帰宅――夜の小噺
家にたどり着くころには、一真は胸の内が罪悪感で一杯になっていた。物の怪が人の心に大きな害を為すいう話をしているうちに花音の事が心配になったのもあるし、こんなに遅くまで家に一人でいさせてしまった事がすまなかった。
家のチャイムは押さずに、鞄に入れてあった鍵を使いドアを開ける。沖家のドアは侵入者対策として、二つの別々の鍵をドアの上下につけてある。以前、泥棒に入られた事があったからこその用人だが、今の一真にはその用心が鬱陶しかった。上下の鍵を回すその間すらもどかしく感じる。
と、下の鍵を開けたところで玄関に明かりがついた。二つの人影があった。一人は妹の花音の物……だが、もう一つは? 大人の男の影だ。父は今はどこぞの空の上を飛んでいる筈だから、別の誰かだという事はわかる。近所の人が心配になって来たのか? それとも。
一真の脳裏に嫌な予感が浮かんだ。鍵は中から容易く開けられ、ドアノブがゆっくりと回った。一真は一歩下がって身構えた。後ろは道路。襲われても回避できる。
ドアが開いた。その影が驚いたような顔の老人の男性に変わった。
「おや、一真じゃないか。全く花音と一緒に心配していたのだよ?」
老人は小柄で一真の肩ほどしかないが、背筋は正しく、鼻が高くどこか欧州人を思わせる。白髪と顔に刻まれた皺と瞳の中に宿る穏やかな光は、物語に出てくる賢者のような印象を人に与える。
「すみません、おじさん」
沖博人。一真の父方の兄。つまりは伯父に当たる。父や母がいない時にはたまに様子を見に来てくれるのだが、一真は完全にその存在について失念していた。
博人は若い頃に出版社を立ち上げ、以来そこの社長を務めている。その出版社の扱う物の大半がオカルトやホラーの類だ。栃煌神社も何度か陰陽師の住む神社としてネタにされていたのを一真は知っている。
果たして栃煌神社の人たちはその事をどう思っているのだろうと一真はちらっと思った。
「さぁさ、入りなさい」
博人に促されて一真は家の中に入った。それにしてもこの人は出版社の社長なんかよりも政治家か占い師でもやっていた方がそのイメージに合う。
政治家か占い師が合うとはまた奇妙なイメージだが、ようするに人を惹きつける包容力と上に立つだけの凛々しさがあるのだった。
が当の本人は「こんな捻くれた考え方をする者に占い師や神職は務まらないだろうよ」と言っている。
居間のソファでは花音が待ちつかれたのか、すうすう寝息を立てて寝ていた。すまない気持ちと同時に、一真はホッとしていた。少なくとも物の怪に襲われてはいないようだ。日向も何の反応もしないのが救いだった。
日向はどういう原理なのかは、一真には皆目見当もつかないが、一枚の符となり一真が来ているワイシャツの中にある。上に着込んだブレザーで完全に隠れている。
気のせいかもしれないが、符のある場所で自分の物ではない心臓が静かに脈打つのを一真は感じていた。それに体温もいつもより少し高い気がする。
「花音は寝てしまったよ」
「すみません。ご迷惑を掛けて」
「私にではなく、花音に謝るべきだろう?」
それもそうだと思い、一真は花音の耳元で「ごめんな」と囁いた。花音は身体を少し捩ったが結局起きない。
「まぁ、起きたらまた謝っておきなさい。さぁ、食事だ。と言っても私は料理は苦手でね。殆ど花音が作ってくれた」
テーブルの上には二人分の食事があった。白いご飯とビーフシチュー、サラダとその上にロースハムがいくつか乗っていた。中々豪勢だった。
もう一人の分は花音のではなく、伯父の物だった。博人は一真と向き合うように座り、手を前で合わせた。
「いただきます」
何のことはない日本では一般的にみられる風習だが、この伯父がやるとその動作が妙に皮肉っぽくなる。博人はそのいただきますという言葉に「命を食べる事に罪悪感を感じた先人が始めた風習」という意味があると考えているからだ。
「いただきます」
その言葉に大した意味を込めずに、一真は言った。
「それで、今日はまたどうして、遅くなったのかな?」
博人は肉にフォークを刺しつつ、上目で一真に尋ねた。一真は食べながら話すべきではないと思い、手にとった食器をテーブルの上に置いた。
「神社に言っていました。幼馴染が戻ってきたと聞いて」
「あぁ、栃煌神社の巫女か。久しぶりだったね。彼女は元気だったかね」
合点が行ったように、博人は頷いた。彼女の存在についても何か考えているのだろうかと思うと、一真は口に蜜あり腹に剣ありではないが、少し嫌悪を感じた。黙ったままの一真を見、博人は宥めるように言った。
「そんな怖い顔をしないでくれないか。君と彼女の関係を雑誌の記事にしようなどとは考えてはいないから」
「すみません。だけど彼女との間には何か記事になる程の関係はありません」
「そうだろうとも。しかし、神社の他の人々はそうは思わないかもしれん。気を付けるのだよ?」
警告するようなその言葉を一真は何故だか笑い飛ばせなかった。それは刀真のあの厳格な顔が頭に浮かんだせいかもしれない。博人は一真の気持ちを読み取ったようにふっと笑んだ。
「何かあるのだね? その顔は」
博人は手元を止めて、腕を組んだ。全てを受け入れる。そんな態勢だった。これまでも学校の事や家庭の事で、誰にも言えないような事でもこの伯父には相談してきた。その度に的確なアドバイスをくれ、彼の言う通りにすれば、全てが上手く行った。
だが、この事を相談していいものか? 博人と神社の関係は、はっきりとしないものの、少なくとも良好な関係とは思えない。
「えぇ、まあ。彼女の父にも会ったんです」
博人には物の怪云々の話はまるっきり省き、剣道の話のみした。
「刀真さんは怒ったんだとおもいますけど、もうあまり会いに来ないでくれ、と」
正確には、物の怪退治についてくるなという事なのだが、それを言うわけにもいかない。物の怪云々について、いくら説明をしても信じてはもらえないだろうし、そうする必要性もない。
「ほう、しかし、するとつまり突きで一本取ったのだね? 栃煌神社の巫女から」
どうやら、博人の関心は刀真の言う事から剣道の仕合に移っているようだ。その事にあまり触れて欲しくない一真は控えめに答える。
「取っていません。有効打突ではないので」
「しかし、これは一般常識だが、人は頭をやられれば、死ぬ」
「まるで殺し合いみたいな言い方ですね」
一真は驚きと怒りの混じった声を出した。だが、博人は特に動じない。むしろ、何故そんなに怒るのかという調子だ。
「すまない。どうも私は相手がこちらの言う事を全てわかっているという事を前提に話す癖があるようだ。つまりだ。彼女は君の突きに反応しきれなかった。そして、面を打たれた。有効打突ではないかもしれないが、君は彼女に勝ったのだろう? 技に未熟な部分はあったかもしれない。しかし、君は彼女に勝ったのだ」
博人は誇らしげな顔で手を広げた。妙に芝居がかっているが、これはいつもの事、相談に乗ってくれる時はいつもこうだ。
「いずれ君は彼女を超えられるかもしれない」
「伯父さん」一真はつい笑ってしまった。まあ、仕方がない。博人はあれを、月が物の怪と戦う所を見ていないのだから。
「いや、決して笑いごとではないよ。刀真殿が、何故君を遠ざけたがるのか。君が単に未熟なのだとしたら、『来ないでくれ』などとは言わない筈だ。本当に彼が恐れているのは、未熟者がいずれ自分の、自慢の娘を実力で超えてしまう事。それではないかな?」
「そうでしょうか」
一真はついそう答えてしまった。いつもなら納得の行く所かもしれない。そう、彼女が普通の「剣道がずば抜けて上手い」だけの少女だったら。それなら、伯父の言う事も納得がいっただろう。伝えていない事実が一つあるだけで、これ程の溝が生まれるとは。
「まだ、納得がいかないようだな。彼女との間に圧倒的な力の差があるせいで」
「えぇ。伯父さんには想像もつかない程の差です」
じゃあ、その差が無くなれば……そんな甘い囁きが脳裏に響いた。まるで自分の声ではないようだ。一真は首を振ってその思いを振り払った。
その動作を眺めながら博人は知恵を含んだ笑みを浮かべ残り少ない夕飯に再び取りかかった。
「まあ、いいだろう。君がそう考えるのは。だが、神社のような組織は、おおにして何かしらの意地を持っているからね」
博人の言う通りとは思えない。が、何か引っ掛かりも感じる。刀真達は何か一真に言っていない事があるのではないか。刀真のあのそっけなさ。弱者への軽蔑とも憐みとも違うあの表情。
「さて、話を戻すが、剣道で勝った時の感覚を忘れないことだよ。私は素人だが、勝負時に大事な事はわかっているつもりだ。一番大事なのは日々の練習ではない――」
勝った時の感覚。それだけが頭の中で木霊する。伯父の後の言葉はまるで頭に入らなかった。
一時間は話が続いた。途中からオカルト話に入ってしまったのだ。一真もこの叔父の話が嫌いじゃないので、なおさら話が白熱してしまったのだ。
ようやく一真は花音を起こした。一度寝てしまうと彼女の目を覚ますのは至難の業だ。
抓る叩くくらいでは起きない。前に従姉の愛沙が「キスでもしたら」とからかった事があるが、多分やり損になるだろう。
起こすにはコツ――彼女以外には通じない――がある。
「メロンパン」
「どこぉ!?」
起きた。まるで音声で起動するロボットのようだ。ポニーテールにした髪が乱れていた。その顔立ちはまだまだ女とは言えない小学生のようなあどけなさが残っている。
「あれ……」と勢い勇んだ花音は、一真の顔を見てきょとんとした顔になった。
「どこに?」
「それは主語によって答えが変わるな」
やり取りを見ていた博人がふっと笑んだ。その手には鞄、頭には帽子をかぶりイギリス紳士を思わせた。
「では、もう大丈夫だな。私は帰るよ。こう見えて忙しい身なのでね」
「あ! はい! ありがとうございました!!」
「今日はありがとうございました」
花音が頭を床に打ち付けかねない程に腰を曲げて礼を言い、一真はふつうに言った。博人は親友にするように、一真の肩を叩く。
「あぁ。頑張れよ、いずれ君の努力は報われる。そうすれば彼女との事も全て上手くいくとも」
もう、彼女扱いか。一真は苦笑した。だがそれを、変なあだ名をつけられた小学生のように、否定する気は起きなかった。彼とこうして向き合い、後ろに妹がいると自分が大人になった気がする。
「はい、努力は続けます。今日は本当にありがとうございます」
博人は帽子のつばを掴み、会釈するとドアを開け出て行った。しばらく一真は立ち尽くした。それから溜息をつきながら鍵を二つ掛ける。
ふと後ろを向くと、花音のにやにやとした顔が目に飛び込んできた。嫌な予感がする。彼女が何を聞くのかなどわかりきっていたから、一真はまず否定した。
「伯父さんが勝手にそう思っているだけで、俺に彼女はいないぞ」
「えー!? まさか兄ちゃんに、彼女が?! 明日は雷の雨だね!」
きゃあきゃあ騒ぐ妹に気怠さを感じ、一真は顔をそらした。全くもって失礼だ。伯父がいなくなって次の瞬間がこれとは。
「そんなことで天変地異が起きてたまるかよ」
「相手はやっぱり、神社の月さん?」
「お前、なんで彼女が――」
「あぁ、やっぱりそっか! 中々帰ってこないからね。どこに行っているんだろうって伯父さんと話していてさ。月ちゃんが京都からこっちに戻ってきたって話が出てね、じゃあ、神社にいるんだろうって!」
脈絡がおかしい事を早口に花音は言ってまた笑った。彼女と話していると疲れる。それでも、小学生の頃よりは、意味のわかる言葉を話すだけましか。何か引っかかりのある言葉だったが、それが何なのか疲れた頭ではわからなかった。
「確かに月には会ったけどさぁ」
一真が認めると、花音はさらに捲し立てた。
「で、どこまでいったの?」
「どこまで……お前は、またあのくだらない漫画の知識か」
「『恋する戦乙女(ヴァルキリー)』は名作だよ!」
恋愛物とジャンル付されているにも関わらず、やたらと槍を振り回すあの漫画がなぜ名作なのか一真は理解に苦しむ。
「……友達以上恋人未満、かな」
「なんと! まずは友達からってことだね。堅実」
「そういう事だよ、疲れたから俺はもう寝る」
実に疲れる。妹がいる事に憧れを持つ男子はこの現実を無視するべきではない。疲れていようが忙しかろうが形振り構わず話しかけてくる、人の部屋に入っては勝手に本を読む、どこから仕入れたのかもわからない漫画の知識をぶつけてくる……それにしても、あの調子なら物の怪とのトラブルとも無縁そうだ。
階段を上がり、真っ直ぐ行って突き当りに一真の部屋はある。中は……片付いている。先に帰ってきた花音が置いて行った洗濯物の山が隅にあった。下着以外は畳んである。
こういう点は感謝しなくてはいけないのだろう。本棚が荒れているのも目に入ったが、致し方ない。特に今日はこんなに帰りが遅かったのだ。本当なら怒られるべき所をあの妹は、からかうだけで済ました。目を瞑るとしよう――
本棚の本を整えているその横ですっと幽霊のように赤い袴が浮かび上がった。
「いやぁ、いいねいいね。家族愛!」
「い……、あのなぁ、さっきの話を聞いていたなら俺が疲れてる事もわかるだろ。それと」
「何ぃ?」
一真は荒ぶる心臓と乱れておかしくなった呼吸をどうにか鎮めて言った。
「急に横に現れるな。心臓が止まるだろうが」
日向の存在を忘れる所だったそしてもう少しで叫ぶところだった。式神はパンと手を合わせてけらけらと笑った。
「それはごめん」
「言動と表情が合ってないぞ。なんて、護衛だよ、まったく。で、花音は大丈夫なのか?」
「物の怪が絡んでいるかどうかという話ならば、全く持って心配ないよ。彼女、見た目に反して心が強靭だね」
日向の無邪気な答えに一真は顔を暗くした。心が強靭なのは生まれ持っての性質というよりも、普段の生活のせいだろう。いつも家には一人で。それを悲しむ間もなく、家事を殆ど自分でやらないと行けない。
そうしないと家が成り立たないから。今日だってそうだ。伯父が来てくれなければ、一人で夕飯を食べる羽目になったのだ。妹のタフさに甘え、このままでいていいものか……。
自分は、中学生に入るまでは親と一緒にいる時間も長く、その分、学び、話も出来た。喧嘩もしたし、散々言い争った後の仲直りも。よくよく考えてみると花音にはそれがない。一真とならしょっちゅうあるが、それはあくまでも兄妹喧嘩でしかない。
「ま、引き受けた以上、護衛対象としてあの娘もきちんと守ってあげるよ、うん」
「あぁ、頼んだ」
「へへへー、任せなって!!」
式神の少女は胸を勢いよく叩き、咽込んだ。大丈夫だろうか。
一真は寝間着を箪笥から出すとわざわざ、日向から見えないように、服をしまう場所としては少し大きすぎるロッカーに隠れて着替えた。日向を外に出せば済みそうではあるが、花音とばったり出くわしても色々と面倒だ。
それから、一真はロッカーから出てきて、窓のカーテンに手を掛けた。外は細い雨が降り霧のヴェールのようになっていた。雲に隠れ月は見えない。ここからだとずっと向こうの神社が朧げにだが、見える。
彼女は今どうしているだろう。夜はちゃんと寝ているのだろうか。それとも、またあの化け物と?
「あいやー、月はもう寝ているみたいだね」
ぬうっと首を突出し、頭の前で手を掲げた日向が言い、一真はびくっと肩を震わせた。少女の胸がその鼓動を感じられる程に近い。本人は果たしてそれを自覚しているのかしていないのか。すっと日向は身体を引っ込めた。
「心配ないって。月は朝晩物の怪と戦っているわけじゃない。月だって人間なんだし」
「ま、まぁそうかな」
どうにも心を見透かされていたようだ。それとも式神としての変な能力が彼女にはあるのか。一真にはどっちなのかわかる由もない。
「月とは一体いつから一緒にいる?」
「そうだねー、九年と三か月と二日、七刻くらいに京都でかな」
「そんなに細かく答えなくていい」
つまり。大体十年程前。彼女が引っ越した後の事か。それまでは式神を使役するだけの力も無かったのだろう。多分。
「その前はお前はどこにいたんだ?」
「教えてもいいけど、頭が破裂するかもよ? 理解できずに」
「じゃあ、いい」
「なんだよー。そこで、なぜ、もっと聞こうと思わない!」
「……お前と月の外見がそっくりな事については聞いてもいいか?」一真は妹と会話している時の疲れにも通じる物を感じながら、ベッドに腰を下ろした。
日向は窓際に座った。雨を背景にした少女の画のようなイメージを人に抱かせる、幻想的な光景に見えた。
「式神にも色々いるけどね、私は元々は霊鳥だったんだけど、物の怪との戦いでドジしちゃってね、形のない、吹けば消える蝋燭の灯火のような存在にまで貶められたの。月はそんな私の為に自分の髪の毛をくれた。私はそれを核とし、自分の体を作る事が出来た。髪と目の色以外の外見がそっくりなのはそのせいよ」
紅の目を細めて微笑む式神はやはり、どこか非人間的だ。しかし、それでいて人間的な感情が見え隠れする。そう思えるのはやはり、月の体の一部を使ったせいなのだろうか。
好奇心に駆られて一真は口を開いた。
「あのもう一つの世界は……」
「陰の界」
「それだ。あれは一体なんなんだ? 物の怪と戦う為の異時空間みたいにしか見えないけど」
「それは、陰陽師の都合上、そうなっているだけだよ。あそこは元々そんな所ではない。確かに物の怪が生まれる巣穴ではある。だけど、その物の怪を作りだしているのは人の負の感情。だけど、人の心が悪ーい感情だけで成り立っているわけではないのと同じようにあそこにも、様々な気が流れている」
「そう、なのか? その負の気? 悪い感情だけが集まっているように感じたけど」
あそこで感じた事を思い出そうとしたが、まるで夢の中で経験した事のように曖昧だ。だが、少なくともいい夢でなかったのは確かだ。それに殺されかけたし……。
「そうだね。憎しみ、嫉妬、悲しみ、そういう暗黒の感情は最も顕著に現れる物だからね。だけどね、そういう感情を曝け出せるあの空間その物が、正の感情によって成り立っている。……て言えばわかるかな?」
「わからないけど……少なくとも月よりは説明上手だと思う」
くすりと笑い、日向は続ける。
「つまり例えるなら、あの世界そのものが、全てを受け入れてくれる巨大な母みたいな物、そこにいる物の怪は駄々をこねる子供みたいな物かな。悪い感情を受け入れる為に良い感情が創り出した空間なのよ、あそこは」
「だけど、それでいいのか? 物の怪は強くなりすぎると暴れて人を傷つけるんだろう? 現に今の『巫女殺し』だって」
「そうだね。育ちすぎた子が殻を破るように、或いは母親の手の温もりでは収まりきらない子のように、外の世界へ……物の怪は境界を突き破ろうとする。でも、それを許さないのが陰陽師」
怜悧に言い放ったその言葉に一真は思わずたじろいだ。あの世界で見た物の怪の少女の言葉と表情を思い出したせいかもしれない。殺されかけたという現実と対峙した時の恐怖は忘れようもないが、彼女が負の感情に囚われあの世界を彷徨いこんでしまった被害者である事も変わりようはない。それを人間側の都合で排除していいものなのだろうか……?
そんな一真の疑問に気付いているのか、いないのか、日向は話し続ける。
「さっき、物の怪は負の気つまり悪い気で構成されているって言ったけど、気にも色々あってね。この世のありとあらゆる事物は大きく分けると陰と陽の二つ。陽は動的な要素を示し、陰は静的な要素。因みに物の怪の負の気の殆どは陰に当たる。この陰の気の中でも陰の陰とか色々あるけど理解出来ないだろうから置いておくとして。元々陰陽師はこの陰陽の理を解明するための学者みたいな事をする職業だったんだ」
月の戦う姿を見て以来、映画やアニメにあるような妖怪ハンター的なイメージを陰陽師に対して抱いていた一真だが、結局はそこが原点であるのは確かなようだ。
年表を作ったり、星の動きを観察して吉凶を占ったりと、昔風の天文学者が、本来の陰陽師としての姿だった。
「彼らが物の怪という存在の正体について知るにはそう時間を要さなかった。負の気が集まりて、物の怪と為す。そして、その物の怪の巣堀たる陰の界を見つけしは、春日家の陰陽少女葵」
「少女? 春日って……」
驚きで息を詰まらせた一真に、日向はふっとどことなく無気力な溜息をついた。
「春日家は千年も前から続く由緒正しい陰陽師の家系なんだけどね。陰の界が見つけ出されたのは円融天皇の御代、平安時代の頃の話なのだけどその頃春日家にはおのこが産まれなかった。だけど葵は、その家の中でも一際強い霊力に恵まれていたから」
「霊力?」耳慣れない言葉が出てきて一真は思わず聞き返した。
「陰陽師が物の怪と戦う時に使う気の力の事ね。その霊力を込めた技を方術とか道術という――で、葵は陰陽寮には認められ無かったけど、非公式の陰陽師として当主である父親に従い働いた。陰陽寮というのは、陰陽師の組織の事ね。天智天皇の御代からあって、明治の時代に廃止された」
陰陽寮という言葉にぴんと来ていない一真の為に、日向は補足した。そういえばそんなのがあったけと一真はこれまた、何かの授業で余談として聞いた事を思い出していた。さっきから分からない単語に戸惑ってばかりで、どうも話の流れを乱している気がし、一真は結論だけを繰り返す。
「そうか。月の祖先が発見したんだな」そう思うと不思議な感覚がした。友達の祖先に歴史上の有名人がいると聞かされた時のような――歴史の教科書には載っていないが―。
勿論、あんな神社にいるのだから祖先に有名な陰陽師の一人や二人はいるのだろうと想像は出来るが、こうしてその実績を聞かされるとまた感慨深い物がある。ただ、やった事の現実味が無さ過ぎて正史として載せられてもいなさそうだが。
「うん、事実はそう。だけど、公式な記録では誰が発見したかは不明となってるね」
「不明?」一真はオウム返しにそう聞き、だが何となくその訳は分かった。その葵という人物についての先程の説明を思い返してみればわかる。春日家には男がいなかった。本来なら陰陽師は男しかなれないとかいう男尊女卑な仕来りでもあったのだろう。
だが葵自身の力も捨てられない陰陽寮は彼女を非公式の陰陽師として使った。彼女がどれ程の功績を上げようが、名もない不明者の名誉として扱われる。なんともひどい話だ。
「ま、それが人間の世界なんだなと私は思っていたけど、最近では男でも女でも陰陽師になれるね。だんじょびょーどーってやつのおかげで。ま、陰陽寮その物が廃止されてるってのもあるけどね」
まるで、その実態を見ていたかのような話しぶりに一真は眉を潜めた。
この式神は一体いつから生きているのだろう。月によって召喚されたのではないのか? 疑問に感じたが話題から逸れるのであえて聞かなかった。
「で、その頃からかな。陰陽師はその職業の質を大きく変えた。物の怪を倒す呪術師の印象がついたのもこのころ。人の怨みが怪物となって襲ってくる。その事実を知った貴族の周章狼狽ぶりといったら、それはもう滑稽だったよ」
「なあ、お前一体年いくつだよ」思わず口走ってしまった。見る見るうちに日向の顔が不機嫌な色に染まっていく。
「む、失礼な。おばあちゃんだとでも言いたいわけ? 式神としてはまだ若いほうだからね、私」
むうっと頬を膨らます日向のしぐさは月そっくりだった。
「おほん。で、陰陽師が物の怪を退治するようになったのは皇族や貴族から依頼されたからってのもあるんだけど、それ以上に彼らは物の怪に対して危機感を抱いていたの」
「危機感?」聞き返すと日向はこくりと頷いた。
しかし、何を今更と一真は怪訝に思ったが、物の怪には人を襲う以上に何かとんでもない事を引き起こすのだろうか。
「言ったよね。陰陽師は元々学者だって。物の怪の事も当然退治するだけでなく、研究もしたの。で、わかった事が一つあるんだけど。一真くん。物の怪が陰の界を飛び出してこっちの界に来る理由ってなんでだかわかる?」
「それは……その世界に満足出来なかったから、とかかな?」一真の声には自信が無かったが、日向は静かに頷いた。その瞳の奥がきらりと光った。
「まあ、そんなもんだね。陰の界は物の怪のいられる唯一の場所でもあるけど、物の怪をそこに縛り付ける牢獄でもあるわけ。で、物の怪の中でも自分の生きている環境に対して反感に目覚めるやつがいてね。そんなやつがこっちの世界に来るともう大変なんだ。元々、物の怪は強い怨念から生み出された物だから」
「まだ、いまいちお前が何を言いたいのかが、わからないな……」忍耐も既になく、更に眠気までが襲ってきて一真は先を促した。
「うむ、眠そうだね。結論から言うとだね、物の怪はこの陽の界を自分の気で染め上げようとするんだ。人や物のに取り憑く事でね。簡単に言うと祟りかな?」
「たた……り」
そこで一真の意識が眠りについたことに日向は気が付き、ふうっと呆れの溜息をついた。すっと立ち上がり、一真の顔の前で手を振ったりもしたが、起きる気配はまるでない。
「ここからが大事な話なのになぁ。少し長すぎたかな。うむうむ、私もまだまだ修行不足かぁ」
「……いや、ごめん。なんか、どうもそれ以上は頭に入りそうもない」
「わかったわかった。じゃあ、簡単に月の事について聞くね。沖一真くん」
窓枠から降り、ベッドの傍まで近づいてきた日向に、一真はゆっくりと体を起こした。
「君は彼女の支えになりたいと本気で思っている?」
そっと歩み寄った日向の手が一真の手を包んだ。柔らかいこの感触は紛れもなく人間の物と同じ肌だ。
だが、何とも言えない違和感があった。温かみはあるがその性質は人の肌というよりも、太陽が発する光から感じる温もりに近く肌がちりちりと仄かに焼かれる感覚すら覚える。
「私では彼女を支えるには限界があるの。ほら、私は人間じゃないから」
その儚げな苦笑に一真は何か言い知れない圧迫感を感じた。そんなことはないよなどという軽い言葉で返せないほどの。一体京都に行っている間に何があったのだろう。
しかし、一真はそれをあえて聞かなかった。彼女達から話す気になるまで待つべきだと、そう判断したからだ。
しばしの沈黙の後、彼は薄い意識のまま、答えた。
「俺はあいつが傷つく姿を見たくない。助けになるなら……もしも、俺が必要ならばだけど。俺がやった事が逆にあいつを危機に追い込むような事になって欲しくもない」
「私は彼女の支えになりたいかどうかを聞いたんだよ。その気持ちがあるかどうか」
深刻に考え込む一真に日向は幾分か和らいだ笑みを浮かべた。もっと率直な気持ちをぶつければ良かったのか。一真は正直な所の思いを告げようとしたが、そこで躊躇した。この十年間、彼女を支え続けたのは日向だ。少なくともその一人である事に変わりはない。
再会して一日も経っていない自分が軽々しく支えたい等と言っていいのだろうか。
「俺は日向、お前がこれまであいつを支えてきたその年月とその思いを知らない。それはお前にしかわからない切実な物だと思うから……」
我ながらくどいと思ったが、日向は黙ってその続きを待っている。
「だけど、俺も月の事を大切に思っている。支えてやりたい」
日向はふっと笑って、人差し指と薬指を一真の目の前に突き出した。パタンという音と共に一真は布団に顔を埋めていた。部屋には静かな寝息が微かに響いた。
「人間て本当に不思議」
日向は再び窓枠に腰かけ、遠くの神社を見つめ一人ごちた。夜の帳の中で輝く紅い瞳は楽しんでいるようにも悲しんでいるようにも見える。放った言葉は一真に対してなのか、それとも神社にいる者達に対して言ったのかもしれない。
「忘れているようで、全然忘れてない。誓った約束を守ろうとするんだから」
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