対峙――父と娘

 どこかに隠れる間もなく、竹刀の刺さった面を隠す間もなく、木造の扉が横に開いた。その場に立つ男を一真は知っていた。


 十年前、まだ幼い頃に見て以来だがその風貌と言い知れないオーラは脳裏に焼き付いている。


 長身痩躯、鷹のように鋭い目、短く切り揃えられた髪と髭、それに皺ひとつない白装束と袴は、乱れのない男の心をそのまま表したかのようだ。


 だが、姿そのものには大した意味はない。顔と名前を一致させるのが昔から苦手だった一真にとっては、特に。


「あ……」どうにか、月が一言を発したが、続かなかった。見えない力で空気そのものを鎮められたかのようだ。数秒がずっしりとした長い時間のようにのしかかる。


 が、当の本人は、今のこの状況に驚き、考え込んでいるようだった。


「一真君、久しぶりだね」月の父、春日刀真は、ようやくそう切り出した。鐘のような重々しい響きが一真の心に熱い興奮にも似た感覚を流す。


「はい、お久しぶりです。その……月と剣道をしていたのですが」


「それはわかる」


 刀真はすっと音もなく床を滑るようにして床に置かれた面へと進んだ。それに手を伸ばし、持ち上げる。誰もそのことに何かも言えなかった。


「月の面だ。そして、これはこの道場の竹刀ではない。君の物かね?」


「はい」どうにかそれだけは答えられた。


「未熟だな」


「え?」


 一真は驚き、刀真の顔を見た。


 が、視線すら合わせて貰えない。刀真の視線は面に注がれている。と、その左手で一真の竹刀の柄を掴んだ。そのまま、無造作に引き抜く。すっとまるで鞘から抜くように。


「一真君、お返ししよう。尤も、もう使い物にはならんだろうが」一真は反射的に右手を差し出した。その手の上に刀真は竹刀を落す。


「君はもう帰りなさい。事情は月から聞く」


 刀真の言葉はあまりにもそっけなかった。油断していたら、そのままその空気に呑まれてしまいかねない。一真は慌てて言った。


「そういうわけにはいきません。怪我させてしまったし、その面だって……」


「君が弁償できるような額ではない」


「バイトしてどうにか返しますから」


 一真は一歩も引かない。刀真はようやく一真を見た。髭で覆われた口が諦めと懐かしさの混じった微笑を浮かべている。


「君は昔から頑固だったな」


 刀真は軽口を叩いている。それに気づき、一真は場を締め上げていた空気が緩むのを感じた。


 刀真は神棚の前に座り、他の三人にも座るように勧めた。足は崩して楽にして良いと言われたが、一真はあえて、正座した。自慢ではないが、一時間でも二時間でも正座している自信がある。


 身体の重心を微妙にずらすことで足を麻痺させない座り方を経験的に学んでいる。月も正座で、その隣の舞香も二人に合わせるようにぎこちなく正座をしている。


 月は事の経緯を話し始めた……のだが、あまりにも説明に戸惑った為に一真と舞香がフォローした。結果として殆ど一真が喋って説明してしまった。


 刀真は言葉の足らない月の話にも、途中から痺れを切らして説明を受け継いだ一真の話にも、決して言葉を挟まずに忍耐強く傾聴していた。話が終わった後しばらくもその沈黙は続いた。


 あまりにもそれが長いので、話がまだ続いていると思っているのではと思い


「あの、今ので全部です」と一真は思わずつぶやいてしまった。刀真は小さく頷き、やがて口を開く。


「物の怪と戦った事と、その時に君が巻き込まれた事までは知っていたが」


「俺だけじゃありません。未来もです」反射的に一真はそう答えたが、直後に後悔した。横で月が気まずそうに俯いている。


「そうだったな。だが、愚かだ。彼女の正体を知ってなお、戦いを挑むなど正気の沙汰とも思えん」


 刀真の言葉は最も。当たり前の事しか言っていない。それが一真の神経を逆撫でする。彼の言葉には一真が月の力になれる事を証明したいという願いが考慮されていない。


 が、それをそのまま伝えても、同じ言葉を繰り返されておしまいだろう。


「君は月を助けるどころか、危機に陥れいれかねない。あの未熟な突きがそれを如実に証明している」


 刀真は心を読んだかのように言った。その意味を計れない程、一真も“愚か”ではない。あの時のような怒りに任せた行動が、どれほど危険な事かくらいは。


――だが、と思う。


「そんなことはない」


 その言葉は一真の口から出たものではなかった。


「月」


 刀真は驚き、太刀の切っ先のような視線を投げかけてくる月を見た。


「一真のせいで私が傷つくなんてことは」


「お前は分かっていない」


「父様こそ、一真の事なんか何もわかってない」


 再び重い沈黙が道場を包んだ。二人はまるで見えない稲妻をぶつけあっているように睨みあっている。やがて、刀真が深く息を吸い込んで何かを言おうとしたその時だった。


 それは道場の開いた窓の外、木で出来た柵をすり抜けて、飛んできた。一真にはそれが白い鳥のように見えたがすぐに錯覚であると気づいた。それは一枚の紙だった。刀真の目に落ちたそれは。


――人の形をしていた


 それが何なのかを聞くよりも先に、ぼうっと光る姿が形を取る。白装束を着た男だ。肩幅の広く背は低い。顔は平凡で印象に残りづらいが、両眼に宿る意志の強さはただならぬ雰囲気をかもしだしていた。


『刀真様。どうやら奴が我々の罠の一つに掛かったようです』


「位置は?」はきはきとした声で言う男に対して、刀真はまるで今までの対立が幻であったかのように、落ち着いた声で聞いた。


『どうやら栃煌神社の近くのようです。“ロ”の罠です』その言葉に刀真は少し考えてから言った。


「私が行こう」


『は? あなた自ら?』


「月は先の戦いと旅の疲れがある。それにこれは空振りに終わる可能性もある。大した事はなかろうが、念のため、ロ組にも警戒に当たらせろ。が、私が行くまで手出しはするなよ」


『は、了解』


 その姿は出てきたのと同じく、一瞬にして消えて、一枚の紙となった。よく見るとそこには筆で何かが書きなぐられている。


 一真には理解できない古文にあるような文字だった。今の用途を見る限り、通信機のような物なのだろうと、どこか呆けた表情で一真は考えた。その現実味がない現象に、先程まで話していた事柄が頭から吹っ飛んでいた。


 ふと横を見た一真はびくっと肩を震わせた。隣に座る月が物凄い剣幕を無言で放っていた。ゆっくりと吐き出される言葉は、呪詛のように憎々しげだった。


「父様、なぜ私に行かせてくれないの?」


「少し頭を冷やせ。それと、一真君にはきちんと戦いに関わらないようにと話すのだぞ」


 刀真は立ち上がり、その場を去って行った。すぐ横を通り過ぎたが月はそっぽを向いたまま、床を見つめている。肩を怒らせほっそりとした白い手を膝についた姿はどこか可愛らしくすらあり、思わず一真の頬が緩んだ。瞬間、月の瞳が一真を貫いた。


「何? そんなにおかしい?」


「いや、そんなことはないけど」


 膨らんだ頬を突いてみたいなどという自殺的な事を考えながら、一真は言った。すると実際にその頬が突かれた。後ろにいつの間にか現れた式、日向によって。


「ほらほらー、そんなに怒んないのー!」


「ひ、日向、勝手に出てこないで!」


 両手を上げて抗議する自分とそっくりの主人の顔を日向は、摘まんでは引っ張り、引っ張っては伸ばした。柔らかい肌はマシュマロのようだ。


「はぁ、二人ともよく緊張しないなー。私は心臓が止まると思ったぞー」舞香が痺れた足を揉み解しながら極限まで高まった緊張のためいきを漏らした。


 一真よりもずっと接する機会が多いのだから、刀真の持つ雰囲気に慣れていても良さそうなものだが、舞香は魂でも抜き取られたかのようにぐったりと腕を道場の床に投げ出していた。


「いやまぁ、緊張はしたけどさ。ところで奴って誰だ?」


「私達が追っていた物の怪の事かな」日向が、月の首に腕を巻きつけたまま答えた。その下から月が重そうにというよりも、鬱陶しそうな顔で補足する。


「さっき私が言っていた“人の心の闇”に付け込んで悪さする物の怪だね」


「悪さって例えば?」


「心のトラウマを掘り出したり、心理的な苦痛を与えて自殺に追い込んだりとか、かな」


 舞香がまたしても、さらりと言った。彼女にとっては物の怪よりも刀真の方が恐ろしいのか、それとも、一真がテレビのニュースで聞いた殺人事件を友人に話すのと同じように、日常的な事なのかもしれない。一真はその事から頭を振り払うように、別な事を聞いた。


「でも、それが物の怪の仕業かどうかなんて、俺にはわかりようもないだろ」


「物の怪が引き起こして起きる事件はどれも異常、その現象だけで神隠しや幽霊みたいな都市伝説となってしまうような事だから。何か周りで最近変な事は起きた?」


 月の言葉に一真は考えた。まず家庭。妹の花音は……まあ、いつも通り。動物好きでよく猫やら犬を家に持ち込み、帰ってきた親に怒られるそんな妹だが、今のところ変な生き物を持ち込んだこともないし、なにか心理的な面でいつもと変わった様子もない。


 ただ、時々両親が帰ってこない事を寂しがることはあった。犬や猫を家に持ち込むのもそのせいだろう……。


「一真?」


「のわっつ!?」


 月の顔面が間近に迫り、一真は離れるようにのけぞった。その額を月の手が触れた。温かく柔らかい感触が肌に直接伝わり、仄かな香りが鼻腔をくすぐる。何をされたのか分からず、一真はそのまま硬直していた。運動した時とは別の熱さが体の中で這い回る。


「あの、月さん。一体それはどういうつもりで?」


「熱あり」月はふむと口を曲げて言った。そして、一真の顔が赤い事にも気づく。ただ、その理由がなぜなのかまで分かっていないようだが。


「今日は早く帰って寝た方がいいよ。なんだか、話が頭に入ってこないくらいに熱があるみたいだし」


「いや、聞かれた事に答えなかったのは悪かったけど、熱いのは風邪とかそんなことじゃなくてだな」


 が、月はそんな事には耳を傾けない。病人と呪詛を掛けられた人はいつも大丈夫だって言うとかなんとか呟きながら、立ち上がった。両手をつかまれ一真も立ち上がった。


 なんだか、自分だけ幼児に逆戻りしたような気分だった。しかしよくよく考えると月自身もお姉さんぶっている幼児に見えなくもない。


 傍から見ている日向と舞華はくすくすと袖で口を抑えながら笑っていた。微笑ましいとでも思っているのだろうが、こちらとしては大迷惑だ。ただでさえ高い熱がさらに上がる。


「ほら、おんぶしてあげようか?」


「いい! いらん!!」思わず叫ぶと、月はふっと笑った。


「冗談。でも、昔はおぶって上げたこともあるよね」


 そんな事もあったのか? 一真はかつての思い出を探ったがそんな記憶はどこにも見当たらなかった。女の子におぶってもらうとは、どれだけ軟弱な男だったんだと一真はかつての自分を責めた。


「いや、本当に歩けるから。自分で。それとさっき思い出したけど、妹の花音が一人で留守番しているんだ。いい加減帰らないと。明日、また聞くから」


「あ、ちょっと待って」


 背中を向けるよりも前に、月が呼び止めた。今度は何事かと思っていると、月は日向を手招きした。


 日向自身もなんで呼ばれるのかわからないように首を傾げながら近づいてきた。長い緋袴のせいで、一真は今更気づいたが、日向は床に足をつけていない。床よりも数センチ上の宙に浮いていた。


「なに、月」


「一真の護衛役になって」


――何!? という三人分の声が道場に響いた。


「物の怪に襲われないように。まだ、異変は解決出来てないし」


「えー、でもさぁ……」月の頼みに日向はちらっと視線を一真に向けた。一真を嫌っている風ではなかった。


「護衛必要?」


 言っている事の意味が図りかねず、一真は問いかけるように月を見た。護衛は必要ない? 確かに物の怪に襲われる確立自体は低そうではあるが0ではない筈。断るとすれば、別の理由がありそうなものだが。


「巫女殺し」月は一言そう答えた。それの意味は全くわからないが、穏やかな物でないのは明白だ。


「それが、この町で起きている怪異につけられた名前。物の怪に襲われ憑かれた人が皆女性で、その物の怪の正体も女性の気配を持っているから」


 だったら、なおさら一真の護衛をする事自体に意味があるとも思えないが。


「勿論、襲われている人は女性だけど、男が襲われないという保証もないし。それに一真だけじゃない。一真の周囲の人を観察して護ってあげて」


 日向は考え込むようにじっと月の顔を見ていたが、やがて大げさな溜息を一つつき、一真の肩を叩いた。小さな手に軽く込められた力はそこらへんの男のパンチよりも痛く、一真は顔をしかめた。


「ふふふ、わかった。わかった。でも、知らないよ? 護衛中に月の想い人を奪っちゃうような事になっても」


「え!? そ、それは困る!」


 途端に、月は狼狽えて、腕を日向に向かって伸ばした。その手を逃れるように日向は身体を回し、何を考えたのか一真の腕を抱いた。何か柔らかい衣の生地とも違う感触が伝わり、一真は反射的に腕を引き抜こうとした。


 が、動かない。式神の腕力は怪物じみていた。腕はまるで地面に根を張る大木か何かのようにぴくりとも動かず、空しく揺れる。


「ふっふふ、式神と人との間に生まれる新たな恋愛ドラマが今ここに」


「おい、放せ! 馬鹿!! てか、想い人ってなんだよ! 思い出の人って意味ならあながち間違ってはないけどさぁ!!」


 その頭を空いている方の腕で、押しのける。月が必死な形相で日向を追いかけながら叫んだ。


「返して!」


「俺は物じゃない!!」日向に振り回されながらすかさず抗議した。助けを求めるように舞香を見ると彼女は笑っていた。


 床を転げまわりながら。そのまま、笑い死んでしまえと一真は心の中で呪った。誰も一真の言う事なんか聞かずに好き勝手しているこの成り行きその物が全くもって我慢ならない。


 数時間前に生きるか死ぬかの逃走劇をしていたのが嘘のようだ。数分間式神と主人とがじゃれあった――月は必死な形相だったが――後、「一真には手を出さない」という護衛として適切なのかどうかが疑われるような約束をかわし、日向は一真の護衛に立つ事となった。


 中身がどうあれ、見た目が十代の少女にしか見えない彼女を家に連れ込む事に抵抗のある一真だったが、普段は札に姿を変えていれば問題ないと月に言われ渋々承諾した。


 神社を出る頃にはもう夜中の八時となっていた。いつも以上に運動したせいか、身体の節々の関節やアキレス健が悲鳴を上げていた。こんなに運動するのは冬の寒稽古の時くらいなものだ。


「一真、かずま」


 鳥居の外まで見送りに来た月が後ろから近づきながら呼びかけた。五才の時に聞いた声と響きが似ていた。一真が振り向くと無邪気な笑みが月の口元に浮かんでいた。思わず微笑み返したくなったが、道場での試合を思い出すと一真の顔は暗くなった。月はそれを察してか、慌てて手をパタパタと振った。


「さっきの仕合の事は気にしなくていいから。明日一真の通う学校に行くから。その、色々……えっと」


 月はそれがいつもの癖なのか、口ごもり、袖を合わせながら日向の顔を見た。日向も日向で慣れているらしく、冷たく突き放すように言う。


「ほらー、ちゃんと自分で言ってよね。私の顔を見ても言いたい事は書いてないから」


「色々と、その……」


「あぁ、わかってる。わからない事があったら俺に言ってくれ」


 一真が答えると月は屈託ない笑みを浮かべて頷いた。それは幼い頃に見た笑みと同じ雰囲気だったが、どこか違う……これは、年相応の落着きがもたらしたものだろうか? それとも物の怪との戦いで月自身も精神がすり減っているのだろうか? その疑問の答えは少なくとも月の顔には書いてなかった。


「じゃあ、また明日な」



「うん、またあした」


 そう言って別れ、ふと夜空を眺めた。そこにも月があった。


 そうだ。明日がある。これから何日、何週間と一緒にいられるのだ。前とは違う。


 これから長い時間を掛けて月の事を知ればいい。そして、助けになる事があれば支える。何も、戦いで助ける必要はないのだから。友達として助ければいい。



 その時間はたっぷりあるのだから。



 夜空に浮かぶ朧月が風に流されてきた雲に覆われるのを一真はいつまでも眺めていた。

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