朝練――朝は卵から始まる
翌朝、一真はこれまでにない程清々しい気持ちで起きる事が出来た。寝覚めもその後の体の調子も含めて。昨日あれだけの事があれば、悪い夢の一つや二つ見てもおかしくはないと覚悟していたのに。
「や、おはよー」
「どわああ!?」
日向の声がどこからともなく響き、突然肩を叩かれて一真は思わずとびさすった。朝っぱらから近所迷惑な事である。一真は胸を押さえ、非難めいた視線を日向にぶつけたが、まるで堪えた様子はなかった。
「にいちゃーん、なにー? 今の悲鳴ー」
隣から妹の声が聞こえ、ドアが開く音と歩み寄ってくる気配がした。
「まずい、日向かくれ……」
一真が注意を促したその時にはもう既に日向の姿は無かった。胸に何か温かみとざらついた感覚が伝わってくる。直後、部屋が開いた。起きた時のままのぼさぼさの髪を掻きながら花音が入ってきて、辺りを見回した。眠たげな眼がふと一真の顔に止まった。
「昨日は遅い帰りだったようで」
「わ、悪い。神社に寄ってたんだ」
あれ、昨夜言った筈……やはり寝ぼけているのか。花音は短く溜息をついた。
「あぁ、そうだったね。そうそう、思い出したけど月さんが戻ってきたて話ね。学校でちょっとした話題になってたよ」花音の言葉に一真は軽く驚いていた。一体いつの間に、月はそんな有名人になったのだろう。
「長く離れ離れになってた恋人だものね。えー、えー、わかるよ」
「お前、寝ぼけてない?」
「ねぼけてねーよ!」
むしろ酔っぱらいみたいな口調で花音は否定した。「わかったわかった」と、一真は彼女を諌める。ふと窓の向こうの朝日に照らされている神社の瓦葺の屋根が目に入った。月はどうしているだろう。それとも、もうとっくに起きているのだろうか。
「で、さっきはなんで叫んだ?」
「……悪い夢を見た」
「あ、そう。じゃあ、朝ご飯よろしく。私もう少し寝る」
机の横に置いてある時計を顎でしゃくり、花音はぼやいた。時計は六時にすらなっていない。部活の朝練がある一真は、いつも朝早くの時間帯に起き、朝食を二人分作ってから出かける。それについて花音は何の礼も言わないが、一真が毎日こなす仕事だからだ。
花音は花音で早く帰ってくると洗濯や掃除、夕食を作ったりと家事を一真以上に家事をこなす。だから、朝食と自分の身の回りの事くらいはして当然なのだ、と一真は考えている。それよりも、今朝はなんだか花音のそっけない反応が気になって仕方が無かった。
「なぁ、本当に悪かった」
「んー? 別に気にしてなんか」
「本当に?」
一真が妹の背に向けてしつこく訊ねると、花音は少し驚いたような顔で兄を見返した。
「ど、どうしたの?」
逆にそう聞かれてしまった。「いや」と一真は慌てて言った。本当に何もないようだ。いつも通りの花音だ。むしろ自分がいつもと変わっているのだという事に一真は気が付く。
「いや、昨日は一人にしたからさ。ごめん」
「うーん、別に一人になったのは初めてじゃないし、それに伯父さんや友達が遊びに来ることも多いからさぁ。にいちゃんがいなくても全然さみしくはないよ! だから心配しないで!」
「そ、そんな事を朗らかな笑顔で言われると逆に傷つくな……」
冗談ではなく本当に心が痛んだ。こんなところで、兄は別にいなくてもやっていけると宣言されてしまうとは。あはははと花音は笑っている。
「冗談、冗談。でも、そんな深刻な顔で心配されると逆に面喰っちゃうよー」
「わかったわかった! 心配するだけ無駄だってのは!」
どうにか、花音を部屋に押しやり、制服に着替え一真は一階へと降りていく。
取越し苦労という言葉を初めて理解できたような気がする。台所に向かうと一真は、冷蔵庫からパンと卵とベーコンを取り出し、トースターにパンを、フライパンには卵とベーコンを一緒に入れて焼き上げる。
「へー、上手いね」
「……お前さぁ。一分程前に言った言葉をもう忘れるか?」
横から音もなく覗き込む日向に一真は腕を震わせながら聞いた。が、やはり堪えた様子なし。この少女には恐怖という物がないらしい。諦めて一真は皿に食パンとベーコンエッグ、それにカット野菜を盛り付けた。目覚まし用のコーヒーを用意すると、シンプルながらも立派な朝食が出来上がる。
新聞を朝食の横に広げながら、一真は食事を始める。行儀が悪いが、誰かが見ているわけでもないからと、一真はいつもこのスタイルで食事をする。
「いただきます」と手を合わせて小声で言い、彼はパンを口に入れつつ、視線は新聞に向ける。が、今朝はその内容が全然頭に入らなかった。ただただ、流し読みにしていく。政治家の汚職問題、何とかという野球選手がメジャーリーグに入った、ここ一週間の事故や事件。自殺問題、今日のおすすめのテレビ番組等々。
ふとその視線が止まった。霊文社という三文字。博人が社長を務める出版社だ。それが栃煌市の歴史研究グループといざこざを起こしているという内容の記事だ。
『歴史的作品の発見か、新聞記事のネタか』と新聞の隅に記事の見出しが載っている。
――栃煌市歴史研究学会は9日、霊文社と会見し、社が発掘に成功した歴史遺産の引き渡しを求めた。これに対し、霊文社社長、春日博人氏はこれを拒否した。「我々の中にも歴史研究に秀でた者が何人もいる。霊文社独自でこの作品への研究を進めたい」と述べた――
「歴史的遺産てなんだ……?」
一真はその記事の先まで読んでみたものの、それについては一切触れられていなかった。奇妙な事だ。だが、霊文社の事だから、きっとオカルト的なアイテムか何かを発掘したのだろう。
叔父はとても気のいい人だったが、仕事においては一歩も妥協をしない事も一真知っている。その頑固さには一真も疑問を持つ事はあるが、仕事熱心なのだと解釈しようとしてきた。
「なぁ、日向。歴史的な遺産の中には危険な物もあるのか?」
「歴史的遺産って何ー?」
抽象的すぎる質問に対する至極まっとうな答えだが、一真は他に説明の仕様がない。文句を言うとすればきちんとした取材をしていない新聞に対してだ。
「いや、それが何なのかはわからないけど……つまり、昔の陰陽師かなんかが使ってた道具の中に危険なものはあるかってこと」
「古くからある物の中には霊力が蓄えられた物もあるね。それだったら使いようによっては危険な代物になりうるかもしれない。ま、古いからってだけで危険かどうかはわからないね。何か不思議な力があったとしてもそれが害を為すとは限らないし」
どうにも納得がいかないまま、一真は新聞を畳んだ。そして、淡々と朝食を胃袋に詰め込む。
「霊力って陰陽師に宿る物の怪を倒す力の事なんじゃないのか? 昨夜はそう言ってただろ」
「むう、聞いてないと思ってたら案外……まあ、そうだね。正確に言うとだね。ありとあらゆる万物に存在する霊気の力の事だね。人間には勿論鳥や動物、魚、植物みたいな生き物だけでなく、土や石、鉄にも霊気は存在する」
一真は時間帯を気にしつつも、日向の話に聞き入った。
「だけど、物の怪や陰陽師みたいな存在でもない限りは力は微々たるものなの。普通は」
「普通じゃない場合もあるわけか?」
あっという間に食べ終わった皿を流しに出し洗いつつ、一真が聞くと「鋭いね」という感心が返ってきた。
「そ。例えば陰陽師みたいな霊力の強い者は自分の霊気を他に分け与える事も出来るの。こんな風に」
日向は新聞を無造作に掴んだ。掌から赤く淡い光が発した。途端、新聞紙がまるで意志を持ったかのように飛び上がり、一真の顔にへばりついた。
「どば!? おい! 放せぇえ!!」
「ごめんごめん」
まるで誠意のない詫びと共に、日向はその新聞紙を引き離し、テーブルに戻した。くしゃくしゃになった新聞紙が、まるでイソギンチャクのように端々を動かして、皺を伸ばしていき……やがて動かなくなった。
「本来意志のない物に意志を与えたり、力を高める事も出来るってわけ」
「なるほど……あれ、霊力の強い奴なら今みたいな事が出来るんだよな? だとしたら」
何か恐ろしい事に気が付き、一真は汚れた顔を硬直させる。日向はその不安を肯定するように頷いた。
「物の怪にも同じ事が出来る。今のはただの紙に意志を与えただけ。だけど、その意志は私の霊気と同調もしている。今しがた、一真君の顔に悪戯したのは、私がそう命じたから」
日向の悪戯を一真はあえて叱らなかった。そんな事よりも彼女の言った事の恐ろしさ、物の怪が何故それほどに脅威なのかが、現実味をおびて迫る。これまで一真は物理的な危機しか感じられなかった。だが――
今襲ってきたのはただの新聞紙だ。だが、それがもしも縄だったら? 包丁だったらどんな事が出来ただろう。もっと単純な話。人に取り憑くという事も出来るのではないか?
「力の強くなりすぎた物の怪はその気になればこの栃煌市。いや、国全体を操る事も出来る。現に過去に何回かそういう事はあったしね」
「あったのか? 俺は……」
「知らない? 本当に?」
日向が放ったその言葉の意味を一真は分からなかった。だが、何か。何か得体の知れない物が日々を操っているのだとしたら。
その時、自分の意思はどうなるのだろう? 自分の意思か、それとも物の怪に操られているからか。それの区別などできるのだろうか? うそ寒い感覚に一真は体が震えるのを感じる。
ややあって、日向が言った。
「国全体って言ったけどね。沢山の人間が沢山集まる事で一つの大きな霊力を発揮する事もあるんだ。その中では、目に見えない力が、その中にいる人間ですら気づかないような力が発揮される」
「集団心理とかピア・プレッシャーみたいなやつか……て!! やばい!! 遅刻する!!」
一真は慌てて椅子に置いといた鞄と剣道具を引っ掴み、飛び出していく。ぽかんと口を開けたまま日向はその場に残して。
何か「最後まで人の話はきけー!!」という声が聞こえたが、気にせずに走る。剣道部の部長、斉藤守は三年生の先輩で、朝練の遅刻には厳しい。と言っても、ネチネチと責めるタイプではなく、厳しいトレーニングを二、三追加するだけで許してくれる。ただ、そのトレーニングの内容はいずれも厳しい。精神的な痛みか肉体的な痛みとを比べた時、果たしてどちらが苦しいのかという哲学的な考えを一真はいつも考えずにはいられなかった。
家から真っ直ぐ平坦な道を数十メートル程全力疾走したところで、息が切れ一真は立ち止まり、膝に手をやった。腕時計を確認すると少し落ち着いた。どうにか間に合いそうだ。顔を上げて一真はぎょっと目を見張った。
「全く、護衛をほっぽり出して、先に行くとは何事か!」
日向が目の前にいた。その横には月の姿もあった。巫女服でも狩衣姿でもない。栃煌高校の制服を着込んでいた。肩から掛けた鞄は教科書以外にも何か入っているのか底が少し膨らんでいた。
「一真、お、おはよー」
汗だくの一真を見て少し驚いた顔で月が挨拶した。
「あ、あぁ。おはよう」一真も息を整えながら返す。
「なんで、こんな朝早く? 学校が始まる時間じゃないだろ?」
「碧に聞いた。一真は剣道部だから、朝早くにここを通るって」
碧と聞いて一真は一瞬呆けた顔になったが、すぐに記憶を辿った。あの静かな感じの少女の事か。だが、彼女とは学校が違う筈だが。
「それで?」
「え、そ、それで?」
月は予想外の反応だったのか、体を竦めた。しかし、一真にはわからなかった。こんな朝早くに会わずとも、学校に行けば会えるのだ。それとも、何か重大な話でもあるのだろうか。
「やっぱり昨日の事、か?」
あの後、月が父刀真とどんな話をしたのか、一真は知らない。だが、あれだけで終わったとも思えない。何か釘を刺されたのかもしれない。
「ち、違う! そうじゃない! その……朝練!」
「朝練? 俺はそうだけど」
「朝練の応援に来た!」
月は人差し指を立てて元気よく言った。答えを言い当てたクイズ解答者のようなポーズに、一真は何と返していいかわからなかった。
――数秒
たったそれだけの刹那が、これ程重い空気を醸し出すとは。気まずい汗をだらだらと流す月を前にして一真はのんきにそんな事を思った。
「朝練に応援って……」
いるのか? そう口走りそうになったがすぐ横を見るとにやにやと笑っている日向の姿があった。その表情が「空気をよめよ?」と語りかけてくる。鈍感であり頑固な一真だが、月がなぜ応援に来たのかくらいはわかる。自分に好意を向けている事くらいは。
それをあの幼い時と同じように受け止めていいものなのだろうかと一真は悩んだ。あれから何年もの年月が経ち、お互いに別の場所で成長を果たし……いや、そんな事は関係ない。自分は宣言したではないか。日向に対して。そして自分自身に対しても。
月を支えたいって言ったじゃないか。
「応援って?」月が不安そうに見上げてくる。一真の顔は打って変わった爽やかな笑顔――少なくとも本人はそう思っている――になった。
「応援ってやっぱ必要だよなぁ。それがあるのとないのとでは、気合の入り方って物が違うってかさ!」
「そう! そう!! そうだよね! だから、応援に来た!!」
広がった笑みが一真の記憶の中にある笑みと重なる。昨日の深刻な表情はなりを潜めていた。だが、勿論消えたわけではないだろう。もしかしたら、無理をしているのかもしれない。妹の言葉が一真の脳裏をかすめた。
――そんな深刻な顔で心配されると逆に面喰っちゃうよー
考え過ぎだろうか。一真との試合の事、今暴れている物の怪の事。それさえ、無くせば彼女は元の明るさを取り戻せるのだろうか。それとも何か、一真の知らない月の一面がどこかにあるのだろうか。だが、考えた所で答えなど出ないし、出たところで一真には何も出来ないかもしれない。
「元気が出るように、おにぎり作ってきた。もう朝ご飯は食べたとは思うけど」
一真の言葉に元気を得たのか、月は自分の鞄からピンク色の弁当箱を取り出した。中を開けるとそこには一口サイズのおにぎりが二つあった。朝食を食べた後だったが、一真は思わず生唾を飲み込んだ。
「作るのは大変じゃなかった。ごはんを握っただけだし……」
「あ、ありがとう」
一真はどぎまぎしながらそれを受け取った。女の子から手作りの――おにぎりだとしても――食べ物を貰うのは初めての経験だった。妹がバレンタインに同情としてくれたチョコレートはカウントしない。
「へへへー。日向は夜と朝、散々語りあったよー。一真くんと。ねー?」
日向が猫みたいな目で反対から見上げてくる。こうして二人を見ると本当に似ている。
「お前が殆ど、一方的に喋っただけだろ。霊力だとか、霊気だとか。何も知らないやつが聞いたら頭がどうかしてると思われるような内容だぞ」
「日向、そんな事教えたの?」月が驚いて日向を見た。日向は得意げな顔で腰に手を当てた。
「それだけじゃないよー。月が京都で一真の事について色々語っていた事も全部話したもんねー」
「へええ!?」
素っ頓狂な悲鳴を上げる月。平然と嘘をつくこの式神もどうにかしなくてはいけないが、主人たる月も、もっとしっかりとするべきだと一真は思う。そんな突拍子もない話嘘に決まっている。
「何、わけのわからない話をしてんだ。月、当てにすんなよ」
一真の言葉に、月は顔を紅潮させたまま数秒黙り込んだ。それから慌てて腕をぱたぱたと振る。
「そ、そうだよね。日向ぁああ!!」
鬼女みたいな形相で月は日向に近づきその身体に空拳を突き立てた。抗議する間もなく、日向の体は掻き消え、一枚の札が月の掌の中にあった。
「勝った」
「何にだよ……いや、負けても困るけどな」
それから学校までの間、歩いた。朝の温かな日差しが通行人の少ない道路を照らす。一真は商店街の事について話した。
月のいた頃と比べて、無くなったり変わった店もあるが、長い間続いているお店もある。それらひとつひとつを説明していく間、月は時々相槌を入れつつ静かに聞いていた。殆どの店が閉まっているせいもあって、なんだか一方的に話している感覚に一真は囚われた。
「京都ではどんな店があったんだ?」
「店? うーん、こっちにあるような商店街もあるね。だけど、一番賑わうのは土産屋かな。年がら年じゅう、観光客が来るし」
観光地と言うのは、それぞれ来るべき季節という物があるが、京都のように四季がある場所では、どの季節に来ても見るべきものがある。それに様々な文化が集合する京都は、季節ごとのイベントが多くあるらしい。月の言う事は、決して大袈裟な事ではないだろう。
「そっか」
「うん。そう」
それっきり何故か、会話が途絶えてしまった。何かほかに話題を見つけようと考えていた時、昨日物の怪を見かけた公園が見えてきて、一真は身体を強張らせた。そこには何もいない。だが、昨日見た恐怖を頭のイメージから排除するのは容易ではなかった。どうにか、目を伏せながら、通り過ぎる。
「一真、大丈夫?」
「あ、あぁ。大丈夫だ。そう言えばあいつは大丈夫かな……」
「あいつ?」月は小首を傾げ、気遣うように顔を覗き込んでくる。
「昨日、俺と一緒に陰の界に紛れ込んでしまったやつさ。名前は未来って言うんだけどな」
何故か、月からの返事は無かった。怪訝に一真は顔を上げ、月を見た。どこかぼんやりとした顔をする彼女に一真は呼びかけた。
「月?」
「へ? あ、あぁ。大丈夫だとは思うけど。心が多少不安定になっているかもしれない」
その表情が気になりつつも、一真は辺りを見回す。
「何もないといいけどな。あいつ、いつもならこの時間帯に出てくる筈なんだ。で、一緒に朝練に行ってぼこぼこにされるのが日課」
「へー」
月はあまり関心がないような声で答えた。どうも変だ。とはいえ、こんなのんきな答えが返ってくるという事はそれほど、深刻な事にはなっていないのだろう。一瞬見せた影のある顔はまるで幻だったかのように消えていた。
「たまに、一般人が陰の界に行って、陰陽師と物の怪の戦いに巻き込まれる事はある。自分の理解を超えた物を見たことで、気分が悪くなる事もあるけど、大抵は二三日すれば、治る」
「そっか。まあ、そうだよなぁ」
一真自身も気分が悪くなって倒れた。陰の界の中でだが。一真には幼い頃に陰陽師と物の怪との戦いに巻き込まれた記憶がおぼろげながらにある。既に体験しているにも関わらず――その時の体験がトラウマになっているせいかもしれないが――一真は倒れた。何の耐性もない未来が、受け入れられる筈もない。
「その未来が、気分悪いの続くようだったら、私が相談に乗る」
「あぁ、頼りにしてるぜ」
一真が答えると月は嬉しいようにも落胆しているようにも見える微苦笑を浮かべた。なんだろう。彼女の琴線に触れるような事でも言ってしまったのだろうか。一真は気になったが、彼女はそれっきりその表情を浮かべなかった。
程なくして学校に到着した。正門をくぐり、本校舎とは別にある体育館へと一真が先頭に立って歩く。その後を月がてくてくと続く。喋る話題もほとんどなかったが、気まずい雰囲気は無かった。
本当、さっきの表情はなんだったのだろうと、心理学を学びたい気持ちになっている一真の耳に聞きなれたベルの音が飛び込んできた。振り向くと、自転車に跨った大男がそこにはいた。大体、一メートル八十センチ。自転車を降りてピンと立てばそれ以上の高さになるだろうその彼は、斉藤守。剣道部の先輩だ。
「おはよう、昨日はごめんなぁ。外せない用事があってさ。練習はきちんとしただろうね?」
「えぇ、勿論ですよ」
いつもと比べて適当な上に早めに切り上げたなど口が裂けても言えなかった。幸い、この先輩は後輩の心を疑うという事をしない。そこに付け入るのはなんだか、胃がよじれるような罪悪感も同時に覚える。
その善良な先輩の目が月に止まった。今しがた気が付いたといように。
「あれ? 見かけない子だな。あ! もしかして噂の一真の恋人!?」
「噂飛躍しすぎ!!! 誰が飛躍させたかは余裕で特定できるけど!!」
今が早朝だという事も忘れて大声で一真は否定した。その横で月が顔を赤くして俯いていた。止めてほしい。誤解の元になる。だが、それを言えば確実に月が傷つく……。
「とにかく、恋人じゃないです。ただ……大切な幼馴染ではありますけど」
あやうく、ただのと言いそうになった。月がぱっと顔を上げて輝いた笑みを浮かべ何度も頷く。
「そ、そう。とても大切な!」
「それって恋人とどう違うんだか俺っちにはさっぱりわからんな。まあ、いい。剣道部覗いてみる? えーと」
「春日月です」
月が元気よく答え、先輩も名乗った。朝の空気は俄かに活気づき始めた。月が漏らした笑みに一真も思わず笑みで返す。先程彼女に差した影は既に記憶の彼方にあった。
いつものように体育館は閑散としているだろう。そう思っていたのだが、今朝はどこか様子が違った。入り口に入ってすぐのロビーで部活顧問の教師が何人か集まり、低い深刻な声で何かを話していた。部活動の方針を決めあう時の雰囲気とは明らかに違う。その中には剣道部の顧問であり国語教師でもある秋原悠斗もいる。
細い伊達眼鏡の奥に宿る穏やかで柔和な瞳と細い顔立ちが印象的で、女子からの人気も高い教師だ。滅多な事では動じない彼までもが、今は額に皺を寄せていた。
その会話の近くで立っている愛沙もまた、彼女に似つかわしくない深刻な表情を浮かべていた。一真達の三人に気付いている筈だが、そちらに一瞥を与えただけだった。
「何かあったのかい」
守がただならぬ雰囲気に部長としての責任感からか、聞いた。愛沙は黙ったまま、唸り込みそれから口を開いた。
「桜ヶ丘高校があるじゃん」
栃煌市にあるここ以外の高校の名前だ。一真と守はわけがわからずに顔を見合わせた。ふと、月が顔を緊張で強張らせるのが目に入った。何かまた起きたのだろうか? まだ、あの物の怪の事件から一日しかたっていないのに。
「そこの女子高生が行方不明になったらしい」
「そうと決まったのかい? 警察とかの連絡は?」
「警察も今、捜索しているらしいけど。その娘、なんか家庭に事情を抱えていたらしくてね。度々学校を休んでいたらしいのさ。だけど、朝になっても家に帰ってないらしいって連絡が。その娘の家庭からじゃなく、近所の人からあった」
その言葉に月の顔はますます険しくなっていった。一真もまた、鏡を見れば同じような顔をしている事だろう。舞香の言葉が脳裏から離れない。
「でね。何者かに誘拐されたんじゃって話があってね。それで今日の学校をどうするかで皆さんお悩みなのさ。うちらの高校とも結構近いし交流も深いからねー」
口調とは裏腹に愛沙の表情には苦い物を飲み干したかのような表情が浮かんでいた。自分に何かが起きるかもしれないという不安よりもその女子高生を案じている気持ちが強い。
「じゃあ、朝練は?」
斉藤が訪ねると愛沙はその頭をぼかっ!! と叩いた。
「阿呆!! こんな重々しい空気でそんな事言うなんて!! その空気の読めなさは鍛え直してやる必要があるね!」
「つまり、朝練はするわけですね……」
一真が呆れの声を漏らした。愛沙は斉藤の肩、背中頭ところ構わず叩きつつ、地下の道場へと押しやっていく。その後ろに続く一真は二人から少し距離を取りながら月に耳打ちした。
「物の怪の仕業だと思うか?」
「巫女殺し」
月は短く答えた。横に空しく振られた首に合わせて髪が揺れる。
「でも、駄目。昨夜は意識を集中していたのに。あいつ、見つけられなかった」
自分のせいだろうかと一真は口に出さずに思った。あんな馬鹿な仕合をしたせいで、月の心は乱れ、結果、物の怪を取り逃がしてしまったのか? 俯く月の表情は口元しか見えない。だが、白く歯並びのいい口元が震えているのを一真は見逃さなかった。
歯と歯がぎりぎりと音を立てるのを聞いた。昨日の物の怪と対峙した時にも、仕合の時にも見せなかった表情に、一真は戸惑う。自分の知らない所で彼女の身に何が起きたのか?
「月」
「なんでもない。なんでもないから、今は何も聞かないで」月の言葉に一真は押し黙った。彼女の口調には威圧的な物は含まれていなかった。懇願するような声。
「わかったよ。わかったから行こう……あ」
「どうしたの?」
ようやく顔を上げた月の前で一真はぽかんと口を間抜けに開けたまま言った。
「愛沙さん。お前の存在に気付いてなかったぞ」
道場に遅れて入ると、愛沙は既に胴着に着替えており、小手を嵌めた腕を振り挙げて「おそーい! 一真―!!」と叫んでいた。が、一真の後に続いて遠慮がちに礼をしながら入ってきた月の姿を目に留めるとその表情は変わった。
「もしや、そこにいるのは!?」
「いや、だからなんでそんなに察しいいのさ」
一真は感心していいのか、呆れていいのかで迷い呟いた。
「春日月です。転校生です」選手宣誓のように片手をあげて名乗る月。愛沙の顔は見る見るうちに喜色の一色に染め上げられていく。
「知っている。知っているぞー! というか覚えているぞ!」
「へ? あ! あなたは……!!」頭の中にある頃の顔と今の顔を結び付けられたのか月は、驚いたようにそう叫び、手を叩いた。先程までの思いつめていた表情が見る見るうちに変わっていく。
「あいさねーさん!」
「おう! ここで出会えたのもまた、運命の因果か!?」次の瞬間、宿敵との壮絶が始まりかねない一言だったが、月がはしゃぐ様子からもわかるとおり、彼女は昔からこんな事ばかり言っていた。父親が見ていたアニメの影響らしいが、少なくとも女の子が発する台詞としては不適当な気がする。
「こっちに戻って来たんだよねー!! いやぁ、大きくなったなぁ。で? 何? 今日は? 剣道部に入ってやろうとか、道場破りしてやんよ! とか?!」
「どこのヤンキーですか。それは」一真は思わず突っ込んでいた。見ると斉藤は少し離れた所でくくくと笑っている。全くこの部長ときたら人事だと思って――
が、月は愛沙のほとんど冗談でしかない言葉に真摯な瞳で答える。
「そ、それは楽しそうだけど、でも私今日は一真の応援に来た」
「朝練の応援? へぇ、一真。たかが朝練に着て貰えるなんてなぁ」
それに関しては一真も思った。何か特別な試合をするわけでもないのに、彼女はなぜ応援に来てくれたのだろう。いや、そもそも何を応援するのだろう?
「うん。一真が剣道部に入っているって聞いて。久しぶりの……再会だし」
「ははぁ、神社の巫女達になにか吹き込まれたなぁ?」
「へ?」と月は瞳を大きく見開いた。良くも悪くも正直な少女だ。碧と舞華の顔が一真の脳裏をよぎった。あの双子は妙な所で人をからかう癖がある。しかし、それをまともに受け取ってこうしておにぎりまで作ってくれる月には感謝しないといけないと一真は思う。
「ありがとう、月。でも道場じゃ飲食禁止だったよなぁ。あ、更衣室で食べ……イテ!」
後頭部を斉藤と愛沙の両先輩に思いっきりぶん殴られた。何年も何年も竹刀で打ち叩かれた石頭はその程度では壊れはしないが、痛いものは痛い。
「阿呆が! 作ってくれた彼女が目の前にいるのに、わざわざ別の場所で食うだと!?」
「前から思ってはいたけど、ここまで鈍感だとは思わなかったのさ! ほれ、顧問はいないし、今ここで一気に食べてしまえ!!」
ひりひりと痛む頭を抑えつつ、一真は目の前のおにぎりを見つめた。月のぼんやりとした顔がそこに重なる。先輩たちの叱責にまるで他人事のようにぽんと手をつき、口をどんぐりのように開ける。
「そうか。ここで食べて貰えば、私嬉しいね」
「え……」呆れの声を漏らした二人の視線が月に集中する。月にしてみればどこで食べて貰っても良かったらしい。
「あ―、あー、調子狂うなぁ。おら、一真! さっさと準備しろ! 時間無くなってしまうぞ! それを今すぐ口に放り込め!」
斉藤が頭をぐしゃぐしゃと掻きながら一真の元を離れ、面と胴が置かれた床に向かう。月が畏まったように、こちらをじっと見つめ、「はよ食べろ」と促す愛沙の視線。
一真は小さなおにぎりを一気に口に入れた。ゆっくりと咀嚼し、女の子に作って貰ったという事を意識し食べる。今までにない味だ。甘くて切ない……いや、待て。甘い?
「むご!? な、なんだ、これ?!」
思わず咳き込んだ一真にびくりと震える月の肩。愛沙は怪訝そうに、一真の顔を見やった。
「甘いです……この米。あ、まさか」
「なんだい、チョコレートでも入ってた?」
「あ、塩と砂糖……間違えてた?」
月が恐る恐る聞いた。その顔が見る見るうちに青くなって行く。やはりそうか。塩と砂糖を間違えるなど、漫画で聞いたことはあっても本当にやる人がいるとは思わなかった。
剣道の勝負ではあれ程の集中力を持ち、どんな隙も逃さない月がどうして、こんな簡単な間違いを犯したのだろうと、一真は不思議で仕方がない。が、それを彼女に直接言ってしまうのは酷な気がした。
何か慰めのフォローをと思った横で愛沙が一真の握っているおにぎりを覗き込んだ。
「それに中に入ってるのはこれ、卵焼き?」
「得意だから!」
月はどうだ! と言わんばかりに胸を張って言った。
愛沙はなんと声を掛けるべきかと、迷うように一真に視線を向けた。お前が言ってやれ。そう言われた気がして、一真は重々しく口を開いた。
「月。得意なのはわかる。だったら、別におにぎりに入れてくる必要はなかったんじゃ?」
「え……だって、応援にはおにぎりってスポーツ系じゃ定番だって舞香も言ってたし」
「いや……誰が決めたルールでもないだろ?」
「うん……そうか」月はしゅんと肩を落とした。一真が思わず泣き出してしまいたくなるほどの落胆ぶりだった。
欠陥だらけとはいえ、善意で彼女はこんな朝早くに作って持ってきてくれたのだ。その思いを踏みにじる事は一真には出来なかった。一真は残りのおにぎりをすべて口に入れた。
「……なんてな。卵入りおにぎりてのも中々旨いもんじゃないか」
「え? おいしいの?」
「な、なんだよ。お前だぞ。応援にはおにぎりって。そして中身は得意料理。これほど最強な組み合わせはないだろ?」
「あ、うん。そうか……そっか!!」
輝いた目で見つめあい、相互理解を果たした二人を斉藤が気抜けした表情で眺めていた。その表情の半分くらいが羨望に支配されていた。
「……漫才してないで、さっさと着替えろよ」
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