員もそれに気づいてか、俄かに館内は静まり返った。


 先頭に立った秋原は、生徒達の前まで歩いてくるとぽつんと立っているマイクを手にする。他の教師達を見やり「僕から話していいのですか?」と聞いていた。剣道部の顧問で、段は五だと言うのに、この教師はいつも控えめで人に気を配っている。



 その温和さが生徒達には人気であるが、他の教師達にとっては付け込み所であり、よく無理難題を押し付けられている。


 やがて、マイクを手に取った秋原は、暗然たる感情を殺した低い声で告げた。


「あー、今日はとても悲しいニュースを伝えないといけないのですが。その様子だとみなさん、察しはついているようだね?」


 一人一人と目を合わせながら、剣道部顧問は聞いた。生徒の殆どが頷くのを確認し、彼は頷き返した。


「では、正確な事を今ここで話しておこうか。お隣の桜ヶ丘高校に通っている女子生徒が昨日から行方不明となっています。これが単なる家出なのか、それとも事件性があるのかはまだ、確実にはわかりませんが、警察からの情報によると事件性が高いとのことでした」


 その情報の内容については何も言わない。生徒達からざわめきが湧いたが「静かに!!」という他の教師からの言葉に皆再び静まり返る。


「その女子生徒さんと一緒にいた男がいるという目撃証言があったみたいでね」と秋原は付け加えた。


「そういう事で、放課後の部活動がしばらくお休みとなるよ。目安としては大体一週間かな」


その言葉に喜び、または憤り、戸惑う等様々な反応が見えた。低学年や大会とは縁のない者は当然喜ぶし、五月に大会がある者にとっては、練習が減る事に焦りを抱く。


 一真としては、どっちでも構わなかった。大会はいつも一,二回勝って、三回戦目くらいで負けるのが常だったからだ。それにこれ程心が乱れている時に練習を続けても意味はない。


「ちくしょう、剣道部だけ例外にしてくれないかなぁ」等と愛沙が前で悔しそうに呟いていた。彼女は去年、全国大会に出るつもりだったが、その前の予選戦で、惜しくも敗れている。


 最後にせめて華々しい成果を残したいと思うのは自然の感情だろう。


 秋原は、生徒達のざわめきが収まるのを待ってから事務的な口調で告げた。


「なので、勝手に放課後に活動しようとするのは禁止。授業が終わったら出来うる限り、早めに家に帰る事。不審者に追われた場合は、大声で助けを求めるか、防犯ブザーを鳴らす事。しかし一番の対策は、一人にならない。人通りの少ない道には入らない事だね。以上! かな?」


 秋原は自信無さげに後ろを見やると教師達は短く頷いて応じた。解散という言葉が教師から聞こえ、生徒達は誰と言うでもなく、狭い入口に押し掛けた。


 ふと一真が壁に掛けてある時計を見るともう、八時を回っていた。制服の端を引っ張られるのを感じて、一真は振り返った。一真の肩の所に月の顔があった。


「私、挨拶してこないと。先生に」


「あぁ。わかった。けど……」一真は自分のクラスの担任でもある秋原を見やり、それから霧乃に視線を移した。人ごみの中から細い目がこちらを見ていた。


「あいつの事はあいつから聞いて」月の言葉に一真は静かに頷くと彼女は、秋原の元へと走っていく。人ごみの流れる動きを熟知しているかのようにその動きは素早く滑らかだった。


「そういうわけで、お前に聞くぞ」背後に近づいてきた霧乃に振り返って一真は言った。いつもの何を考えているのかわからない仮面のような顔がそこにはあった。


「もちろん」


 二人は、たったいま秋原から言われた事を無視するかのように、生徒達が多く通る場所を避け、今は人通りのない購買店にいた。店自体は鍵が掛かり、中には入れないが、外には木造のテーブルや椅子がいくつか置かれていた。自販機もある。普通のジュース類だけでなくお菓子や何種類ものパンがある。ここ数年で生徒からの要望を元にして作られたものだった。

 が、その要望を出した生徒達はもう何年も前に卒業してしまっていた。要望が教師達の間で協議され、それをいよいよ作ると決まるまで何年もの歳月が経ってしまっていたのだ。

 だが、要望を出したその生徒達にしても自分が飲み物を飲みたいそれが為だけに訴えたわけではないだろう。そんな身勝手な要求なら協議にかけられるまでもなく、却下されている。

 遅刻しないためだけに朝ご飯も食べずに学校に来る生徒、夏の暑い日差しで熱中症になる運動部、そしてクラスの中の雰囲気を明るくするための手段として彼らは、自販機の設置を求めたのだ。だから、この自販機はある意味で先輩方からの遺産であると言っても良かった。

 先輩方が残してくれたそれらの前でせわしなくボタンを押しつつ霧乃が聞いた。


「なんか、食う?」

「いや、いい。おにぎり食べたし」

「もしかして月の手作り?」


 だから、どうしてそう察しが……と一真は思ったが、言うだけ無駄だと思って黙った。誰も彼もが、自分と彼女の関係を拡大解釈しすぎている。


「でも、あいつ料理下手だからなぁ。それも救いがたい程ってわけじゃなくて、単に下手ってだけで、からかい甲斐もないんだけどなぁ」

「それはいいから。さっきの話を早くしてくれ」一真が急かすと、霧乃は口を止めた。ガコンという音が、沈黙のなかで響く。

「お前もあいつと同じ陰陽師なのか?」

「そうだね」


 霧乃は屈んで自販機の差し出口からお茶を一本出しつつ、あっさりと答えた。


「彼女の家系は昔、皇族に仕える陰陽師だった。で、俺の家系は民間で呪いや卜部をしていた法師陰陽師。今では実質的な違いは無くなってるけどな。で、一真はどこまで知っている?」

「陰の世界に物の怪が住んでいて、そいつらが強くなりすぎると俺達の住んでいる世界に悪影響を及ぼすって事と、物の怪は負の気によって形成されたものだって所までかな。後、霊気と霊力がどうのって話をあいつの式神から聞いた」

「へえ、結構色々な事を聞いたんだ」


 そう。色々な事を聞きすぎた。一真はそれらの全てを未だ、完全に受け入れられていない。自分の今、いる場所とは違うもう一つの世界がある事。

 そこに物の怪という人の悪感情が生み出した怪物が住んでいる事。その怪物は力をつけすぎると自分達のいる世界に飛び出し、人に取り憑く事がある事。そして、今もどこかで彼らが誰かを目標にしているかもしれない、いや昨夜は自分のいる場所からさほど遠くない場所で女子生徒が襲われた。その矛先が今、どこに向けられているのかもわからない。本当なら、その全てが目の錯覚だったのだと、夢の中の出来事だと無理やり思い込んでも良かった。


――幼馴染の少女がその世界で戦っているという事実さえなければ。


 記憶の彼方にある彼女は、コロコロと表情を変える無邪気な少女だった。いる場所はどれも夜の光景だった。あれは一真の記憶違いなどではなく、陰の世界だったのだろう。そうした記憶の中では、時々月とはまるで関係ない光景もあった。頬の削げた真っ白な人の顔、枯れ木から噴き出した鈍く光る漆黒の爪が近づき、呑み込んでくる……。

 物の怪。そして、あれが恐怖。自分は恐らく月に助けて貰ったのだろうが、そこの記憶だけが無かった。

 なんと恩知らずな脳みそなんだろう。そして何よりもあんな幼い頃から彼女は物の怪と戦っていたのだと思うと胸が痛まない筈がなかった。


「なぁ、陰陽師は物の怪と戦う霊力って力が強いって聞いた。それは生まれつきのものなのか?」


「それは確かにあるね。だけど、それだけじゃない。何時間、何年という鍛錬、一秒一秒の刹那をも無駄にしない修行による所が大きいね。賜物がいくら優れていようと、磨かずに放っておけば、ただの人間となんら変わらない成長を遂げる。普通はね」


「だけどある意味で、生まれついての賜物だよな。陰陽師の家に生まれれば、それを鍛えるだけの環境が整っているわけだろ?」

「そういう家は現代ではもう、殆どないよ。神職ですら、霊力を蓄える本格的な修行のない所が殆どだからな。それ、と。ない事前提で、一応釘を刺すが、今からお前が学んでも、身に付くような力じゃないからね?」


「わ、わかってるよ。んな事」


 一真は意表を突かれて、そう答えていた。実際、霧乃が危惧した事は図星だ。どんな修行をすれば、霊力というのが身に付くのか。その事が頭を支配していた。

 物の怪がどうやって生まれたとか、陰の世界がどうしてあるのかなんという事は正直どうでもいい。問題は月がその中で戦っている事だった。

「わかっているならいいさ」ふうっと霧乃は安堵したような溜息をついた。

「本当はね。俺は一真が、こういう状況に巻き込まれないように、立ち回る役目を刀真さんから命ぜられていたんだ。月の正体と陰陽師と物の怪。全て話したうえで、彼女にはあまり近づかないようにって警告するつもりだったのだけどね。ものの見事に失敗したなぁ」


 言う割にはあまり、任務に失敗した事には執着していないようだった。その飄々とした態度は掴み所があまりにもない奇矯さがある。


「それを俺が全部信じたかどうか、わかんねえぞ」

「それならそれでいいのさ。神社連中が物の怪退治だなんてオカルト染みたことを本気でやろうとしている。それを知るだけで、お前は月に近づこうとは思わなくなる」


 肩を竦め、さらっとした口調で放ったその言葉は適当な屁理屈ではなく、まるで理に適っていた。


 たとえ、それが幼馴染への幻滅という、理不尽な偏見からの感情で仲を引き裂くという策だとしてもだ。


 正しいとは思えないが、確かに効果はあるだろう。たぶん。一真は呆れて首を振った。腹を立てる気にもなれない。


「とんでもない奴だな」


「友を危険から引き離す為ならこれくらいするさ」



 偽悪的な笑みを浮かべ、霧乃は立ち上がった。その言葉を信じていいのかどうかわからなかったが、一真の数少ない友は、信じて貰おうが貰わなかろうが構わないという調子だった。



 その視線がふと道の脇に鬱蒼と茂っている叢に向けられた。釣られてそちらを見た一真は思わず立ち上がった。


「おい、あれは?」


 叢の中で爛々と黄金に輝く双眸があった。通りかかった不用心な獲物を待ち構えるようなその獣じみた姿勢に一真は警戒する。が、霧乃の反応はまるで違った。友人を窘めるかのような口調で、彼は言った。


「おい、勾陣こうじんそんな所にいたら怪しまれるだろうが」


「すまないなぁ。だが、いつ敵が来ても守れるようにと思ってよ」


 するすると出てきたのは金色の蛇だった。それが大きな口を開けて皮肉っぽい少年みたいな言葉で話している。どんな反応をしたらいいのか、一真は戸惑い固まる。



 今まではどんな非現実的な存在であっても、式神も物の怪も人の姿をしていた。だからというのも変だが、彼らと話す事も出来た。だが、この目の前の奇妙すぎる存在に対してはどうしたらいいものか。


「式神の勾陣。一応主人は俺なんだけど、あんまりそんな感じはしないかも」


 霧乃の言葉に勾陣は蛇の鼻を鳴らした。人間でいうところの馬鹿にしたようなしぐさというやつか。


「いつもいっつも言っているがな。俺ぁ元々、京の都の守護をしてたんだよ。偶々、お前ぇの事が気に入ったからついてきてやったんだ。感謝しろよ? 一人の式神すらもついて来ないてめえの為を思っての行動だ」


 その恩着せがましい鷹揚な態度に、霧乃はぞんざいに手を振って答える。


「はいはい、感謝してますよ。それより、一真が怯えてるからさ。人化してくれない?」


 金蛇の視線が一真を射抜いた。息を呑む一真の前で、勾陣は何か考え込むように首をもたげる。次の瞬間、その蛇の尻尾が二股に分かれ、胴体からは二つの足が飛び出した。頭からは、金髪がまるで蛇の尻尾のように伸びでる。顔は爬虫類の面影が幾分か残りつつも、人間らしい顔になっていた。首が少し長く、そのせいか勾陣は見下ろすような形で一真を見た。


「へえ、お前さん。これはこれは……」


「な、なんだよ?」一真がどぎまぎしてやっとの事で口を開いて聞いた。


「いんや、貧弱そうだと思ってね。大丈夫かね?」


「あ、まあ」


 何が大丈夫なんだかと一真はわけがわからないまま応えた。


「さて、それといいのかい、“ごしゅじんさま” そろそろ『ホームルーム』とやらかが始まってしまうけど」


 ハッと一真は腕時計を見た。朝の会が始まるまで後三分とない。月が紹介されるのは恐らくその朝会のホームルームの時だろう。その時に自分がいなかったら、彼女はどんな顔をするだろう。


 それを思って横を見やると、全てを見通すかのような霧乃の表情があった。


「俺は別にいいよ。どうせ朝会なんていつもと同じでつまらないよ。一真の所と違って」


「な、何言ってんだ。お前まで変な噂を信じ込んでいるんじゃないだろうな? ただでさえ、部活動内で変な噂が立っているってのにクラス全体に回っちまったら俺はどうしたらいい?!」


「一真は間違っているね」


「は?」


 怪訝な顔する一真の目の前で霧乃は指を振った。


「クラスどころか、学級否、学校全体に伝わっている」


「――!?」


 声にならない叫びを上げながら、一真はその場を逃げ出した。


 そんな馬鹿な事あるわけがないと心の中で自分に言い聞かせながら。噂は広まるに連れてとんでもない方向に飛躍するものだ。特に学校みたいな、浮かれ騒ぎが好きな連中がいる場所では。何としても噂の元を糾弾し、問い詰めねば――


†††

 走り去る一真の後ろで、三食パンを口にしつつ、霧乃は目の端で笑っていた。仮面のようなその笑みはいつも人に冷淡なイメージを与える。とんでもない誤解だが、今はそのイメージも幾分かは正しいと霧乃は思う。それにここ数年は心の底から破顔一笑した事も無い。


 一真が月がどこか昔と違うように思っているらしいことも、この賢しい陰陽師は見抜いていた。彼女もこの十年。色々な意味で変わった。きっかけは残酷。結果は、決して良い方面のみの成長を促しはしなかった。


「ほんと、面白いやつだよな」


 誰とは言わなかったが、誰なのかは明らかだ。勾陣はあからさまに嫌な表情になった。


「そして、あいつのする事を面白がってからかうお前はかなりの下衆な奴だな」


 霧乃は肩を竦めてみせただけで、パンを口に入れるその手を休めない。微笑は既に無かった。打って変わり、今度は陰鬱そうな瞳がその先の青空に吸い込まれていた。


「いいじゃん、いいじゃん。こんな糞みたいな汚い仕事をやらされているんだ。少しくらい、ね?」


「馬鹿馬鹿しい……で」


 にべもなく否定し、勾陣は辺りを見回した。木々が不気味な風でざわめいた。瞬きの間に周りの叢に、枝の上に影が差した。一つ、二つと降りはじめた雨のように次々と現れたそれらは、人の形をしている物もあれば、獣もいる。そして、獣と人を混ぜ合わせたかのような異形もいた。


 それらの集団を一言で表すのであれば、魑魅魍魎あるいは百鬼夜行。腕を組んだまま、勾陣は、主人に尋ねた。


「どうすんの? こんなに集まってきたけど」


「そりゃあ、勿論」と霧乃はパンの入っていたビニールの包みをぐしゃっと潰した。その瞳には好戦的な獰猛な炎が宿っていた。


「きちんと迎えてあげないとね。その為に、ここにお越し願ったんだし」

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